第65話
「はっ!?」
ふんわりと柔らかいベッドの上で、九奈白嵐士は目を覚ました。
特に異常のない視界の中、周囲を冷静に確認する。知っている天井、知っている家具。それらを以て、自らの状況を大まかに把握する。
「ここは……ふむ……白凪館か?」
なにぶん忙しい身の上であり、中々顔を出すことも出来なかった。数えれば入学からこちら、丸一学期分もの間だ。故に嵐士は今日、どうにか捻出した仕事の僅かな合間を縫って、娘の顔を見に来たのだ。驚く娘の顔を見たいがために、事前連絡はせずに。というよりも、父親が娘に会う為にわざわざアポ取りなど、そんな必要がどこにあるのか。口には出さないが、彼は常々そう思っていた。
そうして館まで送らせた後、秘書とボディガードとは門前で別れ――――
「……はて?」
館に到着したあたりで、ぷっつりと記憶が途絶えていた。加えて、後頭部にはじんわりとした鈍痛を感じる。客室に寝かされていた現状と、欠落した自身の記憶。これらを勘案すれば、何が起きたのかなど自明の理であった。
(……いかんな。どうやら知らずのうちに、ずいぶんと疲労が溜まっていたらしい)
久方ぶりに娘と会える喜び、無駄に気を張る必要のない空間。疲れも相まってか、そうした諸々に油断し自分は倒れたのだろう。そう結論付けたところで、頭の中のモヤがすっきりと晴れた気がした。嵐士の中で、全ての辻褄が合った証拠だった。自身の見事な推理力を以て、自らの精神に異常がないことを確信する。
(我ながら名推理だ。成程、雑賀君の言うことは正しかったらしい。そのうち纏まった休みでも取るとしよう)
日頃より、秘書からは休養をとるよう進言を受けていた。
しかし自分は大丈夫だと、折角の忠告を無視した結果がコレである。体調管理を怠るなど、立場を考えれば許されないことだ。嵐士は自身の至らなさを恥じるとともに、献身的に働いてくれている秘書へ、心中で礼と詫びを送る。とはいえ、直接伝えることはないのだが。
* * *
「はぁ……わかりましたか?」
「はい!」
困った顔で叱る花緒里と、元気よく返事をする織羽。
正座をする織羽の首には、『猛犬注意』のプラカードがぶら下げられていた。
織羽としては、勝手に敷地内へ入ってきたオッサンを捕らえただけなのだ。普段から様々な仕事を行っているために忘れがちだが、織羽の本分は館の警備である。つまりは職務通りに働いただけなのだ。それが分かっているからこそ、花緒里もあまり強く責められないでいた。
しかし織羽の行動に一切の瑕疵がなかったかといえば、そうでもない。せめて誰何するなり、まずは文化的なやりとりを挟むべきであろう。緊張状態の国境地域でもあるまいし、無警告で意識を奪うのは流石にない。それらを鑑みた結果『次からはもうすこし穏便に』という、やんわりとした注意だけで終わっていた。
実際のところ、織羽はそれなりに反省していた。
花緒里は知らないことだが、織羽は相手に敵意があるかどうかが分かるのだ。加えて、後手に回っても対処出来るだけの能力がある。故に悪いことをしたとは思っていないが、『初手昏倒』はやりすぎだったと感じているのだ。ただあまりにも堂々と門を潜ってきたものだからつい、というやつだ。
「別に反省しなくていいわよ。黙って入ってきたお父様が悪いんだから。むしろ、よくやったと褒めてあげるわ。次からはいちいち確認せず、こっそり捨ててきて頂戴」
「はい!」
一方で、父親の干渉を嫌っている凪は、どこか嬉しそうに織羽の働きを労った。
半ば無理矢理に専属メイドを付けられたことを、未だ忘れてはいないのだ。やって来たのが織羽だったことについては、今となっては僅かながらの感謝もしているが。
しかしそうして微笑む一方で、凪には他に気になることがあった。正直に言えば、父への対応などどうでも良いのだ。
(それよりも……織羽はお父様の顔を知らない……?)
織羽がどこの誰かなんてどうだっていい。
今となってはそう考えている凪だが、しかしどうしても引っかかった。
(あの子はお父様が送り込んだ目付役の筈……それが依頼主の顔を知らないなんてこと、あり得るのかしら……?)
