第24話
誘拐事件の翌日。
普段ならば従者だけで食事を行っている食堂へ、珍しく凪が顔を出していた。といっても、別に朝食を共にしているわけではない。紅茶の入ったカップを傾けながら、ただ一点をじっと見つめるのみであった。まるで品定めでもするかのように、険しい瞳で。元より目つきの鋭い凪だ。その圧は凄まじいものがあった。
「じぃー……」
わざとらしく口から擬音を発しているあたり、最初から圧をかけるのが目的のようだ。そんな凪の見つめる先には、一人の従者が居る。
(……うーん、見られてるなぁ)
十中八九、昨日の事を疑われているのだろう。
当然ながら、織羽とて完全に正体を隠せたとは思っていない。一期一会の相手ならばともかく、既に数週間も生活を共にしているのだから。だが織羽の方から白状するつもりなど勿論ない。そして今の状況を鑑みるに、凪もまた、100%の自信が持てない限りは追求をしないつもりらしい。
これが、凪が埋めることの出来なかった最後の1%。
凪は過去に、部下から手痛い裏切りを受けている。それが原因で、凪は他人を一切信用しないようになってしまった。故に、付き合いの浅い者にはまるで興味を示さない。必要最低限の関わりしか持たず、事務的な会話に終始し、興味がないからと切って捨てる。それがたとえ、同じ屋根の下で生活を共にしている相手でもだ。どうせまたいつかは裏切られるのだからと、信頼関係を構築するつもりがない。それは今日までの織羽の扱いを見れば一目瞭然である。亜音や椿姫でさえ、馴染むのには長い時間を要した。
つまり凪は、織羽の顔を詳細に覚えていなかったのだ。
難儀な性格だとは思うが、今の織羽にとっては好都合である。顔を見られるという最後の一線だけは守り抜いたのだ。どれだけ怪しまれようとも、織羽が認めなければ問題はない。
問題はないのだが――――
(見すぎでしょ……)
興味を持たれていなかったこれまでとは打って変わって、凪の視線が織羽から外れることはない。これではどちらが目付役なのか、分かったものではなかった。
そんな異様な光景に居ても立っても居られなかったのか、亜音がこっそりと織羽へ耳打ちをする。
「ねぇ、昨日なんかあったの? いや、なんかは勿論あったんだけど、そういうのじゃなくてさぁ」
「皆目見当もつきません」
そう言い切るあたり、織羽の面の皮の厚さも相当なものである。しかしそんな内緒話も、静かな食堂内では存外聞こえてしまうものだ。凪の瞳は一層鋭いものとなり、不満そうに呟きを溢す。
「へぇー……ふぅーん……」
そんな凪の呟きに、隣で食事をとっていた椿姫がびくりと肩を震わせていた。凪が隣に座ったのが運の尽きである。
「……なんかお嬢様の機嫌、悪くなったよ?」
「気の所為でしょう。お嬢様はいつもあんな感じです」
下手に隙を見せれば、逆にボロが出てつけ込まれる恐れがある。あるいは、一二週間もすれば凪も諦めることだろう。織羽はそう考え、いっそ開き直ることにした。
実は、凪が紙袋メイドの正体を断言出来ない理由はもうひとつあった。
今の織羽と、あの時の紙袋メイド。両者のイメージが微妙に一致しないのだ。
どうみてもふざけているかのような言動は、方向性は違えど確かに似ている。しかし織羽には、強者特有のオーラのようなものが一切感じられない。誘拐犯の男然り、『 Le Calme』を訪れる探索者達然り。戦いを生業とする者達は、やはり独特な気配を纏っているものだ。あの時の紙袋メイドが放っていた強者の風格は、ともすれば恐怖すら感じそうになる程だった。だが、織羽にはそれがない。
顔や服装を覚えていなかったこと、纏う雰囲気がまるで違うこと。このふたつの点が、織羽の命を繋いでいた。
そんな凪による監視の目は、学園に着いてからも途切れることはなかった。
* * *
その日の夜。
一人湯船に浸かりながら、凪は思索に耽っていた。
(はぁ……何をしているのかしら、私は……)
今日一日、凪はずっと織羽の観察をしていた。それこそ授業中から休み時間まで、織羽の一挙手一投足をだ。
そんならしくない一日を思い返し、凪は大きなため息を吐き出した。
よくよく考えてみれば――例の紙袋と織羽が同一人物だったとして、だからなんだというのか。こんなにも必死に正体を暴いて、それで一体何が得られるというのだろうか。元より他人を信じるつもりなどないのに、自分は一体何がしたいのか。そう頭で理解しているのに、けれど何故だか織羽の正体が気になってしまう。事此処に至り、凪は自分で自分の行動がよく分からなくなっていた。
(馬鹿らしい……これじゃあまるで、私があの子を信じたいみたいじゃない)
ぴしゃりと頬を叩き、考えを捨て去るかのように頭を振る。
しかしそれでも、凪の頭にこびりついて離れない。最早これまでと諦めかけた時、颯爽と現れたあの姿が。
凪の胸中を支配して止まない。いとも容易く敵を屠ってみせた、あの背中を見た時の胸の高鳴りが。
これは言うまでもなく、凪にとって初めての感情であった。
(……まるで恋する乙女ね。私、案外チョロい女だったのかしら?)
織羽が動くたびに目で追い、移動する度に後ろを歩き、何かを話せば耳を澄ませる。
今日一日の自分を行動を振り返り、考えれば考えるほど恥ずかしくなる。なんとまぁ、随分と可愛らしいことをしたものだ。
(はぁ……やめよ、やめ。考えるだけ無駄だわ)
そうして凪は再び頭を振り、今度こそ悩むことをやめた。
ゆっくりと湯船から出て、濡れた身体を拭き、髪を乾かし、寝間着へ着替えてベッドに潜り込む。
一日中頭を使ったせいだろうか。いつもはベッドに入ってもなかなか眠りに就けないというのに、この日はすぐに睡魔がやってきた。
そうして凪は瞳を閉じ、そのまま睡魔に身を任せる。何故かは分からないが、不思議といつもよりよく眠れるような気がした。
チョロイン




