第102話
「屋上でゴロゴロしてたらヤバい目ぇした女子が降ってきた件について」
男は現状をそう評した。
降ってきた、と言うと少々違う気もするが、概ねその通りではある。
仕事柄、男は危機察知能力に自信があった。
その勘が告げていた。目の前の少女は何かヤバい、と。冗談めかした先の物言いも、ただ緊張の裏返しに過ぎない。異様な気配を放つ少女を前に、つい口を衝いて出たというだけのことだ。
「どう思う?」
「……無理ね」
「同感。化物の類だ」
目の前の少女が何者なのかも、何故自分達に気づいたのかも、どうやったここまで来たのかも。事前調査では、こんな相手の情報は全くなかった。正直に言って、分からない事だらけだった。それでも唯一、戦って勝てる相手ではないということは確実だった。手短に交わした二人の言葉からは、それら一切の疑問を脇に置き、とにかく逃げようという意思だけが滲み出ていた。無事に逃げられるかどうかは甚だ疑問ではあったが。
目の前には妖しい輝きを瞳に湛えながら、にへらと口角を上げる少女。白凪学園の制服を着てはいるが、パーカーを上からを羽織っているあたり、どう考えても普通の生徒ではない。かの学園はお手本のようなお嬢様学校であり、制服をアレンジして着るような不良は存在しないからだ。学生は仮初の姿で、本職は全くの別だということが容易に想像出来る。そうでなくとも、ただの学生がこれほど邪悪な気配を漂わせている筈がない。
「ウフフ、作戦会議は終わったぁ?」
「……お陰様で」
「そっかぁ、それじゃぁ――――」
みしり、と少女の立っているあたりから音が鳴る。
そうと思った次の瞬間、少女の右手は男の目の前に迫っていた。狙いは目か、それとも首か。少なくとも急所狙いであることは間違いない。そんな『死ななきゃいいんでしょ』とでも言わんばかりの初手に、男はどうにか反応する。
「ッッ!」
身を捩り、半ば倒れるように逃れながら少女の腕を打ち払う。
伸び切った無防備なはずの少女の細い腕は、しかし尋常ではない程強固でびくともしなかった。あわよくば体勢を崩してやろうという男の目論見は、驚愕の顔と共に崩れ去る。男は真っ当な仕事をしているわけではないが故に、これまで数々の強者を見てきた。だからこそ、相手が化物の類であることは一目で分かった。それこそ先程まで監視していた『黄金郷』所属の探索者よりも、或いはこの少女のほうが強いのではと思う程度には。
この瞬間、男は目の前の少女の危険度を二段階ほど上に再設定した。相対することすら避けるべき、正真正銘の規格外が相手であると。勝てない相手だと思ってはいたが、実際にはそれどころではなかった。攻撃が一切通用しなかったことで、逆に男のほうが体勢を崩してしまう。地面へと倒れそうになるその途中、酷くつまらなそうな顔をした少女と目があった。『目は口ほどに物を言う』などという言葉もあるが、まさに。
仮に一対一だったなら、この一手で終わっていたかも知れない。だがこの場にはもう一人、男にとってはなんだかんだと言っても頼りになる相棒がいた。
「そのまま伏せて!」
耳に届いた指示に従い、男がそのまま地面に倒れ込む。次の瞬間、銃声――抑制器付きであるため、非常に小さな音だった――が二度聞こえた。とはいえ探索者に対しては、ある段階を超えたあたりから銃が通用しづらくなる。優れた戦闘力を持つ一部の上級探索者には、ほぼほぼ通用しないと言って良い。それが隠して持ち込んだ小口径の拳銃程度であれば尚更だ。だからこそ、『小夜啼』などというコスト度外視の馬鹿げた銃が存在するのだから。
ひらり、と。
攻撃後の硬直中であった筈だというのに、まるで風に舞う羽毛のように銃弾を回避してしまう少女。効果が薄いであろうことは予想していたが、しかし先の体勢から完全に回避されてしまうとは、流石に女も思ってはいなかった。
「……嘘でしょ?」
「ざーんねん♡」
当然ながら少女――――クロアは現在も武器を携行している。彼女は腰に提げた収納袋――小型のポーチ状に改良されている――の中には、常にいくつかの武器が入っている。今それらを取り出さないのは、偏にクロアの手加減下手からくる『やりすぎ防止』のためだ。狙いを女の方へと切り替えたクロアは、やはり素手のまま一気に躍りかかる。倒れた男の方をさっさと捕まえてしまえばいい場面だというのに、それをしないのはクロアの悪癖だ。つまりは戦闘狂いに所以する『舐めプ癖』であり、密からは『任務に支障が出る前に治せ』と度々お叱りを受けていたりする。もちろん、治すつもりなどクロアには微塵もないのだが。
たとえ徒手空拳であったとしてもクロアは強い。同格の相手ならばいざ知らず、格下が相手であれば容易く蹂躙出来てしまう。技能使用ありでの模擬戦ならば、隆臣とすら互角に渡り合ってしまえる程なのだ。そんな彼女の向かう先に居るのは、しょっぱい拳銃なんぞを振り回す格下の女。これではまるで話にならない。
「ひひっ、運が無かったねぇ」
女も後退するが、今いるここは屋上だ。比較的大きなビルの上とはいえ、その面積はとても広いとは言えない。女はあっという間にコーナーへと追い詰められ、退路を手すりに塞がれてしまう。いよいよ目前にまで迫ったクロアの呟きは――監視を行っていた二人の心情など、クロアには知る由もないであろうが――随分と皮肉なものであった。そもそも不幸な巡り合わせによって監視を行う羽目になっていたというのに、ここに来て不幸の追いがけなど、冗談にしても笑えなかった。
「くッ、そ……」
「まずはひとり――――」
そうして伸びるクロアの凶手は、しかし空を切った。
確実に女を捉えていた筈の右腕は、そのままの勢いで手すりをひしゃげさせる。
「……ぉん?」
不思議そうに虚空を見つめ、手応えがない事に驚くクロア。
そうして目をぱちくりとさせる彼女の視界が、突如として白一色に塗りつぶされる。
「わぷっ……!」
屋上を埋め尽くすように、もうもうと立ち込める白煙。
女の姿はしっかりと捉えていたのだから、恐らくは後回しにした男の仕業であろう。クロアは予想していなかった。よもや敵が煙幕を使うなどとは。その上どうやら、これはただの煙幕というわけではなさそうだった。瞬時に行ったセルフチェックによれば、今のクロアは嗅覚と聴覚も同時に潰されていた。
もしこれが通常の煙幕であればただの目眩まし、ほんの数秒程度稼げれば御の字の小細工に過ぎない。だが発生速度や展開力、そして五感のうちみっつを制圧された事実を鑑みるに、この煙幕はまず間違いなく、男の技能によるものだろう。クロアがこの答えにたどり着くまで大凡三秒ほど。言うまでもなく、これはごくごく僅かな時間でしかない。クロアという化物を打倒するには到底足りず、感覚の妨害もすぐに回復されてしまうであろう、ほとんど刹那にも似た時間だった。しかしこの僅かな時間は、二人の男女が命がけで作り出した唯一の好機であった。
すなわち――――。
「あーもぅ、うざったいなぁ! こんなしょうもない時間稼ぎ、一体なんの意味が…………うん?」
クロアが大きく腕を振り、滞留する煙を即座に吹き飛ばす。
巻き上げられた煙が空へと登り、漸く視界が晴れた時。
「は? ……ウザぁ」
そこに怪しい二人組の姿は、もう無かった。




