契約上の夫が部屋におしかけて来て……
大忙しでバタバタした日がしばらく続いた。明日、いよいよドナルドソン侯爵領に出発することになっている。
三店舗のことは、今回はモーガンとアイラに任せることにした。ふたりも含め、三店舗の店長やスタッフとも打ち合わせをした。
屋敷に早々に戻り、自室にこもって翌日の準備をすることにした。
愛用のトランクを引っ張り出し、必要な物の荷づくりを始めた。
とはいえ、旅慣れているわたしにとって荷造りもお手の物。というよりか、荷物はほとんどない。旅の際にはあまり荷物は持たないようにしている。
もう終わるというタイミングで、自室の扉がノックされた。
「どうぞ」
メイドのだれかかと思ったので、何の考えもなしにそう応じた。すると、すぐに扉が開いた。
「やあ」
扉の向こうに立っているのは、契約上の夫であるフィリップである。
「ちょっといいかい?」
室内の灯火を吸収し、キラキラ輝いているのはあいかわらず。
彼は、それを意識しているのか白い歯をムダに見せつけきらめかせた。
最近、彼の言動のすべてが面白くてならない。
「見てわからない? 明日の準備で忙しいの。さっさと用件を言って」
そして、いつものようにムダに辛口の対応をしてしまうわたし。
「いっしょに領地に行くよ」
「必要ないわ。今回は、領地の経営関係で行くわけじゃない。燕麦の生産状況を確認しに行くだけよ」
ピシャリと音がしそうなほど、きっぱりスッキリさっぱり拒否る。
「これでも一応領主だ。領地の様子を見ておきたい」
「そう。でも、サッと行ってササッと用件を済ませ、サササッと戻ってくる。物見遊山的に行くわけじゃない。わかる?」
「足手まといよ」と、暗に伝える。
「いまはきみが燕麦オンリーにしてしまったけれど、じつは葡萄酒も名産だって知っているかい?」
が、彼には伝わらなかった。
「葡萄酒は飲まないの。それを言うなら、麦酒も火酒もだけど。とにかく、連れもって行くつもりはないわ」
「残念だが、明日の午前中は所用があってね。追いかけるから、先に行って欲しい」
「はあああ? だったら、行かなきゃいいわ。というか、わざわざ来なくていいから。王都でのんびりなさい。わたしを追いかけ回すのに疲れているでしょうからね」
ストレートに伝えてみた。
「きみに比べれば、疲れなんてないさ」
彼の白い歯は、いまや眩しいくらい光り輝いている。
どうやら、彼にはストレートな表現でも伝わらないみたい。
「明日は馬車で行った方がいい。うちの紋章が入ったものではなく、シンプルな馬車の方が無難だ。手配はしている。明日の朝、届けてもらうようになっている。イアンが馭者を務める」
イアンは、ドナルドソン侯爵家の雑用人である。馬の管理や馭者も務めてくれている。
最近、各領地や他国を結ぶ各街道で盗賊が横行しているらしい。実際、商人貴族を問わず、襲撃が続いている。警察の手に負えず、軍の出動も視野に入れているとか。
いつもは馬車を使わず、馬を走らせている。武闘派の家柄なのがさいわいしてか、馬車用乗馬用の馬が数頭ずついる。乗馬用の馬を使えば、半分とまではいかずとも時間を短縮出来る。
出来れば今回もそうしたい。
たとえ盗賊の襲撃に遭ったとしても、逃げきれる自信はある。
なにせ乗馬は得意中の得意なのだ。
「考えておくわ」
この話をはやく切り上げたかったし、彼の好意を無碍にするわけにはいかないのでそう答えておいた。
「ああ、考えておくというのは馬車のことよ。あなたが追いかけてくることじゃないわ。話はそれだけ? だったら、おやすみなさい」
そう告げつつ、扉に向った。
彼を物理的に追いだす為に。
「サナ」
彼を部屋から押し出しつつ扉のノブに手をかけると、彼がそのわたしの手を握ってきた。
自然、ふたりはくっつくわけで……。
「もうそろそろ主寝室に移ってきてもいいだ……」
「顔が近すぎるわ。それに、触れないで」
顔と顔の距離は、いまや不快感マックスなほど近すぎる。
「おやすみなさい」
彼を睨み上げると、彼は手をひっこめた。
そのタイミングで彼を廊下へ完全に押し出す。
「サナ……」
彼は、初対面のときとは比べものにならないほど表情と感情豊かになっている。おそらく、これは演技。
初対面の時の「ないない尽くし」が彼の本質なのだ。わたしの直感は、そう告げている。
扉を閉じたとき、彼の美しすぎる顔にはこちらがドキリとするほど切ない表情が浮かんでいた。