第106話
静かな室内に、秒針が時を刻む音だけが響いていた。
「……お茶が切れたわね」
小説を机に置き、凪が卓上の機会時計に視線を向ける。
館の雰囲気にも、そして部屋のデザインにも自然に溶け込む、選んだ者のセンスが光る時計だ。凪はブランド品などに頓着するタイプではないが、それでもこの時計は気に入っていた。無駄に四桁万円近くする事を除けばだが。選んだのはもちろん彼女ではなく、最初から用意されていたものである。
時刻は午後三時に差し掛かろうかというところ。
昼前から読書を始めた事を考えれば、凪にしては随分のんびりしていたと言える。読んでいたのは別段分厚い本というわけでもなく、一般的な文庫より少し多い程度の文字数だ。『高速思考』を使えば、それこそほんの一瞬で読み終えられることだろう。もちろんそんなつまらないことはしない。ただ読み終える事だけが目的ではないからだ。
というよりも、凪は日常に於いて『高速思考』を使うつもりがなかった。
特別扱いを嫌い、自身に依らない力を厭い、努力と研鑽によって今日まで歩いてきた彼女だ。生まれた環境は確かに良かったが、それにただ甘えるだけというのは許せない。突然降って湧いたこんな力を常から頼るなど、これまでの自分を否定する行為に他ならない。
もちろん、有事の際には遠慮なくこの力を使うだろう。
それでも、力に振り回されるのだけは御免だと思っている。
自らを律し、前を向き、理想に向かい己が足で歩いてゆく。現実はどうあれ、そう在りたいと願っている。
これが九奈白凪という少女の根源だ。
故に、本くらいは普通に読む。ただそれだけの話だ。
とはいえお茶に関しては、自分より織羽や花緒里の方が遥かに上手く淹れるのも確かで。
逡巡の後、凪は手元のベルを鳴らそうかと思い――――やはり止めた。今日は特に予定も無いため、織羽に暇を与えた事を思い出したからだ。そうして誰も見ていないのを良いことに、椅子の上で大きく伸びをした。
「んっ…………ふぅ。少し疲れたし、気分転換に庭でも散歩しようかしら」
掃除の行き届いた廊下を歩き、ホールの階段をのんびりと歩く。
窓から差し込む昼下がりの陽光が、引き籠もりで縮み上がった体に染み渡る。
そうして外に出ようとした時、広間の方から小さな声が聞こえてきた。
どうやら誰かが会話をしているらしい。少しだけ顔を覗かせてみれば、そこにはソファに腰掛けた織羽の姿が。そしてその対面には――――。
「……お父様?」
何かと忙しいはずの父・九奈白嵐士と、その秘書である雑賀佳苗が座っていた。
「む、凪か」
「お久しぶりです、凪お嬢様」
鷹揚に首だけを向ける嵐士と、きびきびとした動きで起立し、深々と頭を下げる佳苗。
雑賀佳苗は古くから嵐士の秘書を務めており、凪が物心付いて少し経った頃には九奈白家で働いていた。恐らく凪にとっては、両親と花緒里の次に見知った大人であろう。別段親しいというわけでもないが、しかしこのお世辞にもまともとは言い難い父の秘書を長年務めているだけあって、印象はそれほど悪く――これまでは興味がなかっただけとも言える――ない。
「佳苗さんもお変わりないようで。父の付き人は大変でしょう」
「ふふふ、それはもう。今日も突然ここに来ると言うものですから、諸々の調整で大変だったんですよ」
冗談めかしてそう言う佳苗は、言葉とは裏腹に何処か嬉しそうで。
理由は色々と察せられるが、それが自分の事となると少し気恥ずかしかった。そんな恥ずかしさを誤魔化す為にも、凪はさっさと話題を変えてしまうことにした。つまりは何故嵐士がここにいるのか、である。
「それでお父様、今日は一体何用ですか? そう簡単に来られる立場ではないと思いますが」
「いやなに、偶然近くを通っただけだ。そのついでに、凪に伝えておかなければならない事があったのを思い出してな」
どう考えても嘘である。
ここ白凪館が建っているのは、住宅地の中でも少し離れた丘の上だ。市内に来ることはあっても、近くを通るということは無い。つまりは何かしら、確とした要件があったということだ。ただ言伝があるだけなのならば、それこそ電話で事足りてしまうのだから。何やら佳苗が微笑ましそうにしているあたり、またぞろ凪の顔でも見に来たのであろう。
凪が最後に嵐士と顔を合わせたのは、総会の事後処理時にまで遡る。
大凡二月前といったところだ。一般家庭の父娘ならばともかく、九奈白家ではそう珍しいことでもない。それでもわざわざ会いに来るあたり、この男の子煩悩ぶりも相当なものである。もちろん、凪からすれば鬱陶しいことこの上ないのだが――――忙しい合間を縫って自分の顔を見に来たというのに、鬱陶しいからと邪険にすることは流石に出来なかった。一応、ちくりと正論で刺してはおくが。
「そんな事、電話で事足りるかと思いますが……まぁいいです。それで、その伝えておく事というのは一体何でしょうか?」
「巻きにかかるな」
「私も暇ではありませんので」
「ほう。先ほどそこのメイド君が『お嬢様なら部屋で暇してますよ』と言っていたが?」
瞬間、凪の首がぐりんと横を向く。
そこには悪戯を誤魔化そうと、わざとらしい口笛を吹く織羽の姿があった。
「…………」
「おっと、そろそろ仕事に戻らなければ……それでは旦那様、私はこれで」
説教の気配を感じ取ったのか、織羽は網と虫かごを抱えそそくさと退散していった。一体何の仕事に使う道具なのかはまるで不明だが、ともあれその素早さは風の如く。咎め立てする暇さえも与えない見事な動きであった。
なおこれは凪も知らないことだが、館の裏手にある椿姫管理の物置内には、織羽が捕まえてきたカブトムシの飼育ケースがいくつか隠されていたりする。虫嫌いの椿姫でも唯一触れられる昆虫ということで、凪と花緒里にバレないよう匿ってもらっているのだ。閑話休題。
「ふふっ、中々ユニークな子ですね」
「仲良くやっているようでなにより」
普通に考えれば不敬な態度だが、そこはそれ。
嵐士は織羽の正体を知っているし、そもそもこの館に引き込んだ張本人でもある。
もちろん花緒里からの報告も受けているが、仕事ぶりに関してはほぼほぼ満点。あの教育に厳しい花緒里が珍しくそう評価しているのだから、口など挟むべくもない。凪と上手くいっていないというのならばいざ知らず、嵐士の目には、むしろ互いに良い影響を受けているように映っていた。或いは、単に奇人同士で共鳴しているだけなのかもしれないが。
「で、本題だが」
「よく今の流れで普通に始められますね……まぁ、私としては願ったり叶ったりですが」
凪がソファ――先程まで織羽が座っていた場所だ――に腰掛け、背中を預けつつ腕と足を組む。
およそ父娘の会話風景とは思えないスタイルではあるが、容姿と所作が洗練されている為、非常に様になっていた。
話を切り出した割に、暫くの無言を貫く嵐士。
そのまま一分程も沈黙していただろうか。ふぅ、と小さく息を吐き出し、普段はぴくりともしない鉄面皮が、困った色を僅かに覗かせた。
「近々、風音さんがこの街に来る」
「…………は? お母様が? ここに? 一体何のために?」
そうして告げられた言葉は、凪にとっても思いがけないものであった。
「凪の婚約者探し――――だそうだ」




