第一部 最終話
波乱まみれの探協総会から暫く。
迷宮情報調査室のオフィスは、既に普段どおりの様子へと戻っていた。
「いてっ」
ソファの上でちくちくと刺繍に勤しんでいた織羽が、じっとりと自身の左手の薬指を見つめれば、そこには赤く小さな珠が滲んでいた。何故だか妙な恥ずかしさを覚え、織羽が室内を見渡す。普段は何かとやかましいオフィスではあるが、現在は織羽と、そして山積みの書類と格闘する隆臣の二人しかいなかった。
織羽が裁縫中に怪我をするのは珍しい。
というより、これまでには一度もなかった事だ。織羽が呆けているのは、誰の目にも明らかだった。
あの殆ど死人のようだった少年が、漸くやるべきことを見つけたらしいと、隆臣が喜んだのはつい先日のこと。
少年の生き生きとした瞳を見たのは、隆臣にとっても初めてのことだった。本当はこんな瞳をするのかと、当時は柄にもなく感慨に耽ったものである。
しかし数日前、織羽は突然帰ってきた。再び、その瞳に空虚を宿して。
あれほどやる気に満ちていた瞳が、ほんの数日でここまで濁るものだろうか。織羽曰く『任務が終わったので、予定通りに戻ってきた』とのことであったが――――何かがあったのは明白だ。それからというもの、織羽はずっとここでダラダラと過ごしている。
そもそもの話、隆臣は織羽に対し帰還命令など出してはいない。当然だ。九奈白凪の側に付けていた方が織羽にとって良い方に転がると、隆臣はそう考えていたのだから。つまり織羽は勝手に帰ってきたのだ。無論隆臣は理由を問い質したが、返る言葉は『別に何も』の一点張りであった。
しかし一体何があったのか、隆臣にはその大凡の予想がついていた。
隆臣がちらりと、書類越しの織羽へと視線を送る。そうして小さなため息とともに、呆れるように一言。
「なあ」
「んー?」
「……さてはお前、男だってバレたんだろ。 んで、それを嬢ちゃんに拒絶されたとか、どうせそんなんだろ?」
「……は?」
隆臣の予想はドンピシャだった。バレたのではなく自分からバラした、という違いはあるが。
伊達に何年も織羽を見ていない――――と言いたいところだが、しかし隆臣がこの答えに行き着いたのには、もっと別の理由がある。
その理由は織羽の格好にあった。
任務が終わったという割に、彼は未だ女装メイド状態のままなのだ。誰がどう見ても未練タラタラである。
「べべべべ別にそんなんじゃないが? いきなり何言っちゃってるワケ? 意味不明すぎて、ヘソで茶が沸くんだが?」
「キョドりまくってんじゃねぇか。つーか女装やめてねぇし」
「これは別にアレなんだが? 毎日女装しすぎて、クセになっちゃっただけだし? 今はしてないほうが違和感あるっていうか?」
「あーはいはい、わかったわかった。はぁ……んなこったろうと思ったよ。まぁ、俺にも責任の一端はあるわな……」
織羽が目を泳がせながら、刺繍枠へと高速で針を刺しまくる。分かりやすいにも程がある反応だった。
とはいえ、今回の任務を命じたのは他でもない隆臣だ。普段ならばゲラゲラと笑って転げ回っているところだが、今回ばかりはそんな気になれなかった。隆臣が責任を感じていることに気づいたのか、織羽が窓の外へと視線を向ける。
「まぁ……遅かれ早かれ、だよ。いつかはこうなってた」
「……すまん」
織羽の情操教育にある意味丁度良いのではと、そう思って引き受けた今回の護衛依頼。そんな隆臣の目論見通り、途中までは順調そのものだった。なんだかんだと言いつつも、織羽がメイド生活を楽しんでいるのは見て取れた。だが結果はご覧の通りだ。
彼が他者との関わりを苦手としていることは、隆臣もよく知っている。親睦を深めた相手から拒絶される、その辛さも知っている。
故に隆臣は、諦観に染まる瞳で虚空を見つめる織羽に対し、ただ謝ることしか出来なかった。
しかし謝罪はしつつも、隆臣には少し気になる事があった。
以前に少し会話をした限りではあるが――――その時に受けた印象では、凪は随分と織羽の事を信頼していた。それこそ『長年連れ添った主従』だと言われても、なんの違和感も感じない程に。それほどまでに、二人の関係は進展しているように見えた。だからこそ、たとえ性別がバレたからといって、凪がその程度で織羽を拒絶するようには、隆臣にはどうしても思えなかった。
「……なぁ織羽。嬢ちゃんには俺から――――」
「必要ないし、別に隆臣の所為じゃない。それに、どのみちただの仕事なんだ。何度もやってきた、いつも通りの中のひとつ。任務が終われば元に戻る、ただそれだけの話だよ」
「いや、だが……」