メイド派遣会社である『エターナルヘヴン』。そこからやってきたという織羽。
メイドとして適当に雇った相手がたまたま強いなど、確率的に考えてあり得るのだろうか。それも恐らくは国内有数のレベルで。そもそもあんないかがわしさ満点のメイド派遣会社などに、父が目をつける筈もない。つまりどういう経緯かは不明だが、父は織羽の実力を知っていたのだ。だからこそ目付役兼護衛として彼女を採用した。凪はこれまでそう思っていた。
だがそうだとしたら、二人は直接顔を合わせている筈だ。あの――自分で言いたくはないが――子煩悩な父が、自分に付ける使用人の面接をしていない筈がないのだ。
(……誰かの紹介? それも、あのお父様が面接をスキップするほど信用出来る相手から……? そんな相手、お母様以外にいるとは思えないけれど……。これは何か……とても重要な情報のような気がする)
そうしてまた思考の海へと漕ぎ出した凪を、即座に呼び戻す声がした。
「凪」
撫でつけた髪に鋭い目つき。一分の隙もなく着こなされたスーツと、四十の半ばにしては随分と若く見える精悍な顔つき。探索者でもないというのに、他者へと威圧感を与えるその佇まい。この大探索者時代に於いて、ある意味では国の頂点とも呼べる程の存在。凪の実父であり九奈白家の現当主、九奈白嵐士がそこにいた。顔つきはあまり似ていないが、しかしどこか冷たい雰囲気を纏っているあたりが、凪とそっくりであった。
「……お久しぶりです、お父様」
「ああ」
とても父娘の会話とは思えないような、端的で愛想のないやりとり。
だがこの父娘にとっては、これが普通だった。嫌っているというわけではないが、凪は過保護気味な父親が苦手だ。嵐士は嵐士で、感情を表に出すのが苦手なタイプだ。故にこうして、一見するとギスギスしているような空気になってしまうのだ。別に仲が悪いというわけではないので、花緒里などからすれば微笑ましい光景ですらあった。
「旦那様、お体は大丈夫ですか?」
「狩間君か。問題ない、少し疲れが溜まっていただけだ。世話を掛けたな」
花緒里が声をかければ、なんでもないとばかりに軽く手を上げる嵐士。
その言葉を受け、花緒里が凪へとアイコンタクトを送る。
(どうやら過労で倒れたものと考えておられるようです)
(都合がいいわね。その方向で話を合わせるわよ)
この間僅かに一秒。まさに阿吽の呼吸であった。
まさか『あなたが雇ったメイドが、あなたをボコって昏倒させました』などとは言えるはずもない。凪がそう言えば存外許してくれそうではあるが。ともあれ、先ずは本日の用向きを確認しなければならない。多忙な身である筈の父が、わざわざ自ら足を運んできたのだ。何か重要な用件があるのかもしれない。
「ところで、今日はどういった用件で? 総会も近いというのに、こんなところに居て良いのですか?」
「む……言葉に棘を感じるな。父親が娘の顔を見に来て、それの何が悪いのかね? それに先の実習の件もある。電話で声を聞くだけでは、やはり心配でな」
例の事件の直後に、凪は嵐士と通話を行っている。
もちろん安否確認のためだが、しかしそれだけでは満足出来なかったらしい。故に愛する娘の顔を見るため、こうして直接足を運んだというわけだ。しかし何度も言うが、嵐士は非常に多忙である。
「お父様の立場を考えれば、普通に悪いのでは? それほど暇だとは思えませんが」
「……機嫌が悪いのか? よし、小遣いをやろう」
「結構です」
送金でもしようとしたのだろうか。いそいそとスマホを取り出す嵐士であったが、凪には素気なく断られてしまう。
ただの娘のご機嫌取りだというのに、放っておけば億単位でぽんぽん振り込む男だ。そもそもお金に困っていない凪が、そんな大金を受け取る筈もない。というより、凪は父親のこういう部分が苦手なのだが――――悲しいかな、金持ちの親馬鹿には未だ届かずにいる。
「……ところで、先程からずっと気になっていたんだが」
そうして凪の対面、ソファに腰掛けた嵐士が切り出す。
「彼女は一体、何をしでかしたんだね?」
その視線の先には、プラカードをぶら下げて正座する、キリッとした顔の猛犬の姿があった。




