第91話
数ヶ月前、織羽へと与えられた任務。
それは九奈白家にとっての敵対勢力が排除されるまでの間、凪を危険から護ること。
ここで言う敵対勢力とは『黒霧』のことではない。『黒霧』に依頼を出した黒幕、つまりは皇グループCEO、皇龍造の事を指している。所詮彼らは金で繋がっていたに過ぎず、ある意味では雇用関係のようなものだ。しかしその依頼主が存在しなくなったことにより、『黒霧』は本件に関わる理由が無くなった。加えて、『黒霧』の中核を為す戦力が立て続けに削られたこともあり、当分の間は動くこともままならないだろう。
勿論、九奈白の娘というだけで、そこらの子女よりは余程狙われやすい立場にいる。しかし『黒霧』程の巨悪に狙われることは、殆ど無くなったと言っていいだろう。市内には治安維持部隊が目を光らせていることもあり、凪を狙うことによって発生するリスクを考えれば、そこらのチンピラ程度にはそもそも手を出す理由がない。要するに、凪の安全は既に確保されているということだ。少なくとも、普通の学園生活を送ることは出来る筈だ。
要するに織羽の役目は、もう終わっているのだ。
織羽と凪の関係など、『黒霧』と皇のそれとなんら変わりがない。
所詮はただの護衛と護衛対象。それ以上でもそれ以下でもないのだから。
本来であれば、任務が終わった以上は黙って撤収するだけだ。
その後の報告など、紙切れを一枚送付すればそれで済む。事実、これまでの護衛依頼で織羽はそうしてきた。ただ淡々と報告書を作成し、それを受けた密が、諸々まとめた書類を依頼主へと送るだけ。立つ鳥跡を濁さずというわけではないが、任務後まで関わる事はしてこなかった。
そんな織羽が、最後にこうして凪の前に姿を見せた理由。
それは――――。
「お嬢様、これを覚えていますか?」
織羽がおもむろに、一枚のカードを取り出す。
それはダンジョン実習の際にも見せた、六桁順位の探索者証であった。
「それは、貴女の……」
「そうですね、私の探索者証です。まぁ偽造なんですけど」
「なんですって? 貴女、さっきから一体何を言って――――」
「私の本当の探索者証は、こっちなんです」
そう言って今度は、別のカードを懐から取り出す織羽。見慣れぬ漆黒のカードであった。
「……何よそれ。それが探索者証ですって? そんなの見たことないわよ?」
「正真正銘、本物ですよ。ほら、ここに協会の認可印があるでしょう?」
手渡されたカードを、眉を顰めながらじっと見つめる凪。
凪は立場上、探索者証を目にする機会が多い。探索者向けの装備を購入する際には、探索者証の提出が義務付けられているからだ。
そんな凪が見たところ、成程確かに探協が発行したもので間違いない。しかしこのカードには、どこを探しても順位が表記されていなかった。
「順位は裏面ですよ」
探索者証のデザインに差異があることは、一般には知られていない。なにしろ、デザインが異なるのは一桁が所持するカードのみ。たとえ探協職員であろうとも、そうそう目にする機会はない代物だ。凪が知らないのも無理はないだろう。織羽に言われ、訝しみつつも裏面を眺める凪。そこには装飾の施された『Ⅰ』というローマ数字がひとつだけ。
「探索者証って、実は一桁のものだけデザインが違うんです。流石のお嬢様も見たことなかったみたいですね」
「は……? 貴女まさか……」
「はい。私、実は一位なんです」
「なっ――――!?」
織羽が桁外れの実力を持っていることは知っていた。偽造とまでは思っていなかったが、探索者証に表記されている順位と、大きなズレがあるとは思っていた。しかし流石の凪も、まさか一位だとは思っていなかった。一位と言えば誰もが知る、誰も正体を知らない最強の探索者。眼の前に居るメイドがそうであると、この漆黒のカードは言っている。
驚きに再び目を見開く凪。
しかし一方の織羽はといえば、『そんな事はどうでもいい』とばかりに話を続けた。
「ところでお嬢様。何か気づきませんでしたか?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! まだ理解が追いついていないのよ! これ以上何を……」
この時、凪は気づかなかった。
平静を装う織羽の声が、僅かに震えていた事に。
織羽が今日、こうして凪の元を訪れた理由。
それは凪への感謝と、そして何よりも未練のためであった。
最初は乗り気ではなかった。女のフリをして護衛など、バカバカしいとさえ思っていた。
そんな中、白凪館のメイドたちと出会い、リーナやルーカス達と出会い――――そして凪と出会った。
この頃はまだ『不思議と悪くはない』といった程度にしか思っていなかった。織羽が自身の気持ちに気付いたのはつい最近の事だ。
凪のおかげで再び歩き出せたあの日、織羽は初めて自分の気持ちに気がついた。
此処を離れたくない。
もう少しだけこの場所に――――彼女の傍らに居たいと思った。
しかし織羽は所詮、嵐士の依頼によって派遣された護衛に過ぎない。任務が終わればそれまでの、仮初のメイドに過ぎない。凪の身の安全が確保された今、織羽に残された業務は撤収作業だけなのだ。終わりは、もう目の前まで迫っていた。
もしそれ以上を望むのであれば、九奈白凪本人の希望によって為される、護衛契約の延長が必要だった。もしそれを、織羽の方から望むのであれば――――精算しておかなければならない嘘がある。これまでは、嘘を吐かなければならない事情があった。しかしこれからは、嘘を吐いてもよい理由がない。
