第40話
「いやーん」
「す、すまん!!」
ルーカスが手首を掴もうとすれば、織羽がテクニカルな動きで乳を配置する。
「きゃー」
「ち、ちがっ……!」
素早い動きで背後を取れば、待っていましたとばかりに尻を差し出す。ルーカスがどれだけ細心の注意を払おうとも、織羽による強制セクハラからは逃れられなかった。
無論ルーカスに非はない。彼はごく真面目に試合を行っているだけで、試合に託つけて乳や尻を揉んでやろうなどというつもりは微塵もない。
人間が歩く時、足元のアリになど気づかないように。織羽にとって、ある一定のレベルを超えなければ違いなど無いも同然である。いくら四桁が上澄みだといっても、それは所詮一般的に見た場合の話。真の強者から見ればほとんど五桁、或いは六桁以下と大差がない。つまりルーカスが何をしようとも、先に乳や尻を置いておくことは容易いのだ。
そうしてルーカスが織羽に挑み続けること暫く。
彼の心はついに折れた。
「……もう終わりにしよう」
「おや、もうよろしいので?」
「ああ……その、すまなかった。信じてもらえるとは思わないが、本当にこんなつもりじゃなかったんだ……」
「ふむ……模擬戦とはいえ、戦いともなればこういったこともあるでしょう。あまり気を落とさずに」
トボトボと、肩を落として主人の下へと戻るルーカス。更には戻るなり、リーナからはやいのやいのとお叱りを受けていた。
とはいえ織羽もまた、こんなところで真面目に立ち会うわけにはいかないのだ。こればかりは『軽々に試合を挑んだ方が悪い』ということで、ルーカスに泣いてもらうしかない。
こうして、突発的に始まった模擬戦はルーカスの途中棄権という形で幕を閉じた。
リーナからも謝罪はあったが、当然それも織羽は快く受け入れた。試合を有耶無耶にするために敢えてやったことであり、本来であれば謝罪される謂れもないのだから。そもそもの話、ルーカスが揉んだのは乳ではない。なにしろ、男である織羽には乳など存在しないのだから。ルーカスが揉んだものとは、そこにあって、そこにないもの。いわば虚無である。
虚無を揉んで主人からお叱りを受けたルーカスには、少し悪いことをしただろうか。
そう考えた織羽は、近い内に何か埋め合わせをしようと決意した。
そうしてリーナ主従が屋敷から去ったあと。
夕食等の準備をするため、屋敷へと戻ってゆく花緒里達。織羽もそれに続こうとしたところで、凪から声をかけられた。
「……わざとやったのでしょう?」
「はて、なんのことでしょう?」
「……ごめんなさい。今回は私が軽率だったわ」
そう言うと、凪が小さく頭を下げる。
これには流石の織羽も慌てた。凪が誰かに頭を下げているところなど、これまで見たことがなかったからだ。
とはいえこれは、凪が『ごめんなさい』の言えない人間だという意味ではない。
そもそも凪は、他人に謝罪をしなければならないような失態を犯さない。それでいて、簡単に頭を下げていいような立場の人間でもない。そんな凪が頭を下げたということはつまり、これは凪が初めて見せた『ミス』だったということ。その『ミス』が一体何を指しているのか、織羽には分からなかったが。
「その……私が言い出したことだとしても、本当に嫌だったら断ってくれて構わないから」
「はぁ……うーん? えっと、すみません。何のことでしょうか?」
「さっきの模擬戦の話よ。私の所為で、貴女に身を売るような真似をさせてしまったわ」
「……?」
凪が何を言いたいのか、織羽には本当に分からなかった。
凪が言っているのは、要するにこういうことだ。
凪は織羽が実力や正体を隠そうとしている事を知っている。或いは、薄々気づいている。そんな中、ルーカスの申し出を凪が許可した。当然ながら、メイドの立場である織羽はこれを拒むことが出来ない。試合を断ることは出来ないが、しかし実力は見せたくない。そんな状況に置かれた織羽が、実力を隠しつつ模擬戦を終わらせる方法として渋々採用した作戦。それが先の乳揉ませ作戦なのだろうと、凪はそう考えたのだ。それ故『身を売る』などという言葉が出てきたというわけである。
凪のこの予想は半分正解で、半分外れていた。
織羽が並外れた力を持っているということを知っており、かつ、実は男であるという事を知らないが故の誤解だ。
織羽が女性だったのならば、確かにそう見えなくもないだろう。主からの無茶振りを切り抜けるため、嫌々ながらも乳を揉ませて試合を有耶無耶にした、と。だが実際にはそうではない。織羽は嫌々どころかウキウキで、途中からはルーカスの反応が面白くなっていた程である。偽乳を揉まれたところで何も思うところが無いため、凪の謝罪の意味が分からないのだ。
「おっしゃる意味がよく分かりませんが……あっ、もしかしてアレですか? お嬢様も揉みたかったとか?」
「……はぁ。そうね、貴女はそういうタイプだったわね……とにかく、次からは私も気をつけるようにするわ」
「あっ、はい」
それだけ告げると、凪もまた静かに屋敷の方へと歩いてゆく。
既に陽は傾き、夜の帳が降りようとしていた。そんな薄闇の中を歩く凪の背中には、いつも強気な彼女にしては珍しく、反省の色が濃く表れていた。
(ははーん……揉みたかったのは乳じゃなくて尻の方だったのかな?)
しかし織羽も、所詮はただのコミュ障である。
その場に一人残された織羽が、それに気づくことはなかった。




