序章 開戦の朝
戦争から煌めきと、魔術的な美が失われつつある。
これはその最後の輝きを放つ戦いとなるだろう。
-レンベルク国民新聞 年始の社説より-
月のない夜のことである。
空には薄く雲がかかり、その向こうに輝いているはずの星々も姿を見せることはない。
乾いた空気が滞留し、徐々に湿気を持ち始めている。
平原を蛇行する川の流れは穏やかそのもの。
水音もほとんどしない。
無音といってもいい世界。
その静寂が破られたのは日付が変わってしばらくたったころだった。
そして大地を蹴る音。暗がりを何かが動いている。
その数は十や二十ではない。
百や二百という単位である。
黒や茶色の馬が列をなして川に沿って進んでいた。
その背には暗がりに溶け込むような濃い青色の服に身を包んだ男が乗っている。
彼らの表情は重く険しく、また決意に満ちていた。
その一団の中にガリーツァ大公国陸軍大尉フェリックス・リピンスキの姿もある。
彼は手綱にかける力を強めたり弱めたりを繰り返している。
緊張しているらしかった。それもそのはずである。
彼は、彼の国は、戦争を始めようとしているのだから……。
フェリックスは小さく息を吐いた。
彼の乗る馬は川に沿って北上している。
既に国境線は越えた。
侵略者。
軍をなして線を越えた彼らを呼ぶべき言葉は他になかった。
その誹りを受けてなお、彼らはやらねばならないことがある。
だからこそ彼らはここにいた。
暗闇とはいっても全く光がないわけではない。
わずかな光を捉えるフェリックスの瞳は向こう岸を捉えつつあった。
彼の前をすでに騎兵二個中隊、三百騎以上が国境を越えている。
向こう岸にたどり着いたからといって何かが起こるわけではないと、心では分かっていた。
しかし部隊をして外地を、敵地を踏むということの意味を知らないではない。
招かれざる客である彼らをもてなす準備をしている家主がいるかもしれないが、おそらくは心配いらないだろう。
確信と言って差し支えないくらいの自信がフェリックスにはあった。
その自信の源へ目を向ける。
彼のすぐ右隣を行く小柄な騎馬、そしてそれに似合いの小柄な人物の姿。
騎兵に向いた長身の男たちが列をなす中にあって、それは異質に見える。
異質さはそれだけではない。
ボリュームのある長い髪は二つ結びにされ、馬の歩みに合わせて揺られている。
シャルロッテ・フォン=ハインリッヒ少尉は男社会の軍隊にあって珍しい女性の将校である。
それにはそれだけの理由があった。
「少尉、前方の様子は分かるか?」
自分よりも背が低く、見通しの効かないはずの相手へ問うことではないように思える。
しかしこの場において彼女以上に適任の者は他にいない。
「問題ありません。敵の姿は“視え”ません」
そう答えたシャルロッテの方を見ると、彼女は目をつぶったまま手綱を握っている。
軽く下を向いたまま馬を御している。
フェリックスにとってはもう見慣れたものではあるものの、驚きが一切ないわけではない。
この夜の帳の中を目隠しで馬に乗れと言われ、それをこなすことができる者がどれだけいるだろうか。
少なくとも、彼はやろうとは思わなかった。
まだ幼さすら感じさせる顔から感情を読むことはできない。
しかし明るいクリーム色の髪の輝きと相まって、神々しさすら感じさせられる。
比喩ではない。
本当に輝いているのだ。
ぼんやりとした光に包まれている。彼女は魔女、そして魔術士なのだ。フェリックスに見えぬものが視えている。科学と魔法が手を取り合い、戦争という途方もない事業をなそうとしていた。
フェリックスはすでに祖国の地を離れ、外地と呼ぶべき場所にいる。
しかし外地がすなわち敵地であるかと問われれば、この地においては首肯できるものではなかった。
世界はあいまいな線によって隔てられているというのが実際である。
そのまま緩やかな起伏をなす大地を馬とともに進んでいく。
その歩みを止めたのは夜明けまで一時間を残した頃である。
季節は夏。
早い日の出が来れば敵も気付くだろう。
もっとも、それは相手に魔術士がいなければという話ではあるが。
いるのであればとっくに発見されている。
フェリックスはそんなことを考えながら双眼鏡を覗き込む。
頼りない光を集めて結んだ像に、動くものは何一つない。
この平原には彼らしかいないのだろう。
そう結論付け、フェリックスは視線を双眼鏡から離す。
そんな彼の下へ伝令の兵士が一騎駆けてきた。
「参謀殿、旅団長閣下がお呼びです。至急司令部へ」
その呼びかけに短く答えていると、周囲を見回していた伝令はフェリックスの傍らにシャルロッテがいることに気づいたらしい。
「魔術官殿もお願いします」と付け加えた。
そして彼の操る馬に続いて、三騎が来た道を戻り始める。
司令部と言っても建物が建っていたり、何かで囲われているわけでもない。
平原に旅団長がいて、参謀がいて、魔術官がいる。
そこがすなわち司令部である。
騎兵第二旅団を指揮するカール・フォン=ライヘル少将は、馬から降りて机に置かれた地図を前にしていた。
豊かな口髭をしごきながら眉間にしわを寄せている。
考え事をしているときの彼の癖である。
そんな彼はフェリックスの到着に気づいたのか、口元にあった右手を上げて「おう」と声をかけてきた。そしてすぐに視線を地図に戻す。
オイルランタンの放つオレンジ色の光に照らされた地図は彼らがいる場所、ロンドメア南西部を示した中縮尺のものである。
散らばる村落と、そのいくつかを繋ぐ線路が描かれている。
