第64話
コツリと、指が机を叩く。
ほんの僅かな音だというのに、不思議なほどに耳朶を打つ。
そうして凪は、自身の立てた小さな音により、漸く思考の海から抜け出した。
(……あぁ、また考え込んでしまったわ)
例の実習以降、凪は思索に耽ることが多くなった。
内容は様々だ。自身の経営する店のこと。学園のこと、数少ない知り合いのこと。目前に迫った総会のこと。それに付随して、誘拐事件のことや襲撃事件のこと。果ては自身の従者のこと、織羽のこと。例を上げればキリがないほど、とにかく色々な事に考えを巡らせてしまう。
凪には地位がある。立場がある、理想がある。
故に元より考え事の多いタイプではあるが、それにしても増えたものだ。
(これが悪いことだとは思わないけれど……あまり浸るものではないわ)
ずいぶん長く、こうしていた気がする。
しかし自ら淹れた紅茶を口に含めば、意外にもまだしっかりと熱かった。不思議に思い時計へと視線を向ければ、記憶の中にある時間からそれほど経過していない。精々が五分ほどだろうか。陽はいまだ中天にも届かず、自身の記憶に間違いがないことを教えてくれる。だというのに、凪は少しの空腹感を覚えていた。思考にもカロリーを消費するとは言うが――――
(……何か軽いものでも、織羽に作ってもらおうかしら)
そう思い立ち、机上に置かれた呼び出しベルを軽く叩く。設置されてからもう随分と経つが、つい数ヶ月前までは殆ど使うことのなかったベルだ。小気味よい音を奏でる筈だったそれは、しかし腑抜けた摩擦音を返すばかりであった。
「あら?」
鏡のように磨かれた表面には、小さく驚いた凪自身の顔が歪んで映る。
カバーを外して裏面を見てみれば、軸の部分がすっかりヘタれてしまっていた。
(……仕方ないわね。厨房に行けば食材はあるでしょうし、自分で作れば済むことよ。それに、もしかしたら亜音がいるかもしれないし)
そもそも、これまでの凪はずっとそうしてきたのだ。小腹が空いたからといって、わざわざメイドに頼んだりはしなかった。
それが今はどうだ。織羽を呼ぼうとして、自分でつくろうとして、最終的には亜音に期待する。選択の優先順位がかつてと入れ替わっていることに、凪自身はまだ気づいていなかった。仮に気付いたとして、今の彼女であれば顔を赤らめる程度で受け入れられるのかもしれないが。
そうして凪は席を立ち、部屋を後にする。
メイドたちは出払っているのか、館内は随分と静かであった。
続いてゆっくりと階段を降り、正面玄関へ。
埃ひとつ落ちていない玄関ホールの隅には、空のバケツと織羽の箒が立て掛けられていた。あの小憎たらしい完璧メイドが、掃除道具を放置するとは考えにくい。恐らくは掃除中になにかしらの用件が発生し、一時的にあそこへ置いているのだろう。またぞろ椿姫の手伝いだろうか。
椿姫は庭師のくせに虫が苦手だ。
そして夏といえば虫の季節でもある。椿姫が庭仕事の最中に虫と遭遇し、その声を聞いた織羽が飛び出していった。恐らくはこんなところだろう。ただ織羽の箒が立て掛けられていたというだけで、根拠も何もあったものではない稚拙な推理だが。しかし不思議と、そう的外れな想像でもない気がした。
そこで凪はふと、自身が玄関ホールのど真ん中で立ち止まり、再び思案していることに気がついた。
(疲れているのかしら……? 不調は感じないけれど、今日はもうのんびりしようかしら)
総会参加に向けての準備などとうに終えているし、あとは細かな調整を適宜行うだけだ。別段、他に急ぎの用があるというわけでもない。結局凪は一日の休養を取ることに決め、再び厨房へと歩を進める。そうして訪れた亜音の城たる厨房では予想通り、城の主が調理を行っていた。何やらメモを取っているあたり、新メニューの開発でも行っているのだろうか。
「あれ、お嬢様? どうかしました?」
「ええ。少しお腹が空いたから、軽く何か作ろうかと思って」
「サンドイッチでよければすぐに用意出来ますよ」
「そうね……折角だし、お願い出来るかしら?」
「かしこまりー!」
自分で作るつもりではいたが、亜音が居るのなら話は別だ。凪も料理は得意な方だが、所詮は素人に過ぎない。超一流のプロである亜音に比べれば、当然ながらその質には雲泥の差が出る。より美味しいものが出てくる状況で敢えて自作するほど、凪は料理が好きなわけでもない。
「ありがとう。助かるわ」
「いえいえ。いつでもどうぞ」
