第10話
腰まである艷やかな黒髪が、小さく揺れる。
不敵な笑みを浮かべつつ、ゆっくりと紅茶を口に含むその姿は、どこか気高さを感じさせる。
机の上に頬杖をつき、まるで品定めするかのように織羽を見つめる少女。たったそれだけの仕草にすら、ただの資産家の娘とはとても思えないような、洗練された美しさがあった。
「随分と――」
凪が口を開く。
「随分と可愛らしい子が来たものね。私はてっきり『如何にも監視役です』、みたいなメイドが来ると思っていたのだけれど」
皮肉のつもりか、或いは単純に褒めているのか。資料の上でしか凪を知らない織羽には、どちらとも判断がつかなかった。
今回の任務の面倒な点。それは凪の入学に際し新しいメイドを雇用することを、凪自身が反対していたということだろう。
そもそもの話、九奈白凪という少女は周囲に人を置きたがらない。花緒里然り、この館に住まうごく少数のメイド然り。彼女の周囲には、以前より重用していた世話役の者しかいないのだ。人間不信というわけではないのだろうが、しかし他人を信用するハードルが異様に高い。
九奈白凪は自らの特殊な生まれを自覚しつつも、その立場に甘えることを嫌う。金持ちの子女にありがちな『我儘』や『傲慢さ』は断じて無いが、しかし我が強い。例えるなら、まさに『孤高の令嬢』といったところだろうか。個人の能力は非常に高く、既にその立場に見合うだけのものは持っている少女なのだが。
そんな彼女を溺愛している九奈白家当主が、凪と揉めに揉めた末。
妥協案として殆ど強制的に付けたお目付け役。それが今回織羽に与えられたポジションである。
といっても、織羽が派遣されてきた本当の目的は別にある。表向きは世話係の体を取っているが、実際には凪の護衛が本命だ。
これは非常に面倒な仕事であった。なにしろ護衛とは、『する側』と『される側』の信頼関係が重要となるのだから。
例えば織羽が席を外している時、凪が自ら進んで危険な場所へと入って行けばどうなるだろうか。『ここから先は地雷原です』と伝えたとして、全力疾走でそこへ突撃されればどうなるだろうか。これらは極端な例ではあるが、つまりはそういうことなのだ。危険が迫った際に指示を無視されては、如何に織羽といえども護りようがない。故に、信頼関係の構築が最重要課題となるのだが――――
「まぁいいわ。これからよろしくね、織羽」
「宜しくお願い致します」
言葉面だけを取ってみれば、友好的に見えなくもない。多少挑発的ではあるが、笑みを浮かべてもいる。だがその実、凪の瞳はちっとも笑ってはいなかった。織羽は『全く信用していないわよ』と、そう言われているような気がしていた。
(……資料通り、かな? まぁ初対面だし、こんなものといえばそうなのかもしれないけど)
そう、織羽と凪はまだ初対面だ。凪が望んで結んだ雇用関係ならばいざ知らず、初対面の相手を信頼しろという方が無理のある話。織羽はこれから、最長で三年間も凪と共にいることとなる。信頼関係など、これからいくらでも築いていけるだろう。微妙に不穏な気配を感じつつ、織羽はそう考えることにした。
今はそれより、女装がバレないかの方が心配だった。父親に無理矢理付けられたメイドが実は男で、女装しながら女子校に通っていましたなどと。信頼関係も何もあったものではない。邪な考えなどあるはずもないが、しかしそんな事がバレれば一発で終わりだ。第一印象ではバレていない様子だが、果たしてこの先隠し通せるだろうか。タフガイを自称する織羽に言わせれば、これこそが一番の心配であった。実際にはバレないどころか、『可愛らしい』という評価すら頂いているのだが。
「貴女の仕事については、もう聞いているのでしょう? 何か聞いておきたい事はあるかしら?」
この言葉ひとつとっても、どこか事務的なものを感じさせるが――――織羽とて、対人関係がそう上手い方ではない。余計なことは口に出さず、差し当たって必要なことだけを尋ねることにした。
「では、凪様のことはなんと呼べばよろしいでしょうか?」
それは呼び方の話であった。
一見どうでもよいことのように思えるが、しかしこれが意外と大事だったりする。基本的には敬称に『様』を付けておけば問題ないが、どこにでも偏屈な者は居るものだ。かつて織羽が護衛任務を行ったときにも、そういった者は一定数存在した。『様』付けが嫌だとか、ニックネームを考えて欲しいだとか、愛称で呼べだとか。金持ちや上流階級の者ほど、そういったよく分からない拘りを持っていることが多い。特殊な考えを持っているからこそ、そういった立場にいるのかもしれないが。ともあれ、ただでさえ色々と隠し事の多い織羽である。こんな下らないことで主人の機嫌を損ね、任務達成の障害を作り上げるなど御免被りたいところである。
しかし、そんな織羽の考えは裏目に出ることとなる。
「そうね……折角だし、貴女のセンスを見ておこうかしら――――貴女はどう呼びたいのかしら?」
(うそん……そのビジュアルでそっちタイプなの?)
