第116話
(マズいマズいマズいッ!)
挨拶もそこそこに放たれたクロアの拳が、凄まじい速度でハルの眼前へと迫る。
クロアの顔に張り付いているのはニタニタとした粘っこい笑み。これが本気の一撃でないのは一目瞭然だった。
探索者同士の戦いとは、順位で全てが決まるわけではない。
力、技術、知識、判断力、技能、そして実績。その他探索者として必要な様々な要素を、総合的に評価したものが探索者の順位だ。だがそれを鑑みてもなお、彼我の実力差は三桁探索者のハルに測りきれない程大きかった。故にこんな小手調べ程度の攻撃でさえ、ハルにとっては必殺の一撃へと早変わりする。
そうしてハルの顔面を捕らえたクロアの拳は、しかしそのままハルを素通りしていった。
「おぉう、ホントにすり抜けた! あはは、キモチワルぅ♡」
「くっ……」
何も得ることのなかった右拳を見つめ、クロアが楽しそうに笑う。
ハルにダメージはない。そればかりか、体勢を崩すなどといった様子もなかった。
『物質透過』
それがハルの技能だ。
読んで字の如く、自身や自身が触れたものに対して、物質を透過するという特性を付与する技能である。非常に珍しい技能であり、発現例は世界中でもほとんど無い。クロアがさも既知であるかのように言ったのは、織羽から情報を聞かされていたからだ。経歴上数多の技能所持者を見てきたクロアでも、実際に見るのは初めてである。
この技能によりハルは、建物の壁などはもちろんのこと、道路上のアスファルトや車のボディであろうとも、ありとあらゆるものをすり抜けることが出来る。つまり、彼女の前では如何なるセキュリティも無意味なものに成り下がるということだ。どれだけ強固な壁に囲まれていようとも、彼女は鼻歌交じりですり抜けてしまうのだから。成程確かに、こと窃盗という点に於いてはチート地味た技能といえるだろう。
また戦闘向けの技能ではないものの、その性質上、物理攻撃に対して非常に高い防御性能を発揮する。拳や斬撃、果ては銃弾までも無効化出来てしまう程だ。身のこなしには自信があるが、しかし戦闘技術はほとんど皆無であるハルが三桁とされているのは、この技能に依るところが大きい。
「いいねいいね、ボクとの相性はバッチリだよ! もしかしたら、キミにもワンチャンあるかもよぉ?」
物理攻撃主体のクロアにとっては、ある意味天敵とも呼べる能力だ。当たれば必殺の一撃も、当たらなければ意味がない。
その筈なのだが――――どういうわけかクロアは笑い、ハルは顔を顰めている。両者の表情を見比べれば、どちらが優勢なのかは明らかだった。
(はぁ!? チャンスなんてあるわけないでしょうが!?)
ハルが心中で悪態を吐く。
無敵に思える『物質透過』にも、明確な弱点があるからだ。
ひとつめは、連続しての使用が出来ないこと。
一度使った後、一呼吸置かなければ次の発動が出来ないのだ。ゲーム的に表現するなら『スキルクールダウン』といったところか。そのインターバルは凡そ五秒ほどで、その間はどれだけ頑張っても使用出来ない。また持続時間もそれほど長くはなく、一度の発動で数秒間の透過が精一杯だ。ハルがグランクレスト国宝院に潜入しなかったのはこれが理由だったりする。天井をすり抜けるたびに五秒待って――――などという悠長なことをして数十階を上るなど、いつ住人に見つかるか分かったものではない。天井に顔を突っ込んで、その先に誰かいればそれでゲームオーバーである。
ふたつ目は、自動発動する類の能力ではないこと。
ハル自身が使おうとしなければ、この技能は使えないのだ。それはつまり、意識外からの攻撃に対しては全くの無防備だということ。同格や格下相手なら問題ないが、敵が格上になればなるほど攻撃が視認出来なくなってゆく。強力だが直接的な戦闘技能ではない故に、ジャイアントキリングには向いていないのだ。
四桁は一般的な探索者としての最高到達点と言われている。
三桁はそこから更に逸脱した超越者、ほんの一握りの強者。
二桁探索者ともなれば、それはほとんど化物と同義だ。
だがハルも身体能力には自信があった。格上といえど二桁探索者の攻撃であれば、どうにか付いてゆけるという自負があった。
先の一撃はまだ見えた。なんとか見えた。だが、次はどうだろうか。目の前で笑うこの少女と自分の実力差は、果たして一桁分程度で収まるのだろうか。
そんなハルの疑問は、既にハル自身によって否定されている。
無理だ、次はきっと見えない。何故なら相手は、あの『一位』なのだから。
(どうにかして逃げるしか、ない)
ハルの目的は『一位』の打倒ではない。
そうであったなら、そもそもケイを囮になど使っていない。無理に倒す必要はなく、撒くことが出来ればそれで勝利条件は満たされる。そもそも見つかった時点で状況は最悪だったが、しかし相手はまだこちらを見くびり、本気で戦っていない。であるならば、或いはどうにかなるかもしれない。ハルはそう考えた。
否――――この最悪な状況を脱するなら、相手が油断している今を於いて他にない、と。
そう考えるや否や、ハルは隣接するビルの外壁へと飛び込んだ。
「おっ……? えぇー? また追いかけっこすんのぉ?」
逃げ出したハルをじっとりと見つめ、辟易とした声を上げるクロア。
一方で、ハルはとにかく必死だった。彼女は騎士道精神に溢れた馬鹿ではないし、敵は戦って勝てるような相手ではないのだから。
(くそっ、廃ビルか!)
