第83話
両親を事故で失い、以降は愛する妹と共に施設で過ごした。
その妹すらも、病に倒れた。不治の病ではないが、しかし治療には高額な費用がかかる病だった。
一般家庭ではとても捻出が出来ない程の金額だ。まだ幼かった織羽には、妹を助ける術がなかった。
そうして絶望に打ちひしがれていた時、施設の近くにある山中でダンジョンの入口を見つけた。まだ未発見の、織羽だけが知るダンジョンだ。だから織羽はダンジョンに挑んだ。それは希望だったから。それしか希望がなかったから。
施設の職員の眼を盗み、来る日も来る日もダンジョンへ挑んだ。
年端もいかない少年が、たったひとりで。
探索者登録などしていないし、出来ない。
そもそも未発見ダンジョン故に、買い取りをしてくれる探協すらまだない。織羽に出来ることなど、運良く回復薬が見つかることを祈るだけだった。
魔物を見つけても、逃げることしか出来なかった。
それでもすこしずつ、牛歩のようにダンジョンを進んだ。日に日に容態が悪くなってゆく妹を前に、もう少しだけ、あともう少しだけ、と。
織羽が『永遠の一瞬』に目覚めたのはこの頃だ。
範囲内の時間を引き伸ばし、完全ではなくとも、限りなく停止へと近づける。一秒を十秒に、コンマ一秒を百秒に。謂わば問題の先送り、時間稼ぎの極致と言える能力だった。技能発現の最年少記録などというものがあるとすれば、まず間違いなく織羽が該当するだろう。
だが、所詮は技能。
効果時間には限りがあり、範囲もそれほど広くはない。世界の理不尽を正せる程、個人の力は強くはない。
どうにかなるわけがなかった。間に合うわけがなかった。
今際の際、妹は笑顔で織羽を見つめ、こう言った。
――――もしもこの先、困っている人がいたら……私だと思って助けてあげてね。
――――兄さんは幸せになってね。約束だよ?
絶望、倦怠、惰性。
全てを失った織羽は、それでもダンジョンに潜り続けた。何も救えなかったその手に、妹との約束だけを握りしめて。幸せなど知らない。どうすればいいのかまるで分からない。なのに足を止めることは許されない。妹が残した最期の言葉は、こうして織羽を縛る呪いとなった。
どれほどそうしていただろうか。
意味もなく、目的もなく、ただ生きた屍のようにダンジョンへと潜る日々。織羽しか知らなかった筈のダンジョンには、いつしか探索者協会の建物が建てられていた。とはいえ、織羽のやることは何も変わらない。ただ惰性のみでダンジョンに潜り、理由もなく魔物を殺し続けていた。そんな折、夜遅くにダンジョンから戻ってきた織羽へと、怪しい男が声をかけた。
――――お前、ウチで仕事やらねぇか?
織羽はまるで知らなかったが、どうやら男は数日前から、この辺りに滞在していたらしい。なんでも仕事仲間を探しているらしく、毎日ボロボロになりながらもしっかりと生還する、そんな織羽の事が気になっていたそうだ。
正直に言えば、この頃の事を織羽はよく覚えていない。
だが男の言う『何かを護る』というその仕事に、自分の中の何かが反応したことはぼんやりと覚えている。
当時の織羽を知る者は、『あの頃の織羽は酷かった』と口を揃えて言う。
現在の織羽が曲がりなりにも笑っていられるのは、男と同僚達のおかげだった。
しかし表面上はどうあれ、本質はそう簡単に変わらない。
眼の前の誰かを助けたいと思うのは、何も救えなかった過去の裏返し。今の織羽にとって『護る』ということは、善意ではなく一種の贖罪行為だ。今でも幸せの意味など分からないし、自身の生に意味や目的など見い出せてはいない。何も救えなかった自分への言い訳に、代わりの誰かを救っているだけだ。
では全てが嘘なのかと言えば、それも違う。
本心から、誰かを救いたいと願う自分は確かに居る。それは決して嘘ではない。
だが、技能を使う度に脳裏を過るのだ。救えなかった者と、救えなかった自分が。
べっとりとこびり付いた過去が、織羽の足を引くのだ。そうした複雑な感情が綯い交ぜとなり、未来に進むことも、過去へ戻ることも出来なくなっている。織羽にとって、この技能は最早牢獄も同然だった。引き伸ばされた灰色の世界の中で、矛盾を抱えながら、たった独りで立ち止まることしか出来ない。
