第41話
白凪館のエントランスホールにて、織羽がふすふすと鼻息を荒くしていた。
「いよいよこの日がやってきましたね」
そう、今日はいよいよダンジョン実習の日である。
織羽の足元には黒く大きなカバンがみっつ、妙な圧を放ちながら鎮座していた。お弁当が大量に入ったカバンと、着替えが大量に入ったカバン。そして最後に、何かあった時用のアイテムが大量に詰め込まれた緊急用カバンだ。これらは織羽がこの日のため、前日からせっせと準備しておいたものである。
「これだけあれば、何があっても大丈夫でしょう。二、三日なら遭難しても平気です」
それは明らかに過剰な準備であった。
ダンジョン実習などと大げさに呼ばれてはいるものの、一般的な学園で言うところの社会科見学のような行事に過ぎない。如何にダンジョンが危険な場所といえど、見学するのはごく浅い階層のみ。戦闘など行う筈もなく、ただただダンジョンの雰囲気や探索者の働きを実際に感じておこう、といった程度のもの。そもそもの話、引率の教師もいれば、護衛の探索者パーティーも手配されているのだ。滅多なことなど起こりようがない。仮に魔物と遭遇したところで、護衛のパーティがすぐに処理して終わりである。無論その場合は、多少グロテスクな映像を見る羽目にはなるが――――ともあれ実際に、過去の実習では一度もトラブルなど起きたことはない。
つまり織羽の準備は全くの無駄であった。
「置いていきなさい」
然もありなん。
凪にぴしゃりと却下され、織羽は大量の荷物を諦めることとなった。唯一、弁当入りのカバンだけは『勿体ないから』という理由で持ち込みを許可されたが。結局いつも通りの通学用カバンだけを手に、凪と織羽は館を出発した。
――――否。
いつもとは異なる点がひとつだけあった。
それは織羽が大きな『箒』を手にしていた事。
屋敷内の掃除をする際に使用している、織羽のマイ箒である。サイズが少し大きめだが、しかし見た目はごく普通の箒と変わらない。織羽がメイド服姿なこともあって、それは酷く似合っていた。何故織羽がそのようなものを持ってきているのか、凪にはまるで分からない。だが、彼女は深く考えない様にしていた。
そもそもダンジョンに関して言えば、元探である織羽の方が詳しい筈なのだ。そんな織羽がわざわざ館から箒を持ち出して来たということは、何かしらの考えがあってのことだろう。であれば、知識でしかダンジョンを知らない自分があれこれ言うのも、なんとなく違う気がしたのだ。
箒の持ち込みを凪が咎めなかった理由を、もうひとつ付け加えるとするならば。
他の誰が知らずとも、凪だけは知っている。そう、あの織羽がわざわざ持ってきたのだ。他のカバンはあっさりと諦めた癖に、箒だけは手放さなかったのだ。恐らく、あれはただの箒ではないのだろう。そう信じられる程度には、凪は織羽の事を信用している。少なくとも戦闘面に於いてのみ言えば、凪は織羽以上の存在を知らなかった。とはいえ、それも織羽=紙袋という式が本当に正しければの話ではあるが。
* * *
館を出てすぐのところで、二人はいつものようにリーナ達と合流した。
見ればリーナも普段とは異なり、制服の下に動きやすいインナーを着込んでいる。護衛としてダンジョン内に同行する予定のルーカスも、今日はいつもより荷物が多い。恐らくは武器防具といった探索者用の装備を持参しているのだろう。普段通りの服装をしているのは、留守番役をルーカスと代わるマリカくらいのものである。
「ほら、リーナ様もちゃんと準備してるじゃないですか」
「リーナはリーナで張り切りすぎなのよ。私が普通なの」
それ見たことかと織羽がぶぅぶぅ文句を垂れ、凪がそれを雑にあしらう。
主従間の距離とでも呼ぶべきものは、この数週間で随分と縮まりつつあった。
「浅層といっても相手はダンジョンですっ! 何があるか分かりませんからねっ!」
「私達は今日、大げさに引率されながらダンジョンを散歩して帰るだけ。仮に何かあったとしても、引率の探索者が処理してそれで終わりでしょう?」
「あーあーあー! 凪さんはダンジョンを甘く見すぎですっ! これだからダンジョン初心者はダメなんですよ」
「……悪かったわね。知識だけで探索者向けの商売をしている、頭でっかちな小娘で」
ダンジョンに関する知識はあっても、実体験に乏しい――というより皆無――ことは凪も自覚しているらしい。
故にか、リーナに窘められた凪はむすっと唇を尖らせる。
だが、これはどちらかといえば凪の方が正しい。
ダンジョンが出現して以来、ダンジョンに入ったことのある人間は確かに増えた。だがそれは所謂労働者側の話であり、探索者サイドの話である。凪のような経営者側の人間は、依頼として探索者達に仕事を与えるのが主だ。自らダンジョン資源を集めに行く理由など、普通に考えてひとつもない。支配階級であるにも関わらずダンジョンに突撃してゆく、国宝院シエラやリーナの方が異端なのだ。尤も、リーナの場合は地元でこっそり、何度か入ったことがあるといった程度のものでしかないのだが。あわよくば探索者になってやろうという考えこそ持っているものの、凪に説教出来るほど経験豊富なわけでは決して無い。
「お嬢様の場合、それで成功しているのですからむしろ凄いことですよ。そもそも実体験と言ってもピンキリです。私みたいなドロップアウト組もそうですが、ゴブリンと出会ったことがあるというだけで知った風な顔をするのも、なんというかその……滑稽ですし」
「ドロップアウト組、ね……どこまでが本当なのやら」
「な、なんですかそのジト目は……とっ、兎に角! お嬢様は誰に何を言われようと、どーんと構えていればいいんですよ。もし何かトラブルがあった時は、仕方がないので私が護って差し上げます」
「……そう。まぁ、一応期待しておくわ」
そんな織羽のフォローに、凪は僅かに微笑んで溜飲を下げる。織羽の台詞を聞いたリーナが、なにやら『びくり』と肩を震わせていた。どうやら滑稽サイドの人間だったらしい。
「でもまぁ、出番はないと思いますけどね。護衛のパーティもいますし、それにルーカスさんも居ますから」
そう織羽が水を向けてみれば、ルーカスはやたら気合の入った表情で重々しく頷いてみせる。
「ああ、任せてくれ。もし何かあった時は俺が全てなんとかする。思い出したくもないが、先日の詫びもあるしな……」
「そうですよ。私の胸を揉んだんですから、今日はしっかり働いてもらいますよ」
「うぐっ……その節はその……す、すまなかった」
先の模擬戦を思い出したのだろう。
ルーカスは顔を真赤に染めながら、申し訳無さそうにそう言った。
「私も精一杯頑張りますから、あとは班のメンバー次第ですねっ! うーん、楽しい遠足になりそうですっ!」
ぐっと拳を握り、実習への意気込みを語るリーナ。
どうやら彼女にとって今回の実習は、社会科見学どころか遠足と同レベルの行事という認識らしい。凪に『甘く見るな』などと言っておきながら、リーナが一番ダンジョンを舐め腐っていた。恐らくはルーカスを信用してのことなのだろうが――――リーナらしいといえばらしいが、なんとまぁ随分と適当なことである。
ともあれこうして、一行はダンジョン実習へと向かった。
後にどのようなトラブルが起こるかなど、この時の彼女たちは知る由もなかった。