亜音が手早く作った――流石というべきか、凄まじいクオリティである――サンドイッチの皿を手に、凪が礼を一言告げて踵を返す。そうして厨房から出る前に、極めて自然な態度を装いつつ亜音へと問いかけた。
「……そういえば、織羽を見なかったかしら?」
若干の間が出来てしまったあたりが、対人弱者であることの証左であった。
少し前までは、意識的に他人との関わりを絶っていた凪だ。こうして誰かを探すという行為そのものが、なんというか、少し気恥ずかしかったのだ。別に後ろめたいことなど何も無いのだから、堂々と尋ねればよいだけなのに。なんとも面倒な性格だが、こればかりはそう簡単に慣れそうもなかった。花緒里がこの場に居なかったことが救いだろうか。もしこの場に居合わせたなら、またぞろ揶揄われていたに違いない。アレは長い付き合いということもあり、こうした凪の心境に敏感なのだ。
「オリオリならさっき、庭のあたりで椿姫ちゃんとワイワイやってましたよ?」
どうやら凪の推理は概ね当たっていたらしい。
そうして亜音と別れ、二階への階段を上がっている途中のことだった。凪が振り返り見下ろす先で、玄関の扉がおずおずと開かれた。
「そーっ……」
擬音を口にしながら、忍び足で館内に侵入するメイドが一人。
いわずもがな、その正体は織羽であった。
「……何をしているのかしら?」
「違うんです。ちょっとめずらしい虫を捕まえただけで……いえ、もちろん今から捨てようと――――あ、よかった! お嬢様でしたか!」
初手から言い訳を始めた織羽は、しかし相手が凪だということに気づき、ほっと安堵の息を漏らした。コソコソしていたのはどうやら、花緒里に見つからぬようにするためだったらしい。成程確かに、虫を館内に持ち込めば、花緒里から叱責を受けること請け合いである。とはいえ、それは凪が相手でも同じであった。
「捨ててきなさい」
「えー」
えー、ではない。
弱点らしい弱点などこれといって見当たらない、完全無欠のお嬢様たる凪ではあるが、実はあまり虫が好きではないのだ。本人曰く『好きではないだけで、別に苦手というわけではない』とのことだが、それが苦し紛れの強がりであることは誰の目にも明らかである。故に目の色を変えて叱責することはないものの、館内への持ち込みを認めるほど寛容でもなかった。
「でもほら、確認の意味でも一応見て頂けませんか?」
(確認……?)
織羽の微妙な言い回しが、凪にはどうにも気になった。
「――――いいわ、一応見てあげる。ただしそこまでよ。それ以上は中に入れないこと」
そう言って玄関の扉を指差す凪。『階段上からなら見てあげる』という意味だ。
「あ、ホントですか? そうしてもらえると助かります。椿姫さんが失神しちゃって、私では判断が出来なくて」
織羽の言葉はいちいち不穏だった。
確かに椿姫は虫が苦手だが、しかしそれでも庭師の仕事はちゃんと全うしている。そんな彼女が失神するほどとなると相当だ。『見てやる』などと言ったのは早計だっただろうか。一体どれほどキモい虫を捕まえればそうなるのかと、凪の背中に悪寒が走る。
しかしそんな凪の予想は、斜め上方向に外れることとなる。
「これなんですけど……」
そうして織羽が運び込んできたのは、いかにも高級そうなスーツに身を包んだおじさんであった。白目を剥いたまま気絶し、織羽に足を掴まれ雑に引きずられている。そればかりか、玄関の敷居部分にガンガンと頭を打ち付けていた。
「椿姫さんの手伝いをしていたところ、このおじさんが敷地内に侵入してきまして……とりあえずで意識奪っちゃったので、花緒里さんに見つからないよう、ひとまず倉庫に隠しておこうかと思ったんです」
「いろいろ言いたいことはあるけれど……まず、隠してどうするつもりだったのよ……」
「一応尋問したあと、夜になったらこっそりリリースしようかなと」
番犬としては優秀だが、思考はまずまずサイコであった。
ともあれ、凪には得心がいった。織羽の微妙な言い回しも、椿姫の失神も、そしておじさんの正体にも。
「はぁ……まぁいいわ。やっぱり捨ててきなさい」
「ですよね。万が一、お嬢様の知り合いとかだったらどうしようとか思ったんですけど……違ったのなら良かったです。じゃあ適当に捨てて――――」
織羽がおじさんを再び引きずろうとした、その時だった。
玄関の扉が開き、外出していた花緒里が姿を現した。『やばっ』といった顔を見せる織羽を見つめ、直後に足元のおじさんを一瞥。
「あらあら……? こんなところで一体何を――――おや、そちらは……?」
そうして数瞬固まった後、珍しく大きな声を上げた。
「――――だ、旦那様!?」




