第14話
僅かに開いた窓から、早朝の爽やかな風が流れ込む。
目覚ましの音で目を覚ました織羽は、寝ぼけ眼のまま洗面所へと向かう。
この館の各部屋には、それぞれ個別にトイレとシャワールームが備え付けられている。湯船こそないものの、いち使用人に与えられる部屋としては破格も破格。家というよりも、最早旅館に近いと言えるだろう。無論大浴場もあるが、織羽がそちらを利用することは当然ない。共用の浴室を利用するなどとんでもない。そこは彼にとって、ダンジョンなどよりも余程リスクに溢れた危険地帯なのだから。
そうして洗面所で顔を洗った後、織羽はいつものように準備を始める。
クローゼットからメイド服を取り出し、いそいそと着替え始める。やはり慣れとは恐ろしい。悲しいもので、女性用の下着を着用するのにもすっかり慣れてしまっていた。無論抵抗が無いわけではないが、しかし既に仕事の為と割り切っている。
着替えた後は軽く化粧を施し、ほんの僅かな時間を鏡とのにらめっこに使う。髪をかきあげ、ヘアネットを被り、ウィッグに櫛を通し、後ろからゆっくりと被る。軽くブラシで整えたのち、最後にメイドカチューシャを装備する。時間にすればほんの15分程の作業だ。これほどの短時間で仕上げられるのも、先生と密による教育の賜物である。
全ての準備を終えた織羽が、軽く頬を叩いて気合を入れる。これが彼の、ここ最近のモーニングルーティーンとなっていた。
こうして、織羽の一日が幕を開ける。
「それじゃあ、今日も張り切って行きますか」
* * *
「……友人、ですか?」
「その反応は何かしら? 私には友人なんて居ない、とでも思っていたのかしら?」
「はい。あ、いえ、あははははは」
「……やっぱりクビにしようかしら」
朝食を終えた後の、登校までの空き時間。
既に万端準備を整えている織羽は、凪と暫しの会話を楽しんでいた。そこで出たのが、凪の友人の話題であった。
曰く、古くからの知り合いが日本へと留学に来ているらしい。なんと通っている学園も、果ては学科まで同じであるという。目の前の仏頂面少女が仲良くしている友人など、織羽には到底想像が出来なかった。そんな友人――本当に存在するのならば、だが――とやらが本日より、共に登校することになっているらしい。異端者である凪は確かに、金持ちの癖に徒歩通学を行っている。それを受けてか、その友人とやらも、凪と一緒に徒歩で通学するのだそうだ。白凪館までは車で来るとのことだったが、しかし――――
(……いやいやいや、不用心では? 金持ちの娘が二人で徒歩通学なんて、ただのクソデカリスクでしかないでしょ)
厳密に言えば向こうのご令嬢にも護衛がついており、織羽も含めれば四人である。だが、それが一体何だというのか。如何にこの九奈白市が治安のいい街だと言っても、犯罪が起きない訳ではない。あちらのボディガードがどれほどの実力を持っているのかは分からないが、どうしてもリスクのほうが目立ってしまう。そもそも織羽は、ほんの2週間程前にもお手本のようなトラブルを目撃しているのだ。いいから黙って車で行けよ、というのが織羽の本心であった。無論口に出したりはしないが。
「車で行けばいいのに」
否、口からもちゃんと出ていた。
「嫌よ。私は自分の足で歩くのが好きなの。というか、薄々気づいてはいたけれど……結構言うわよね、貴女」
「場を和ませる為の小粋なジョークです。本心ではありません」
「別に構わないわよ。個人的にはやたらと遜られるより、むしろ好感が持てるわね」
もしこれが一般的なお嬢様であれば、即刻クビを切られていることだろう。つい口を滑らせた織羽であったが、主である凪も変人であった。おまけに『好感が持てる』などと言いながら、彼女の表情は一切変わらない。織羽もまた、失言など最初からなかったかのように無駄に堂々としている。それは傍から見れば怪しすぎる、なんとも形容し難い会話であった。
そうして、件の友人とやらの到着を待つこと暫し。
手持ち無沙汰となった織羽がなんとなくでお茶を淹れ、なんとなく凪へと差し出してみる。意外にも、彼女は素直にそれを受け取った。そうしてカップに口を近付け、そっと一口。初めて飲んだ織羽の紅茶に、凪は少し驚いたような表情を見せた。
「……あら、美味しいわね」
「ふふん」
「腹立たしいから、そのドヤ顔をやめなさい」
そんなやり取りの直後、漸く到着した凪の友人を花緒里が連れてきた。
『本当に存在したのか』などと失礼なことを考えつつも、メイドである織羽は部屋の隅へと移動する。そうして一礼で迎えようとして――――
「おはようございます、凪さん。お待たせしてしまいましたか?」
「ええ、おはよう」
少し癖のあるふわふわの金髪に、愛嬌のある童顔。鈴を転がしたような可愛らしいその声色。
妙に覚えのあるそれらに、織羽は思わず声が出そうになった。
「んふッ!? げほっ、ごほっ!」
それは織羽がこの九奈白の地に降り立った初日のこと。まるでお手本のようなトラブルに巻き込まれていた一人の少女に、織羽は僅かながら手を貸した。もう会うこともないだろうと思っていたあの時の少女が、織羽の目の前に居た。