来栖織羽という少年は、酷く歪な存在だった。
* * *
「お嬢様、今なんと……? まさか、今のが見えていたのですか?」
「……ええ」
「ど、どうして!?」
織羽の能力を知るものは勿論いる。迷宮情報調査室の同僚――――隆臣や密、星輝姫や千里などがそうだ。しかし彼らは織羽の説明によって『識っている』だけであり、織羽の見ている世界を実際に体感したわけではない。そんな織羽だけが知る色褪せた世界に、九奈白凪が初めて辿り着いた。
「私、技能が使えるようになったみたいなの」
「なっ……お嬢様、それは真ですか!?」
凪の言葉に食いついたのは花緒里だった。
「私もさっき確信したばかりなの。いえ、少し前から不思議な感覚はあったのだけれど……」
「ですがお嬢様はダンジョンになど、先日の一回くらいしか……」
幼い頃から凪を知る花緒里にとって、まさに青天の霹靂とも言うべき事態だった。技能とは、熟練の探索者のみが得られる特殊能力。それが一般的な認識だ。しかし花緒里の知る限り、凪がダンジョンに入った事など、それこそ先の実習以外には無い。技能が発現したなどと言われて、はいそうですかと信じられる筈もなく。
「いえ……一度でもダンジョンへ入れば、技能が発現する可能性はあります」
だが織羽は違う。
そうした稀有な例を、織羽は身近な人物で知っている。そして、そうして得た技能が酷く特殊なものだということも。
「お嬢様。どういった能力が発現したのか、ご自身で分かりますか?」
「ええ……恐らくは『高速思考』、ないしそれに類するものだと思うわ」
織羽の能力は、あくまでも時間の引き伸ばしに過ぎない。限りなく停止に近づけることは出来るが、しかし完全に停止させることは出来ない。
一方、凪の能力は思考の加速だ。思考故に身体を動かすことは出来ないが、やはり限りなく停止に近い時間を得ることが出来る。織羽が引き伸ばした時間の中で、通常通りに世界を認識出来る。故に凪には見えていた。認識出来ていた。織羽が銃弾を掴み取り、男たちをボコボコにした瞬間が。
「成程、それならば確かに……お嬢様、貴女は私の――――」
織羽が凪へと向き直り、珍しく真面目な顔を見せたその時。
どこか外の方から、何かが激しく崩れ落ちたような音がした。加えて、展示棟そのものが小さく揺れている。そこらの棚が倒れたような小さな音ではない。なにか建造物が崩壊したかのような、大きな大きな音だった。無論その音は織羽達の居るVIPルーム内に留まらず、会場全域にまで轟いていた。階下から聞こえるざわめきがその証左だ。
「ッ……今度は一体何事ですか!?」
どうやらまたトラブルが発生したらしい。次から次へとやってくる謎の事態に、花緒里は珍しく半ギレとなっていた。さもありなん、今はまだ凪の告白を消化することすら出来ていないのだから。しかし状況は花緒里の理解を待ってはくれない。
(地震……いえ、違うわね。偶然と呼ぶには、いくらなんでも色んな事が重なり過ぎだわ。状況から察するに、さっきの襲撃も無関係とは思えない。だとすると……)
凪が顎に指をあて、事態の把握に努める。
つい、と正面を見てみれば、珍しく険しい顔をした織羽が何かに集中していた。今の今まで気づかなかったが、よくよく見てみれば織羽の耳に小さなイヤホンが装着されている。
(通信機? 一体何を……いえ、今更ね。私に対する二度の襲撃と、お父様が面接も無しに付けた護衛。四桁のルーカスをして『底が知れない』と言わせる実力と、それに見合わない順位の探索者証。そして素人の私でも分かるほど強力な技能。つまりこの子の正体は――――)
これまでに見てきた織羽の言動。
その断片を繋ぎ合わせるべく、凪の頭が高速で回転を始める。
「織羽」
「っ……お嬢様、どうかされました? さっきの続きならまた後で――――」
「お父様が居ない以上、私は九奈白の娘として、今この会場で何が起きているのかを知る義務があるわ」
織羽が振り向けば、そこには鋭い眼差しを向ける凪がいた。