意図はどうあれ、凪を騙していたことには変わりがない。裏切られることを何より恐れていた少女を、最初から騙していたのだ。
許されるとは思っていない。受け入れられるとは思っていない。
けれど、もしそれでも彼女が望んでくれるのなら。
「これが……私の『嘘』です」
織羽がそっと、カードの一部へと指を指す。
とても戦闘を生業としている者とは思えない、綺麗な指だった。
「――――え?」
間の抜けるような、珍しい凪の声。
そこに書かれていたのは、『Male』という四文字だった。
「――――私、男なんです」
凪が揺れる瞳で織羽を見上げる。
何が、誰が、何故? 大量に浮かんだ疑問が、濁流となって凪へと襲いかかる。
「え……なっ……は?」
技能使用の可否は精神状態に大きく左右される。今の彼女は『高速思考』さえ機能しない程、ひどく動揺していた。永遠にも思えるような静寂の中、凪の頭を様々な考えが巡る。流石の凪といえども、考えを纏める時間が欲しかった。混乱した頭であっても、これがとても重要な分岐点である事は理解出来た。しかし、織羽の言葉の真意を上手く理解出来ているのか、自信が持てなかった。しっかりと冷静な頭で考えて、それから答えを出すべきだと思った。
「っ……ごめんなさい、少し……部屋に、戻るわ。貴女も……あなたも、一度部屋に戻りなさい」
所々で躓きながらも、どうにか言葉を絞り出す凪。
織羽が少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。しかしそれも一瞬の事。その後はすぐにいつも通りの顔へと戻り、ただ一言。
――――畏まりました、と。
* * *
如何に大人びているといっても、凪は所詮十六になったばかりの少女だ。
自身の感情を完全に押し殺すことなど出来はしない。思いもしなかった真実を一度に叩きつけられて、冷静さを保っていられるほど成熟していない。否、成熟した大人ですら難しいだろう。凪が驚愕し、動揺し、感情を乱したことを責められる者など、世界のどこにも居はしないだろう。
凪が半ば逃げるような形で、部屋へと戻ってから数刻。
次第に回り始めた彼女の頭は、自身の失態を強烈に告げていた。
悩む必要などない事だった。
少し考えれば分かることだ。少し記憶を思い起こせば、簡単に辿り着ける答えだった。
織羽が性別を偽っていた理由?
そんなもの、『私の為』以外に何があるというのか。きっかけが何であれ、その一点だけは間違いない。
どこの誰であっても構わないと、そう何度も言っていたのは誰だ。
貴女の正体がなんであれ気にしないと、そう言ったのは誰だ。
気に入っていたのは彼女の外見なのか。気に入っていたのは彼女の内面ではなかったのか。
普段から飄々としているあのメイドが、実は人付き合いが苦手だという事には薄々気づいていた。
何しろ凪自身もそうなのだ。そして同類であればこそよく分かる。先の告白が、どれほど勇気のいる行為だったか。
あの不遜なメイドが、声を震わせていた。
あの不躾なメイドの、指が震えていた。あれほど強い存在が、自身からの『拒絶』を恐れていた。
だというのに、あの時の自分はそれに気付けなかった。あの時の自分は答えを『保留』にしてしまった。
成程確かに、あの時の自分は動揺していた。混乱していた。まともに思考が出来る精神状態ではなかった。
しかしそんなことはどうだっていい。本当の性別など、さしたる問題ではないのだ。あの時、言うべきだった言葉はただひとつ。『だからどうした』と、すぐに言わなければならなかった。
そんな後悔と自責の念が、凪の内から次々に吹き出していた。
だからこそ今、凪は早足で織羽の部屋へと向かっていた。
(……主失格だわ。あの子を信じると言いながら、あの程度のことで狼狽えて……みっともないったらないわね)
織羽は凪に嘘をついたと、そう言った。
ならば自分も同じだ。『信じる』と口にしながら、揺れてしまった。手放したくないと、本心からそう思っていたくせに。
(まずは謝らなくては。それから――――雇用契約の延長も)
織羽が言った『白凪館を離れる』という言葉の意味。
その真意に凪は凪は気づいていた。先の総会での一件で、護衛としての契約が満了となった事に。
そして父が一度雇用契約を結べたのなら、今度は自分との契約を求める事も可能な筈、と。
仮に断られた場合でも、凪は織羽を手放すつもりはなかった。最悪の場合は家の力を使ってでも契約を結ぼうと、そう考えていた。
(こう思うのはもう何度目か分からないけれど――――ふふっ、我ながら変わったものね)
自嘲気味に笑う凪の瞳に、何の装飾も為されていない地味な扉が映る。
白凪館の最も奥まった場所にある、織羽の為に用意された部屋だ。
扉を前に、小さく深呼吸をする凪。
所詮は凪も対人弱者。相手がメイドとはいえ、部屋を訪ねるにはそれなりの勇気が必要だった。
「織羽。入るわよ?」
出来る限りの威厳を保ちながら、けれど自分でも『違う』と思うような声量で。
ゆっくりと扉を叩き、返事も待たずにドアノブへと手をかける。
「さっきはその、みっともない姿を見せてごめんなさ――――」
音も、匂いも、気配でさえも。
静かに開いた扉の先には、もう何もなかった。
唯一、恐らくは私物であろう黒いリボンだけが、机の上に残されていた。