「あら? そちらの方は……初めて見るお顔ですね? 以前遊びに来た時は、居なかったような気がします」
「そういえばそうだったわね。彼女は学園での、私の付き人よ」
出来れば目立たぬようにやり過ごしたいところであったが、凪から紹介されてしまっては最早どうにもならない。というより、彼女はそもそも凪と同じ学科で、かつ同じクラスなのだ。今やり過ごしたところで、結局は時間の問題である。
彼女には織羽が戦っているところを見られている。顔こそ隠していたものの、当時の服装は今と同じメイド服だった。まじまじとは見られていないはずだが、よく観察されれば、或いは紙袋メイドの正体が織羽だとバレてしまうかもしれない。そして彼女に正体がバレてしまえば、確実に凪へと伝わるだろう。
既に『元探』であることは凪に知られているが、しかしだからといって、実力を知られるわけにはいかない理由が織羽にはあった。
探索者の情報は全て、協会のデータベースで簡単に調べることが出来るからだ。無論それらは個人情報に該当するため、詳細を閲覧することは出来ない。しかし探索者としての基本情報くらいは載っている。データベースで知ることが出来るのは、その者の順位と探索に於ける戦績、成果、そして性別である。
そう、性別だ。
探索者は世界中に数百万人と存在している。戦っているところを見られた程度では、そうそう順位までは辿り着かないだろう。だが能力とは当然、高ければ高いほど目立つものである。もしもなにかの間違いで順位がバレてしまったら。そのまま芋づる式に性別までバレてしまい、晴れて織羽は変態犯罪者の仲間入りである。もちろん任務は失敗となり、織羽の経歴には酷く不名誉な項目が追加されるだろう。他の何を差し置いても、それだけは避けたかった。
加えて凪は、国内でも有数の権力を持つ家の娘である。家の力に頼ることを嫌う彼女ではあるが、しかし可能かどうかでいえば、その強大な力を振るうことは可能である。密や星輝姫がいろいろと手を講じてくれてはいるが、或いは、九奈白の力であれば織羽にまで届くかもしれない。少なくともその可能性はある。
もちろん、これらは全て仮定の話である。小さな綻びと僅かな手がかりを拾い集め、そうして漸く辿り着くかどうか、といった程度の話でしかない。つまりはリスクの問題だ。ともあれそういった諸々の理由から、『紙袋メイド=織羽』という真実を知られるわけにはいかない、というわけだ。
果たして、目の前の金髪少女は気づいてしまうだろうか。
「初めまして。私はリーナ・ユスティーナ・エルヴァスティといいます。リーナって気軽に呼んでくれると嬉しいです。探索者について学ぶ為、先日から日本に留学してます。凪さんの付き人ということは、これからお会いする機会も多いかと思います。仲良くしてくださいね、綺麗なメイドさん」
随分と丁寧な自己紹介――それこそ、いち使用人に対するものではない。成程、無愛想な凪とも上手くやれるわけである。リーナの性格がよく分かるような、そんな自己紹介であった。
しかしそれを聞いた織羽はといえば、全く別の感想を抱いていた。
(や、やったッ! 全然バレてない! アホで良かったー!)
あまりにも失礼な感想だったが、しかし『バレたら人生終わり』状態である織羽の心中を考えれば、それも仕方のない事なのかもしれない。紙袋メイドのことなど既に忘れてしまっているのか、或いは、元より気に留めていないのか。いずれにせよ、差し当たっての危機は脱した織羽であった。
「織羽と申します。こちらこそ宜しくお願い致します、リーナお嬢様」
恭しく一礼し、にこりと微笑む織羽。
「……あれ? 織羽さん、私達どこかで会ったことあります?」
「――いえ、初対面でございます」
と思いきや、不意打ちが織羽を襲った。
どうにか動揺を抑え込むことに成功した織羽は、念の為にほんの少し声を低めにし、少女の言葉を否定する。
「そうですよね……うーん、何か引っかかるんですけど……この気持ちは一体何でしょう? はっ、これが恋……?」
堂々と否定したことが功を奏したのか、リーナ嬢は気づく様子もなく、ただアホっぽいことを呟いていた。とはいえ、何がきっかけになるかなど分かったものではない。早々に話題を切り替えるべきだと判断した織羽は、急いで凪の方へと向き直り、そうして進言する。
「そ、それより凪お嬢様。そろそろ出発しなくては遅刻してしまいますよ」
「……一体何を慌てているのかしら?」
「メイドとして、お嬢様に遅刻などさせられませんから」
「……まぁいいわ。確かにそろそろいい時間だし。ほらリーナ、行くわよ」
凪も多少の違和感は感じている様子であったが、しかしそもそもからして大した興味もないのだろう。凪はそれ以上深堀りすることもなく、ただ淡々と歩き始めた。凪の鞄を手にした織羽が、いそいそとその後に続く。リーナ嬢はメイドに加え、外を歩く際には本職の護衛――あの時の執事だ――も連れていた。ここでも織羽は身バレについて心配することになったのだが――――しかし彼は地面に倒れ伏していた故か、まるで気づく様子もなかった。予想外の再会もあり、騒がしい朝となったが――――ともあれ、こうして織羽の学園生活は幕を開けたのだった。