第51話
「ふッ!」
短く吐き出された息と共に、織羽の右腕が消える。
あまりの速度ゆえか、一切の音すらも伴わず。少女が回避出来たのは、偏にその類まれなる戦闘勘のおかげであった。箒の軌跡が見えていた訳ではない。僅かな攻撃の起こりと気配。たったそれだけで回避してみせたのだ。織羽に負けず劣らず、やはり少女も化物の類であった。
「あははは! 殺す気マンマンじゃん! やっぱ表の人間じゃないでしょ!」
「失礼な。私はごく普通の一般通過メイドです」
躱せる確証などなかった筈だが、しかし振り抜かれた箒を一瞥もしない。言うまでもないことだが、織羽の攻撃には一切の加減が見られない。それはつまり、回避出来なければ終わりということだ。そんな生と死の狭間にあってなお、少女はただケラケラと笑うばかりであった。何かに秀でる者というのは大抵、どこかしらのネジが抜けているものだが――――
「楽しいなぁ! 戦いはこうでなくちゃ! この国に来て、キミに会いに来てほんっとうに良かったよ!」
「帰って、どうぞ」
「つれないなぁ! こっちはこんなにもキミに焦がれてるっていうのにさぁッ!」
そんな素気ない一言と共に、再び振るわれた高級箒。まるで地を這うトカゲのように、限界まで体を低くしてそれを回避する少女。大げさな動きのように見えるが、箒の軌道が見えているわけではないからだろう。いずれにせよその瞬発力、反応速度、戦闘センス、バランス感覚。どれをとっても超一流であった。それを見た織羽はといえば、『スカートでよくやるなぁ』などと非常にどうでもいいことを考えていたのだが。余裕がないのやら、あるのやら。密あたりがこの場にいれば、『真面目にやって下さい』などと小言のひとつも頂戴しそうである。
「ちょこまかと鬱陶しいです――――ねッ!」
「くふふふふ! いいね、その汚い虫でも見るような瞳。ゾクゾクして濡れちゃいそ♡」
足元の虫を叩き潰すかのように振るわれた、織羽の箒による一撃。
しかしそれもまた、少女には回避されてしまう。嫌悪感満点の視線が気持ちよかったのか、恍惚とした表情まで浮かべる始末である。
「この変態――――ッ!?」
即座に追撃を加えようとした織羽であったが、その手がぴたりと止まる。先程まで眼の前に居たはずの少女が、一瞬のうちに姿を消していたからだ。想定外の動きに驚きはしたが、とはいえ見失ったりはしない。織羽が頭上を見上げれば、そこには戦斧を振り上げながら跳躍する、イカれた戦闘狂の笑顔があった。その跳躍力たるや、フロアの天井にまで届きそうな程であった。
(自身にも効果が及ぶタイプの技能か!)
少女が織羽の攻撃を何度も回避出来ているように、戦闘に於いて相手の動き、その起こりを捉える事は極めて重要だ。起こりとは、つまるところ予備動作のこと。筋肉や目線の僅かな動き等がそれに該当する。一切の前触れもなく動くことなど人間には不可能。そうであるからこそ、相手の動きが予測出来るのだ。しかし今、織羽には少女の起こりが見えなかった。それが意味するところはひとつ。織羽の目を以てしても気づけないほどの、僅かな動作のみで跳躍したということだ。技能で自身の体重をゼロか、或いはそれに限りなく近い数値へと変える事が出来るのなら。如何なる体勢からでも、僅かな動作のみで跳躍することが可能なのかも知れない。
「どぉーんっ♡」
織羽がそう考えた次の瞬間には、戦斧が振り下ろされようとしていた。当然ながら、その重さを数倍にして。
先の一撃とは訳が違う。織羽の技量を以てしても、上からの攻撃は流石に受け止められない。武器は問題ないであろうが、単純な威力の問題で織羽自身が押しつぶされてしまうからだ。故に織羽は回避を選ぶ。選ぼうとして――――背後から迫るナイフに気がついた。
「私を忘れてもらっては困ります」
「ッ!? 確かに忘れてましたッ!」
タイミングも完璧だった。おまけにどういうわけか、放たれたナイフは不可解な軌道を描いている。
頭上からの戦斧、背後からのナイフ。この瞬間、織羽はふたつの攻撃へと同時に対処しなければならなくなった。ナイフが直線軌道であったなら、回避は容易であっただろう。だが曲線を描きながら多角的に飛来するナイフは、それを許してくれそうにはない。控えめに言って絶体絶命であった。
――――こうして攻撃を受けているのが、織羽でなければの話だが。
* * *
ボクが今の組織に入ったのは、ただ強い相手と戦いたかったからだ。
ただボクが強くて、そんなボクに場を用意すると言われたから。それ以外には何もない。それ以外には何もいらない。命賭けで戦っている瞬間だけが、ボクが幸せを感じられる唯一の時間だった。狂犬だの何だのと呼ばれたりもしたけれど、そんなものはまるで気にならなかった。
だってそうでしょ?
美味しいものを食べた時、高い買い物をした時。恋人と過ごす時間、ぼんやりと過ごす時間。幸福を感じる瞬間なんて、人それぞれ違うものなんだから。
きっとこれは、持って生まれたボクの欠陥なんだろう。
でも、それでいいと思っていた。誰の為でもない、ただ自分の欲を満たす為だけに生きる。それが人間という生き物で、それがボクという生き物なんだから。組織に忠誠心なんてない。戦いの場をくれるから従っているだけ。それ以上でもそれ以下でもないし、それはきっと向こうも理解っているハズだ。ボクは組織を、組織はボクを。互いに利用するだけの関係でしかなかった。
そんなボクが彼女に恋をしたのは、お腹が空いたら食事をするくらい当たり前のことだった。
残っていたのは、ノイズだらけのゴミみたいな映像だけ。だけどそれを見た途端、ボクの胸はあっという間に染め上げられてしまった。だからボクは、遠路遥々こんなところまでやってきた。全ては彼女に会う為。全ては彼女と戦う為。ただそれだけの為に。
――――そのハズだったのに。
(なっ……! 余計な事しやがってッ!)
あれほど邪魔をするなと言ったのに。
元々、アイツのことは気に入らなかった。日常の中でだけなら、まだ我慢も出来る。だけど戦いの中だけは。
眼下には、ほんの少しの焦りを浮かべた彼女の姿。きっとこの瞬間をどう乗り切るか、必死に考えているのだろう。
あぁ、どうかまだ終わらないで。
こんなつまらない横槍なんかで、ボク達の睦事は終わらない――――そうでしょ?
内心でそう問いかけた時、彼女の瞳が光を帯びた気がした。刹那に視線が絡み合う。まるでボクに応えるかのように。
青く鮮やかな、見惚れるほど美しい瞳だった。だからボクは、安心して武器を振り下ろす。邪魔が入ったからといって手加減なんて必要ない。ただ確実に、彼女を殺せるだけの愛を込めて。
次の瞬間、ボクは壁へと勢いよく叩きつけられていた――――多分。
何が起こったのか、ボクにはほとんど分からなかった。ただ激しい衝撃と痛みの中で、彼女が微笑んでいるような気がした。