この地図を塗り替えることが、彼らに課せられた任務だった。
ロンドメアとはガリーツァの北東に広がる地域を指す。
一応は国家であるが、その領域をしっかりと治める中央政府があるわけではない。
軍閥のたぐいが狭い地域を抑えている不安定な地域である。
そんな場所がすぐ隣にあるというのは不安材料以外の何物でもない。
さらに向こうの国がこの場所を押さえたらどうなるか。
その問いへの答えは単純明快である。
“帝国主義”という時代は軍事力という血なまぐさい解法によって作られていた。
相変わらず口髭をしごいていたフォン・ライヘル少将は顔を上げると、傍らに立つ中佐へ声をかけた。
「参謀長、斥候の得た情報をもういっぺん話しとくれ」
「はい。先月より段階的に潜入させた結果、フルビェショフにはロドメリアの兵士はほとんどおりません。ルテニア軍の二個歩兵中隊がいるのみです」
地図を指差しながら参謀長エドゥアルト・マズール中佐が答えるのを、フォン・ライヘル少将は頷いて聞いていた。
ルテニア。それが彼らの戦おうとしている相手の名前だった。
正しくはルテニア帝国という。
ロンドメアのさらに向こう側にある大国である。
大陸のはるか向こう側までを版図としている。人口も領土もガリーツァとは比較にならないほど多く、また軍事力も強大。
それを知っていてなお相手にしなければならない理由がガリーツァにはあった。
フォン・ライヘル少将は報告を静かに聞き、最後に「わかった」と付け加えた。
たいていの彼の返事がこれである。
参謀や現場指揮官の意見を追認することがほとんどで、彼らの結論をひっくり返そうとすることは少ない。
演習時にそんな彼の姿をフェリックスが見たことは片手で足りるほどで、そのすべてで参謀側の判断が誤っていた。
とかく機を読む才能に長けている。
それが司令官へのフェリックスの印象である。
「現在展開しているのが半個旅団、つまり一個連隊と司令部で六百騎おるわけだ。これでだけの兵力でフルビェショフの町とはずれにある駅を占領するのが任務。楽ではないが不可能でもないというところだな?」
あっけらかんとした感想である。
だがフェリックスも同意見ではあった。
彼もそういう結論に至った上で作戦案を立てて参謀長へ上げた。
それが成案として司令官の手元に届き、司令官はそれを裁可した。
そして彼が現場指揮官に命じる。そうして作戦は実行に移されるのだ。
司令官がすべきことは、参謀の得た結論をその通りに運用し、その結果に責任を持つことである。
ガリーツァの軍隊はこのように、司令官と参謀の職域が細分化された近代的システムを有していた。
空が白み始めている。オイルランプの光を頼らずとも地図の示すものを見てとることが出来ていた。
「では始めようか」
重そうに椅子から腰を持ち上げ、フォン・ライヘル少将はそう言った。
彼を囲む者が深く頷く中に、フェリックスやシャルロッテの姿もある。
いよいよ彼らは戦争を始めるのだ。
少将の「出撃」という声が静かに、また力強く原野に響いた。
賽は投げられたのである。
フェリックスは再び鞍上にあった。本来的の彼の任務は司令部で作戦を立てることにある。
それでも部隊への帯同を命じられたのは、初弾を撃つことになるという状況が、機敏な判断を求めたからであった。
いちいち司令部にお伺いを立てなければ戦闘ができない。
それでは戦争にならないのだ。
もちろん伝令もいるし、野戦指揮所には電話線も引く。
そして他にも手段がある。
それでも権限を持つ者が現場にいることに意味があるのだった。
その“手段”から声がかかる。
「いよいよですね、参謀大尉」
少し上ずった声は逸っているからか、それとも緊張しているからか。
早い朝日がシャルロッテの色白の顔を照らしつつある。
そんな顔を見ながら、フェリックスは短く「あぁ」とだけ答え、一度正面をにらんだ。
地平線に背の低い建物の屋根がわずかに見えている。
朝餉のための煙もなく、静寂に満ちている。
その平穏を侵すために騎馬は駆けていた。隊列の中にあって、ひときわ背の高い将校がサーベルを抜いた。銀色の刃が朝日を反射し、ギラリと煌めく。
「中隊ー、突撃!」
白刃を煌めかせた中隊長を先頭に、横隊をなした騎馬が駆け出していく。一個中隊、約二百騎の騎馬が、サーベルを煌めかせ、またライフルを突き立てながら、大地を蹴る音が大地に響く。
そんな中でフェリックスは声を張った。
「少尉、司令部へ連絡!ワレ、突入セリ!」
「はい!」
通る声でそう返事をしたシャルロッテは、手綱を握っていた右手を口元へと持って行った。
人差し指に光る金色の指輪。
それに唇が触れる。
ほんのわずかな時間の後、彼女の手元が光を帯び始める。
指輪につけられた赤色の宝石が輝きを増すと同時に、彼女は右腕を空に振り上げた。
そして赤く光る拳をくるりと一回転させる。
すると一筋の光が後方へと放たれ、虚空へと消えていく。
―――伝達魔術。
魔術によって遠い場所との通信を行う、近代戦争に必須の技術である。
魔術官が前線に帯同する大きな理由の一つがこれだった。
そして夜明け前に彼女がしていたように、遠方を見通す術に長けた者もいる。
魔力のない者がそうであるように、魔法使いもその能力を活かして戦争が遂行されようとしている。
近代国家は民へ平等に教育と福祉を与える代わりに、国家事業への参加と、戦場での死を求めるのだ。
それらが乗った天秤が釣り合うか否か。
それは誰にも答えられない問いだった。
答えを求めながら、兵士たちは騎馬を駆った。