元より強い目つきの少女だが、もちろんそういうことではない。
「さっきの音と揺れ、これまでにあった九奈白への……いえ、私への攻撃。そして貴女。これらは全て無関係ではない。そうよね?」
「っ、それは……」
威圧感、とでもいうのだろうか。然しもの織羽も気圧され、言葉に詰まってしまった。
凪がこれほど真に迫る顔を見せたことなど、織羽と出会ってからは一度もなかった。それほどまでに、今の彼女は本気で問うている。
「これは私の勝手な想像なのだけれど……この会場を襲撃し、総会を台無しにすることで、九奈白を貶めようとしている者が居る。腹立たしいことに、無関係の者まで巻き込んで。以前に二度私を襲ったのも、恐らくは同じ手合ね。貴女はそれに対抗するため、お父様が雇ったどこぞの組織の人間……といったところかしら? そして今まさに、貴女の仲間が外で戦っている――――どう? 合っているかしら?」
凪が語る『勝手な想像』とやらは、現在の状況をほぼ完璧に言い当てていた。
僅かな手がかりをひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丁寧に組み上げれば――――成程確かに、いずれは答えに辿り着けるのかもしれない。げに恐ろしきは『高速思考』というべきか、凪はそれを今、この場で瞬時にやってのけたのだ。
「想像と言うには具体的過ぎますね……物分り良すぎません?」
「生憎と、考える時間はどこかの誰かがたっぷりとくれたのよ……ということは、正解かしら?」
事此処に至り、隠し切ることは最早不可能というところまで来ていた。
これは殆どただの答え合わせだ。ここで話を誤魔化したところで、この聡明な少女は早晩確信へと至るだろう。そう考えた織羽は小さく溜息を吐き出し、凪の質問に答えるべく腹を括った。
「……概ね、お嬢様のご想像通りです」
「あらそう……思ったより簡単に吐いたわね。あと四パターンほどは一応考えていたのだけれど」
「ぐぬぬ……あっ、でも先生の意思を受け継ぐグランドマスターメイド候補生というのは、本当に本当です!」
「それは大層どうでもいいわね」
「ぐぬぬ……」
どうやら凪は、最も可能性の高そうな選択肢を最初に叩きつけただけらしい。
カマをかけられたというわけでもないだろうが、してやられた感は凄まじかった。これにより織羽が隠している事実は、残すところ性別のみとなってしまった。いわば絶対阻止防衛線である。
全てをゲロった所為か、つんと唇を尖らせることしか出来ない織羽。
そんな織羽を見て、凪が小さく微笑んだ。だがその唇は、小さく震えているように見えた。
「……私はね、貴女の正体なんてどうだっていいと思っているわ。貴女が何処の誰であろうと、私にはもう関係ないの」
「お嬢様……」
九奈白凪は、過去にトラウマを抱えている。
かつて信じていた者に手酷く裏切られ、それ以来他人を信じることが出来なくなってしまった。故に他人を寄せ付けず、自らの足だけで歩くことを選んだ。しかし人とは所詮、独りでは生きていけない生き物だ。孤高といえば聞こえは良いが、実際にはただの孤独でしかない。無論花緒里のような者も側には居たが、凪の抱える恐怖を解きほぐすことは出来なかった。その時、凪もまた歩くことを止めてしまったのだ。
過去に縛られた少年と、過去に囚われた少女。
色褪せた世界で立ち止まってしまった二人。
「……私はもう、貴女を信じてしまっているもの」
しかし今。
過去に囚われ人を信じられなくなった少女が、恐る恐る、少年の心の扉を叩いている。
無自覚ではあったが、しかし他でもない少年が背中を押したのだ。再び歩き出せるよう、少年が彼女を導いたのだ。
「私は九奈白の娘として、この街を守りたい。けれど情けないことに、今の私にはその力がない。だから――――これは命令ではなく、ただのお願い」
恐らくは初めてであろう他人への願いが、少し不安そうな凪の瞳が。
かつての妹と重なり、少年の心へ静かに火を灯す。
「織羽、私に力を貸して頂戴」
灰色だった世界に、色が戻ったような気がした。




