第122話
ちょっとした騒ぎはあったものの、終わってみればそう大したことのない事件だった。
凪に危険が迫ったわけでもないし、迷宮情報調査室から命令が下ったわけでもない。ダンジョン素材を巡ってのドタバタなど、命のやり取りに比べれば可愛らしいお遊戯のようなものだ。元より非日常に身を置いていた織羽にとっては、いちいち粒立てる程の事件でもなかった。
あれから数日、白凪館の面々は極めて平和な日常を送っていた。
「ほーんほーん」
織羽は今日も今日とて、果たして歌なのかどうかすらも定かではない、怪しすぎる鼻歌と共に掃除に勤しんでいた。
一見すると不真面目そうに見える勤務態度だが、自らを完璧メイドと称するが故か、その仕事ぶりはケチのつけようがないほど完璧で。織羽が通った後にはゴミひとつ、塵ひとつすらも残ってはいない。凪に言わせればそこがまた憎たらしいのだが。
織羽が二階から中央階段へ、そして玄関ホールの掃除へと移行しようとしたところで、脇から声をかけた者が居た。
白凪館の厨房を取り仕切る、料理担当の鳥海亜音である。
「オリオリー! ゴメンなんだけど、ちょっといいー?」
「はーい」
基本的には掃除担当の織羽だが、実際には各所の遊撃を任されている。
庭の手入れから料理の手伝い、果ては買い出しに通学の運転手まで。遊撃とはよく言ったもので、織羽の下にはありとあらゆる業務が回ってくる。そのことごとくを鼻歌交じりでこなしてしまうのだから、色々頼られるようになったのは当然の帰結と言えるだろう。あの鬼メイド長の花緒里ですらも、今ではすっかり織羽に信頼を置いている。
少し前に彼が脱走し、凪に連れ帰られた時。
花緒里をはじめとするメイド三人は、何も言わずに再び織羽を受け入れた。所詮はまだ一年にも満たない、短い付き合いだというのに。それは偏に、こうして日々積み重ねてきた信頼あってこそだ。それが分かっているからこそ、織羽は今日も奔走する。
亜音からの頼まれごととなれば、十中八九は料理であろう。
なおこれは余談だが、凪の誕生日がそうであったように、織羽が料理のヘルプに入ることは多い。それも野菜の皮むきなどといった雑用ではなく、割とガチ目の調理スタッフとしてだ。白凪館は人数が少ない故にまだどうにかなっているが、本来厨房とは一人で回すような仕事ではない。余程のことがなければ一人でやりきってしまう、亜音の技量が異常なのだ。そしてその亜音に認められ、ついていけるだけの技量を持つ織羽もまた異常だ。これも全ては先生のおかげである。
手をしっかりと洗い、エプロンを手早く着替え、軽く身だしなみを整えてから厨房へ。
そうして顔を出した織羽を見て、亜音は『しまった』というような顔をした。
「あっ、もしかして着替えさせちゃった? うわーゴメン。今日のお願いは買い出しの方なんだ」
「おや、そうでしたか。どのみち汚れたままというわけにはいきませんので、お気になさらず」
「やー、ホントごめんね。実は注文した調味料に欠品があってさ。エストラゴンビネガーなんだけど」
「それ、そのへんに売ってます?」
亜音の言うエストラゴンビネガーとは、タラゴンというハーブの一種を酢に漬け込み、風味を移したものだ。
それほどマイナーな調味料でもないが、しかしどこにでもある、というわけにはいかない調味料である。また生のタラゴンを入手するのは難しく、乾燥させたものは香りが落ちてしまう。そして九奈白市では気候が合わず育てるのが難しい為、椿姫も栽培まではしていない。総じて、急な入手は難しい調味料と言えるだろう。
「商業区に売ってるお店があるんだ。というか、いつもそこで買ってるんだけどね」
「成程、承知致しました。では時間も時間ですので、早速行ってまいります」
「うん、お願い」
現在の時刻は十六時を少し回ったところ。