彼女が飛び込んだ建物は現在、使われていない様子だった。
廃ビルというよりは居抜き物件で、今はテナント募集中といったところか。建物内部は荒れておらず、大きなテーブルや厨房設備がそのままになっている。いっそここに隠れていようか、などという考えがハルの頭を過ったが、しかしそんな考えは一瞬で吹き飛んだ。
「はい、どぉーん!」
今しがたハルが通り抜けてきた壁が、けたたましい音と共に崩れ落ちたからだ。
(はぁ!? 壁をぶち抜いたっていうの!? 人がいるかも知れないってのに、なんて無茶苦茶なッ!)
周囲への被害などお構い無しといったその蛮行に、ハルが再び心中で悪態を吐く。
その詳細は長らく不明だったが、どうやら『一位』は随分とハッピーな思考をしているらしい、と。
『一位』の思考回路はともかくとして、ハルにとっては非常にマズい展開だった。
一般市民が居るかも知れない以上、派手な動きは出来ないだろう――――という考えの元で入った建物だ。壁を破壊してまっすぐ追ってくるような蛮族が相手となれば、話が大きく変わってくる。このままただ横に逃げるだけでは、すぐに追いつかれてしまうだろう。
(なら…………上ッ!)
ハルは瞬時に判断し、上階へ逃げることにした。
壁よりもよほど壊しにくいであろうし、仮に天井をぶち抜かれても瓦礫が行く手を阻んでくれる。加えて天井全てがブラインドとなり、視覚的にも撒きやすい。少なくとも、ただ横に逃げるよりは随分と楽になるはずだ、と。ハルがテーブルを駆け上がり、跳躍して天井をすり抜ける。そうして彼女の姿が見えなくなると同時に、クロアがのんびりとビル内へ侵入してきた。
「あれぇ? いないじゃん」
きょろきょろと、めんどくさそうに当たりを見渡すクロア。
「あー…………思ってたよりずっと厄介だなぁ」
一切の障害を無視して逃げるため、痕跡などが一切残らないのだ。
故に逃げた先がまるで分からず、追うことすら難しい。ただ『物理攻撃が効かない』くらいにしか考えていなかったクロアは、ここにきて初めて『物質透過』の厄介さを思い知らされていた。
「でもま、普通に考えれば上…………かなぁ?」
その場で天井を見つめ、やはりめんどくさそうに呟くクロア。
手っ取り早く天井をぶち壊そうと考えたのだろうが、やはり落ちてくるであろう瓦礫が気になるらしい。ダメージを受けるわけではないが、瓦礫をいちいち避けながら上がるのは流石に骨だ。そもそもハルが上に逃げたかどうかは確定事項ではないし、もし上まで追って居なかったとなればゲンナリだ。
「しょうがないにゃあ…………だったら降りてきてもらおうかな」
そう言うとクロアは、おもむろに右手を虚空へ突き出した。
* * *
(追ってこない…………? 撒けた、の?)
同ビル四階。
クロアがぶつぶつと独り言を喋っているうちに、ハルはある程度の階数を稼いでいた。
(もしかして、読みが当たった?)
追ってくるどころか何の物音も聞こえないあたり、どうやら『一位』は天井の破壊を躊躇っているらしい。
目論見が成ったことで僅かに安堵するハル。しかしすぐさま気を引き締め直し、ぐっと天井を睨みつけた。
(いや、油断はしない。このまま屋上に出て、さっさと逃げ――――)
そうハルが思った、次の瞬間だった。
「え、あれ……? 何か……?」
足が動かなかった。それどころか肩や腕など、身体全体が重かった。
『気が進まない』などという意味で『足が重い』と表現することはあるが、しかし現在彼女を襲っている異変はそんな比喩的なものではなかった。文字通りに足が重いのだ。身体が重いのだ。
「一体何が起きて……」
徐々に、しかし確実に重くなってゆくハルの身体。
最早まっすぐに立っていることすらままならず、堪らずその場に膝をついてしまう。彼女を襲う重力はなおも強さを増し続け、そのままハルは床へと倒れ込んでしまった。
不可視の暴威に晒され、床へと縫い付けられた腕の骨がみしりと軋む。
探索者として鍛えられた、常人とは比べ物にならないほど強靭なはずの身体が悲鳴を上げる。
「あぐッ!? がはッ――――!?」
ハルを中心とした半径数メートルの床がひび割れ、歪み始める。
それでもなお重力は止まない。まるで地獄の底へ引きずり込もうとするかのように、ハルを下方へと引っ張り続けた。
そうしていよいよ耐えきれなくなったハルは、『物質透過』を発動する。
瞬間、四階から一気に地上へと引きずり込まれてゆくハル。床に縫い付けられる痛みからは解放されたものの、しかしその代償としてハルを待っていたものは――――。
「あ、やっぱり上に居た。やぁやぁ、おかえりー♡」
手を振りながらヘラヘラと笑う化物の姿であった。




