第38話
その日の放課後。
白凪館へと帰ってきた凪達は中に入ることなく、そのまま外に留まっていた。もちろんリーナとマリカ、そしてルーカスも一緒だ。いつもならば正門前で分かれるところだが、今日は違う。そればかりか、亜音に椿姫、果ては花緒里までもが様子を見に来ていた。言うまでもなく、急遽決まった組手を観戦するためである。
ここは椿姫によって丁寧に管理された庭園ではなく、館の裏手にある芝生広場――いわば裏庭だ。
流石は九奈白家所有の屋敷というべきか。裏庭ひとつとってみても、ちょっとしたスポーツくらいなら十分に出来るだけの広さがある。
そんな裏庭の端、館に最も近いベンチにて。
「これはお手本のようなパワハラだと言わざるを得ません」
織羽は未だ、ぶぅぶぅと不満を垂れていた。
凪から命じられれば否やはないが、しかし文句のひとつやふたつは言う権利があるはずだ、と。
「組手くらい別にいいじゃない。減るものでもあるまいし」
「減るんです! 何かの事故で死んだらどうするんですか! 見て下さいアレ! やる気満々の男が庭の真ん中で準備運動してますよ!? あっ!? あの男、ついにシャドーを始めましたよ!? なんて野蛮な!」
そう言って織羽が指差す先、庭の中心では。
やる気満々といった様子のルーカスが、一足先に準備運動を始めていた。久しぶりの組手故か、傍目には妙に張り切って見える。
相手をする織羽が『元』探索者ということで、どうやら武器を使うつもりはないらしい。
「大丈夫よ。ちゃんと手加減してくれるらしいから」
「あーあーあー。これだから乳のデカい素人は……いいですかお嬢様。戦いに『絶対』は無いのです。いくら手加減するといっても、つい熱くなってしまうものなのです」
「まぁ、言っている事は分からなくもないけれど……その前に、何か余計な一言があったような気がするわね?」
織羽の大変に失礼な言葉が気に障ったらしく、凪がちくりと目線で牽制する。しかし織羽は聞く耳を持たず、そのまま熱弁を振るい続ける。
「探索者なんて人種は、ほとんど理性を失ったゴリラと変わりません。『寸止めする』などと言ってゴブリンの顔面を思い切り殴り飛ばすなんてこと、やつらは日常的に行います。控えめに言ってクレイジーです」
「自己紹介かしら? 貴女も『元探』でしょうに」
「あんなイカれた野蛮人共と一緒にしないで下さい。私はもっと……そう、慎ましく薬草を摘んだりして生計を立てるような、お淑やかタイプなんです」
「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと……どの口が言うのやら」
凪が肩を竦め、小さくため息を吐き出した。
仮に例の紙袋の正体が織羽ではなかったとして――ほぼ間違いなくそうだ、と凪は思っているが――それでも元探索者だということには変わりない。そこは織羽自身も認めていることだし、疑う余地はない。そんな織羽が自分を棚に上げ、探索者全般をボロクソに罵っているのだ。これがブーメランでなくて何だというのか。綺麗な顔をして意外と口が悪い、という事は凪も既に知っていたが――――それこそまさに『どの口が言うのやら』である。
しかしそんなことよりも、凪には気に入らない事が別にあった。
(何よ……別に、そこまで隠さなくたっていいじゃない)
それは織羽がやけに必死になって実力を隠そうとしていることだ。嘘がバレれば放り出されるとでも思っているのだろうか。
確かに初めて織羽と出会った時は、酷くどうでも良い存在だと思っていた。多少は面白いところもあるが、しかし所詮は父の差し金だ、などと考えてもいた。だが今は違う。織羽に命を救われたのは事実で、そのことについて凪は素直に感謝している。仮に父の差し金だろうと監視役だろうと、どこの誰であろうとも。今では『まぁいいか』と思える程度に信頼している。これは凪が自問自答を繰り返して出した答えだ。凪にとって、織羽は既に『身内』のひとりとなっているのだ。今更嘘が発覚したところで、放り出すつもりはなかった。
しかしそうなってくると、今度は別の感情が顔を覗かせる。
主人である自分にも全てを隠そうとするのは、なんというか――――妙にモヤモヤするのだ。
無論、無理に打ち明けろというつもりはない。だが少しくらい話してくれても良いではないか、と。
凪自身、これが身勝手な我儘だということは自覚している。矛盾している事も理解している。
これまでの自身の態度を鑑みれば然もありなん。打ち明けにくいであろうことも分かる。
なんだかモヤっとする感情的な部分と、それも仕方がないと思える理性的な部分。そんなふたつのせめぎ合いが凪の感情をかき乱す。これは凪にとっても初めての経験であった。こんなにも誰かの事を考えるなど、いまだかつてなかった事だ。真実を知ればスッキリするのかさえ、凪には分からない。
そんな秘密主義な謎のメイドと、どうしたいのかさえ分からない自分。
凪はその両方がどうにも気に入らなかった。
「……本当に嫌なら、やめてもいいわよ」
どことなく不安そうな声色で、凪がぼそりと呟く。
しかし織羽はといえば、長々と文句を言っていた割にしっかりと準備を進めていた。
「いえ、やります。メイドたる者、主の期待に応えてこそ。私のメイド道の先生はそう仰っていましたので」
「そう……いい先生なのね。いつか会えるかしら?」
「え、お嬢様もメイドになりたいのですか? ……いえ、やめておいた方がいいでしょう。先生の特訓は並大抵の者では耐えられません。ああいえ、お嬢様が非凡な方だということは承知しておりますが、そういったものとは別の――――」
「はぁ……分かった、分かったわよ。軽はずみに聞いた私が悪かったわ。もういいから、さっさと行ってきなさい」
早口でワケのわからないことをいい始めた織羽へと、凪が右手を軽く振って追い払う。
例の一件以降、凪はペースを乱されっぱなしだ。しかし存外、それが嫌ではなかった。
そんな凪の心情など知る由もない織羽は、『つん』と口を尖らせながら裏庭の中央へ向かう。
やはり渋々なのか、あるいは敬愛する先生とやらの話をもっとしたかったのかもしれない。
そうして裏庭の中央で、織羽とルーカスが漸く対峙する。
「お待たせ致しました」
「いや、こちらこそ付き合わせてしまって申し訳ない」
「本当ですよ……これは貸しですからね」
「ああ。近い内に必ず、何らかの形で返そう」
ルーカスからの言質を取った織羽が、内心でほくそ笑む。
非常に面倒な今回の組手だが――――こうなってしまった以上、織羽は死ぬほど高く売りつけてやろうと考えていた。
「よし、それじゃあ始めようか」
「お手柔らかにお願いします」
久しぶりとなる実践形式の訓練に喜ぶルーカスと、真面目な顔で返事をする織羽。
だが残念な事に、織羽には真面目に組手をするつもりなどなかった。
まさか投稿を忘れていたなんて、そんなことはなかった。
いいね?




