冗談じゃないわ
「とはいえ、きみのしでかしたことのほとんどは、わがドナルドソン侯爵家には利益となったわけだ。であれば、このまま結婚してやってもいい。つまり、契約ではない本物の妻にしてやろうというわけだ。まぁ書面上では、おれたちは夫婦だ。手続きなども省けるのでな」
わたしは、つねに冷静で平常心を保てるよう訓練を積んできた。だけど、いま眼前にいる外見だけの傲慢でひとりよがりなこの男にたいしては、冷静でいられそうにないし平常心を保てる気がしない。
いいえ。すでに頭と心の中で爆発してしまっている。
「あなたって、いったいなに様のつもりなの? 正式な結婚ですって? 本物の妻にしてやろう? ふんっ、冗談じゃない。あなたみたいな胸糞の悪い男の妻になる為に、この五年間契約妻をしてきたわけではないわ」
「なんだと?」
彼は二冊の帳面を机上に叩きつけ、ついでに両掌を叩きつけると立ち上がった。
窓の向こうに見える木の枝でお喋りをしていた小鳥たちが、その大きな音に驚いて羽ばたいた。
「お・こ・と・わ・り、と言ったのよ。契約解除なら、わたしはお役御免というわけよね? だったら、すぐにでもこの屋敷からお暇させてもらうわ。それでオーケー? 理解出来たかしら?」
「ダメだっ!」
彼の美貌は、怒りの形相でさえ美しく見える。
「きみには、ここにいてもらう。今日から一緒に食事をし、いっしょに本を読み、会話をし、夜は同じ寝台で眠ってもらう」
「はああああああ? あなた、わたしの言うことをきいていたの? ぜったいにイヤよ。同じ空間にいるのでさえやめて欲しいわ。話はそれだけ? では、わたしはここから退去する準備をするので失礼するわ」
「待てっ! まだ話は終わってはいな……」
まだ怒鳴り散らしている彼を無視し、執務室を出て扉を全力で閉めた。
彼を拒否するかのように……。
これが、一度も会ったことのなかった契約上の夫との初対面であり、初のやり取りだった。
フィリップに追いかけられては面倒くさいからと、二階にある自室まで走った。
強迫観念的なものか、うしろの方で扉の開いた音や駆け足の音がするのを背中でききつつ走り続けた。
無事に自室に駆け込んだとき、肩で息をしていた。
「このわたしが、なにをやっているのかしらね?」
姿見に映っている自分の取り乱した姿を見て、おもわず苦笑してしまった。
「開けろっ! とにかく話し合おう。というか、もう決めたことだ。きみに選択肢はない。きみがなんと思おうと言おうと、おれたちは本物の夫婦だ。せめて心を整理するのと準備する時間をやる。落ち着いたら、主寝室に移る準備をするんだ。いいな?」
フィリップが扉をドンドンと叩く音に眉間に皺をよせ、さらなる傲慢な物の言い方に顔をしかめる。
扉の向こう側が静かになったとき、心からホッとしたことは否定しない。
「どうするのよ、わたし?」
逃げだせばいい。
こんな厄介で面倒くさいところなど、さっさとおさらばすればいい。
自問自答する。
「だけど、すこしだけ興味をそそられるわね」
自室内を行ったり来たりしながら、悩んでしまう。
逃げることはたやすい。
このまま姿をくらませ、他国に行けばいい。
ここでのサエ・エドモンズ公爵令嬢、もしくはサエ・ドナルドソン侯爵の妻としての名も存在も、すべてを消して。
ダウランド帝国での名や存在を消したときと同じように。
そして、また他国でやり直せばいい。
違う名や存在を使って。
わたしのスキルと才覚があれば、それらをすることはわたしにとって容易なこと。
しかし……。
あの外見だけの傲慢野郎の正体って?
彼の突然の「正式な結婚」宣言にガラにもなく取り乱してしまったけれど、ともすればその宣言もなにか裏があるのかもしれない。
(もしかして、わたしの正体がバレている?)
だとすれば?
彼の意図するところは? というよりか、彼はいったい何者でどうしてこんなことを? いま、このタイミングで仕掛けてくるの?
わたしの正体を知っていて、なおかつこんなバカバカしいことを仕掛けてくるの?
結局は、「彼の正体は?」ということになる。
だとすれば、ここにいて調べるしかない。彼を探り、知る必要がある。
ということは、彼の提案を受け入れるしかない。
(バカね、わたし。せっかく引退して逃げてきたというのに、またこんなことに興味を抱くなんて)
自分で自分に呆れ返ったところで、生来の危険なことやヤバいことが大好きな気質は、そうそうかえられるものではない。
そんな自分の性格は諦めることにした。
そして、彼にいくつかの条件を突きつけ、ここに残ることにした。
それは、「寝室は別」ということと、「自分の好きなことをし続ける」である。
「正式な結婚」のことについては触れなかった。
わたしたちは、書面上なおかつ世間的には「正式な結婚」をしている「ちゃんとした夫婦」。じつは、そうであるかどうかは心の持ちようだから。
そうして、わたしたちは同じ屋根の下、共に暮らすこととなった。
まるでほんとうの夫婦のように。