織羽はただ、一応の確認を取っただけなのだ。
初対面とはいえ、凪のことは資料である程度知っている。彼女は基本的には真面目タイプであり、実際にこうして顔を合わせた今も、それほど冗談を言うタイプには見えない。故に『お嬢様』か『凪様』のどちらかで落ち着くだろうと、織羽はそう予想していた。こういったおかしなことを言い出すのは大抵、奇人か行き過ぎた天才タイプだと相場が決まっている。如何にも『お嬢様です』といった様子の彼女が、まさかこんなふざけたことを言い出すなどとは。
(面倒だな……もしかして試されてる?)
そっと視線を凪の方へ送ってみれば、彼女はなにやら挑発的な笑みを浮かべていた。
センスを見るというのなら、ユーモアのある解答を期待しているのだろうか。ある程度の無礼は許されるのだろうか。或いは、これは罠なのかもしれない。センスを見せろと伝えることで、本当にふざけた答えを出すかどうかを試しているのかもしれない。酒の席での『無礼講』を真に受け、上司にタメ口を使うだとか。そういった類のアレだろうか。
(……デカ乳とか言ったら怒られるよね。黒髪が綺麗だし、いっそ『姫』とでも呼んでみるか……? いやいや、そういうの嫌いなんだっけ?)
言えるはずもない妄想に、古来からあるつまらない案。いくつもの考えが浮かんでは消え、織羽の頭を支配する。しかし今は顔合わせの最中であり、時間の余裕はそれほどない。いっそ普通に呼べばいいだけの話だというのに、しかしなにかを試されているのではという考えの所為で、織羽は徐々に追い詰められてゆく。
(っていうかそのデカ乳で学園生活は無理でしょ……っと、駄目だ駄目だ。先生にも『時折ふざけるのがあなたの欠点です』って言われたじゃないか。真面目に考えろ……やっぱり普通に『凪様』がいいのかな? それとも『お嬢様』か? いや結局一周回ってるだけだし、それにつまんな――――あ、時間がヤバい)
織羽が脳内で言葉をかき混ぜていたところ、いよいよやってきた制限時間。令嬢を前にして長時間沈黙するなど、それだけで叱責ものである。そうして慌てた織羽が咄嗟に出した言葉は、候補の中でも最低クラスのものであった。余談だが、織羽は綺麗な顔をして意外と口が悪い方である。辛辣な罵倒をするタイプではないが、笑顔でさらりと失礼なことを言うタイプだ。そんな織羽の性格が裏目に出る形となった。
「ではデカ乳で」
「……なんですって?」
「ではお嬢様で、と申しました」
平静を装って誤魔化はしたものの、切り抜けられるかは微妙なところである。
そもそもあり得ない解答であることに加え、多少早口で告げたこともあって、凪が聞き取れていない可能性もある。
「……」
「……まぁいいわ。面白みはないけれど、ね」
(や、やったぁ! セーフだぁ!)
色々とありはしたものの、どうにか誤魔化しきれたらしい。
こうして窮地を脱した織羽は、花緒里に促されるまま凪の部屋を後にした。
* * *
ひとまず織羽を部屋の前で待たせ、凪と花緒里は室内で相談をしていた。
内容はもちろん、今しがた挨拶に訪れた新米メイドの件についてである。
「お嬢様、如何がでしたか?」
「ふふ……面白い子ね。それにとても美人だし、お父様の差し金というのが少し惜しいくらいだわ」
「おや……珍しいですね。お嬢様が初対面の相手に、そんな評価を下すのは」
凪の言葉を受け、花緒里は酷く意外そうな顔を見せた。
現在この館で働いている他のメイド達ですら、それこそ初対面では散々な評価をされていた。珍しいどころの話ではない。彼女の記憶が確かなら、凪がこんな風に他人を評するのは初めてのことである。まして、笑みを浮かべるなど。付き合いの長い花緒里にはよく分かる。これは先程まで凪が見せていた、相手を試すような表面上だけの笑みではない。本当に愉快だと思っているときの、とても珍しい微笑みだ。
「花緒里も聞いていたでしょう? あの子、私に『デカ乳』って言ったわよ?」
「……申し訳ありません。厳しく言いつけておきますので」
「別に怒ってなんていないわ。むしろ嬉しいくらいだもの」
「お嬢様が特別扱いを嫌うことは存じておりますが……それはちょっと変態っぽいですね」
「ふふふ、貴女も大概失礼なことを言っているわよ? 別に構わないのだけれど」
どこか上機嫌に笑い、窓の外へと視線を向ける凪。それは深窓の令嬢と呼ぶに相応しい、酷く絵になる姿であった。
「では、あの者は信用出来ると?」
「それとこれとは別の話よ。とりあえずは、叩き出すほどじゃなかったというだけ」
「そうですか……それでは、私は織羽さんに館内の案内をして参りますので」
「ええ、よろしくね」
こうして織羽は自身の知らないところで、ほんの少しだけ、凪からの好感度を稼ぐことに成功したのだった。
彼と彼女が信頼関係を築く日は、まだ遠い。