第95話
眉目秀麗、沈魚落雁、解語之花。
古今東西、美人を形容する言葉など無数に存在する。
九奈白凪という少女の容姿は、それらのどれを用いても言い過ぎにはならないだろう。おまけに才気煥発、聡明でスタイルもいい。対人弱者という欠点を除けば、九奈白凪にはおよそ非の打ち所がない。そんな完璧で美しい少女の顔面が今、織羽の視界の大部分を占領していた。
「織羽。少しいいかしら?」
「構いませんが、近いです」
今の今まで、織羽は自室で眠っていた筈だった。
それが一体どうしたことか、何者かの気配を感じて目を開けてみれば、ご覧の通りである。なお、織羽が目を覚まして最初に思った事は、『自分は今ウィッグをつけていただろうか』などという、至極どうでもよいことであった。
長く整ったまつ毛、仄かに感じる吐息。
織羽を押し倒すような体勢、ベッドの上で交わる視線。微塵も顔色を変えない織羽だが、これは明らかに異常事態であった。以前に比べ柔らかい態度をとるようになった凪ではあるが、しかし唐突にこのような行動に出るような少女ではない。仮に悪戯であったとしても、冗談であったとしてもだ。
「話を伺いますので、取り敢えず退いて下さい」
「あら、どうして? このままじゃ駄目なのかしら?」
織羽の頬に、凪の艷やかな黒髪が落ちる。『良い訳あるか』と叫びたかったが、しかしそれすらも危うい。
無理やり引っ剥がそうかと考える織羽であったが、少しでも身動ぎすればおかしなところに触れてしまいそうで。
そうしてまごついている間にも、凪の顔は更に近く、もっと近く。
こうなっては最早、織羽に出来ることなどなかった。
「……一体どういう状況ですか、これは」
「世界最強の探索者さんは、これをどういう状況だと思う?」
「さて……夜這いとでも言うんですかね、一般的には」
「ふぅん……それじゃあつまり、こういうこともするのかしら?」
心臓に毛が生え散らかしている織羽であっても、これには流石に息を飲んだ。
もうあとほんの少し、僅かに動くだけで唇が触れそうになっていた。それこそ、声を発するだけでも。
淡く色づいた頬、熱を帯びた瞳。蛇に睨まれた蛙というのは、あるいはこんな気分なのだろうか。
そんな風に織羽が考えた、次の瞬間――――目の前にいた美少女が、よく知る強面ヒゲゴリラへと変わっていた。
「残念、俺でした」
「オエエエエエエエ!」
* * *
薄暗い部屋の中、織羽がベッドから飛び起きる。
背にはびっしょりと、気持ちの悪い汗を感じていた。
「悪夢ってレベルじゃないでしょ」
ここ数年で――――否、これまでの織羽の人生で、最も酷い寝起きだったかもしれない。
安堵からか、それとも疲労からか。ため息を盛大にひとつ吐き出し、頭をくしゃくしゃとかき回す。それと同時に大きくズレる髪。どうやらちゃんと、ウィッグは付けて寝ていたらしい。
「……おえっ」
まだ鮮明に思い出せてしまう悪夢に、織羽が小さくえずく。
夢を見るのは久しぶりだった。その久々の夢がアレなのだから、嫌な気持ちにもなろうというものである。何故あんな夢を見てしまったのかはまるで分からないが、とにかく気分は最悪だった。
ベッドで上体を起こしたまま気を落ち着ける織羽。彼がのそのそと動き出したのは、それからたっぷり十分ほども経ってからだった。無駄に可愛らしいもこもこパジャマ――先日密が送ってきたものだ――を脱ぎ捨て、部屋に備え付けの簡易シャワーへと向かう。そのまま冷水で寝汗を流し、先程の悪夢を振り切るかのように、手早くメイド服へと着替えを済ませてしまう。
そう、本日は九月の一日。つまりは学園が再び始まる日である。
あんな地獄のような光景に、いつまでも囚われているわけにはいかないのだ。
「さて……それじゃあ気を取り直して、今日も一日頑張りますか!」
* * *
「そういえば二学期って、何か特別な学校行事とかあるんですか?」
五人揃っての朝食の場で、世間話程度の話題提供を織羽が行う。今朝見た悪夢のことなど、既にすっかり忘れた様子である。
そんな織羽の問いに答えるのは凪だ。無論、口の中に食べ物を入れたまま話したりはしない。
「ダンジョン実習のように特殊なものは無いわね。強いて言えば『秋麗祭』があるかしら」
「秋麗祭」
「ええ。平たく言えば文化祭ね」
文化祭。
それは学生たちが主体となって行われる、学校行事の中でも特に大きなイベントのなかのひとつだ。一部の学園でのみ実施されているダンジョン実習とは異なり、文化祭は大抵の学校で行われている。故に学園に通っていなかった織羽であっても、その存在は聞いたことがあった。
白凪学園もその例に漏れず、十月の半ばに開催されるとのこと。
初めての文化祭とあってか、心中で密かにテンションを上げる織羽。
「あ、それはちょっと楽しみですね」
「文化祭! いいねー! 青春だねー! 私も学生時代はいろいろやったなぁ」
「みっ、皆で準備するのが楽しい、ですよねっ」
学生時代を思い出したのか、亜音や椿姫もまた織羽に賛同してみせた。
唯一花緒里だけは、遠い目をするばかりで特に何も語りはしなかった。もしかすると彼女には、何か文化祭にまつわる苦い思い出でもあるのかもしれない。
俄に盛り上がりを見せる九奈白家のメイド三人。
しかし続く凪の言葉は、どうにも不穏な気配を感じさせられるものであった。
「まぁ……アレも特殊といえば特殊なのかもしれないけれど」
「お嬢様、怖いこと言わないで下さい」
「別にそんなつもりはないけれど……ま、規模だけはそこらの学園の比にならないわ。精々楽しみにしておきなさい」
「セリフが完全に悪役のソレなんですよねぇ……」
どうやら詳細について語るつもりはないらしく、凪は悪戯っぽく笑うのみに留めた。織羽もまた初めての文化祭となるためか、若干の不安要素を感じつつも、しかしそれ以上深くは追求しなかった。その後は亜音や椿姫の学生時代へと話題が移り、彼女らが経験した数々の面白エピソードで盛り上がる。語りに夢中となった亜音や椿姫は気づいていない様子であったが、しかしその間花緒里は頑として何も語らなかった。
(花緒里さん、話振られるのを明らかに避けてるなぁ……)
(これほど分かりやすい花緒里を見るのは初めてね……面白そうだわ)
織羽と凪の二人は、いつか花緒里から学生時代の話を聞き出してやろうと決意した。