「あーもう、うっさい! この話はこれでお終い! いいからさっさと次の仕事よこせ!」
織羽はそう言うと、隆臣に向かってピンクッションを投げつける。数本の針が刺さっており、投擲武器としてはそこそこ危険な代物だ。誰がどう見ても空元気だが、しかし本人が『もう終わった事』にしてしまっている。罪悪感を覚えている隆臣には、それ以上何も言えない。飛んできたピンクッションを右手で払い除け、隆臣が再びため息を吐き出す。そうしてゆっくりと息を整え――――織羽の空元気に答えるよう、一枚の書類をつまみ上げた。
「そう、か……。んじゃあ次はこの――――」
隆臣が次の任務を与えようとしたその時、オフィスの扉が控えめにノックされた。
顔を見合わせる織羽と隆臣。誰何などするまでもなく、誰が来たのかはすぐに分かった。迷宮情報調査室のメンバーの中で、入室時にノックをする者など密しかいないのだから。そうして扉を開いたのは、やはり密であった。
「室長、実は来客が――――あぁ、織羽もいましたか」
「来客ぅ……? つーか、ウチに直接か? どういうことだよ」
迷宮情報調査室は公的機関ではあるが、極めて秘匿性の高い部署である。
たとえ上からの命令であろうとも、書面での通達が殆どなのだ。直接の来客など、普通に考えればあり得ない。
「実は少々困った事になっていまして……とりあえず、案内しても良いでしょうか」
「あ? いいワケねーだろ追い返せ。つーか、そんくらいお前も分かってるだろ? そもそもなんでこの場所が――――」
ぐだぐだと隆臣が理屈をこね始めた、その瞬間。
隆臣の言葉を遮るように、勢いよくオフィスの扉が開かれた。
「いいから開けなさい!」
凛とした、織羽の耳にすっかり馴染んだ声が聞こえた。
予想もしていなかった事態に、織羽が思わずソファから飛び上がる。そうして視線を、声のする方へと向ければ。
「え……なっ……お、お嬢様!?」
ここに居るはずのない――――二度と会う事はないと思っていた少女が、そこにいた。
少し機嫌が悪そうな、つんと尖った唇。凪にしては珍しい表情だった。
「……見つけたわよ。随分と手こずらせてくれたわね、織羽?」
「は? え、いや……何故ここが……?」
「苦労したわよ……本当に。こんな組織が国内に存在するなんて、知らなかったもの。貴女を探す糸口がまるで掴めなくて、おかげでお父様に頭を下げる羽目になったわ。恐らく、私がお父様に何かをお願いしたのはこれが初めてよ。それと、お父様の大層なニヤケ面もね。一体どうしてくれるのかしら?」
胸の前で腕組をしたまま、織羽の方へつかつかと歩み寄る凪。
対する織羽はといえば、未だに混乱したままであった。阿呆のように口を半開きにしたまま、ただ呆然と凪の瞳を見つめている。
「なん……で……」
「……あの時は、すぐに答えを出せなくてごめんなさい。でも私の答えを聞く前に、黙って消えるのはどうかと思うわ」
凪はそう言って、懐から何かを取り出した。あの日、織羽が置いていった黒いリボンであった。
それは、織羽が敬愛する先生からの贈り物。織羽がメイドであるための証。
「これが私の答え。勝手に居なくなるなんて許さないわ。私にはまだ、あなたが――――貴女が必要なのよ」
「えっ……あ……」
リボンを半ば強引に織羽の手に握らせると、次いで凪は隆臣の方へと振り返る。
「契約は延長よ。問題あるかしら?」
「クククッ……いんや、無いぜ。嬢ちゃんの身の安全が保証されるまで、っつー条件ではあったが――――基本は三年契約だったしな。その分の金も嵐士から受け取ってるし……解約も延長も、少なくとも三年間はそっちの好きにしてもらって結構だ」
「そ。ならそうさせてもらうわ」
どこか嬉しそうに、歯を見せながら笑う隆臣。
事務処理の事を考えてか、密だけは頭を抱えていたが。
「……帰るわよ、織羽」
そう言って再び、凪が織羽の方へと向き直る。
少しだけ染まった頬が、凪の胸の内を表しているかのようで。
自身を放ったまま矢継ぎ早に決まってゆく状況に、しばし呆気にとられていた織羽。
しかし凪に呼びかけられたことで、漸く自体を飲み込めたらしい。織羽がぐにぐにと顔を揉みほぐし、手渡されたリボンを胸元に取り付け、最後に『ぱちん』と頬を叩く。そうして織羽はまっすぐに凪を見つめ、にこりと優しく微笑んだ。
それは凪が何度も目にしてきた、いつもどおりの笑顔だった。
「――――畏まりました、お嬢様」
第一部 完
最終話と言ったな。
あれは嘘だ。
あとがきで長々と語るのもあれなんで、この続きは後ほど、活動報告にて行います。