往復の時間を考えれば、夕食の時間までにはどうにか間に合いそうであった。
そうして織羽が玄関を出て、駐車場に向かおうとしたその時。
胸元のポケットから、Rainの着信音が聞こえてきた。
「おや?」
織羽に連絡をしてくる相手などそうは居ない。
情報調査質絡みであれば仕事用のスマホにかかってくるし、凪は自分からメッセージを送ってくるようなコミュニケーション強者ではない。
となれば、つい先日連絡先を教えたばかりのあの二人だろうか。そう考えスマホの画面を確認した織羽は、形容詞しがたい微妙な表情を浮かべた。
そこに表示されていた名前は『凪パパ』。
織羽にとってはある意味、凪から着信があるよりも意外な相手であった。
* * *
九奈白市から最も近い、市外の空港。
景観や騒音などの問題から市内には空港がないため、九奈白市を訪れる者は大抵ここを経由することになる。例えばリーナなども、来日した際にはここを経由し、車で市内入りした。つまりは市外でありながらも、九奈白市にとっては実質的な玄関口というわけだ。
迷宮都市として世界的に名高い九奈白市の最寄りだ、当然利用客は多い。
もちろん、九奈白市を訪れる目的はそれぞれ違う。ダンジョン目当ての者もいれば、観光や商売目当ての者もいる。しかしそれら全ての人間には、共通して言えることがひとつあった。それは誰もが、期待に胸を膨らませているということだ。
探索者にとっては上京に近い感覚なのかもしれない。
これまでの探索者活動と比べ、この街では間違いなくステージが数段上がる。当然ながら危険度も、それに比例して成果も上がる。探索者というある意味イカれた人種にとっては、期待せずにいられない環境と言えるだろう。
観光客にとっては言わずもがなだ。
最新の商業施設や高級な宿泊施設、海を中心とした素晴らしい景観。人工島であるが故に自然豊かとは言えないが、リゾート地としては素晴らしい街である。強いて言えば、秋よりも夏に来るべき街ではあるだろうが――――憧れの街に観光旅行で来られるのなら、そんなことはどうだっていいという者が大半だ。
そんな賑わう空港のロビーに、着物を着た一人の女が居た。
間違いなく美人だが顔立ちは柔らかく、凡そキツいといった印象は受けない。纏う空気は淑やかで、まさに曲眉豊頬という言葉がよく似合う。しかし、そうでありながらも凛とした立ち姿。周囲を護衛に囲まれていてなお、微塵も損なわれない存在感。大和撫子とは斯くあるべき、といった風な女であった。
その他で言えば、特筆すべきはその圧倒的な胸部装甲だろうか。
細身でありながらも、しかしその着物の上からでさえ分かる見事な物量ゆえか、残念ながら着物はあまり似合っていなかった。
そんな悲しき美人へと、護衛の一人が声をかける。
「奥様、お車の準備が出来ました」
「あらあら、ご苦労さまです。それじゃあ参りましょうかぁ」
そうして護衛に促されるまま、ロビーを後にする女。
彼女は外に出るなり瞳を閉じ、ゆっくりと、大きく息を吸い込んだ。
「ふふ、久方ぶりに娘と会える事を思えば――――年甲斐もなく法要してしまいますね」
「奥様、法要は仏教行事です。それを仰るならば高揚かと」
「あらあら。うふふ……もちろんわざとです」
意味の分からないやりとりの後、見るからに高級そうな車へと乗り込む女。
乗り込むなり、機嫌が良さそうに運転手の男へと指示を出す。
「それでは早速――――前の車を追って下さぁい」
「では、まずは旦那様のところへ向かいます」
「あらあら、いけず。うふふ」
そうして、車は九奈白市へ向けて走り出す。
この後もわけのわからない指示は続き、結局この車が市内入りを果たしたのは、あたりがすっかり暗くなってからだった。
ここで一章は終わりです




