契約上の夫と初めて顔を合わせる
執務室は、もともと当主が使うべき部屋。その当主不在のいま、わたしが使わせてもらっている。
いつものように扉を開け、部屋に入った。すると、部屋の奥の執務机の向こうにある窓が開いている。
そして、そのすぐ前にある執務机にはだれかが座っていて、椅子の背がこちらに向いている。
扉が開いた気配に気づいたのか、椅子がゆっくり回転した。
椅子に座っている人物と目が合った。
それはもう、これまでに一度もお目にかかったことのないほどの美しい男性である。金髪は短く刈り揃えられていて、それがまたよく似合っている。その金色に輝く頭髪を肩に届くほどの長さにすれば、さらに似合うはず。そして、まるで美術品のように精緻に整った顔立ちはさることながら、その碧眼の澄み具合。さほど近くない距離にもかかわらず、その碧眼が清らかな泉よりもずっときれいなことが見て取れる。
その美しいふたつの瞳が、わたしの黒い瞳を惹き付けてやまない。
その上、彼の上半身は彫刻よりも美しい。それが衣服の上からでもよくわかる。
見つめ合う、ではない。睨み合っていると表現した方が適切かもしれない。
まるで突然湧いて出たかのような彼の正体を、わたしはすでに察している。
もっとも、彼が着用している衣服を見れば、推測するまでもなく彼の正体がわかるでしょうけど。
とにかく彼の正体については、いやでもわからざるを得ないというわけ。
将校服姿の彼が、ドナルドソン侯爵家の当主フィリップだということを。
わたしの契約上の夫が、五年のときを経て戻ってきたのである。
視線を外した方が「負け」、という勢いで睨み合いが続いている。それこそ、いまにも「バチバチ」と火花が散りそう。
これほどの緊張を強いられたのは、ほんとうにひさしぶり。
一筋の汗が、背中を伝う。
それは、向こうも同じかもしれない。向こうの張りつめた緊張を感じるからこそ、ますます緊張するという悪循環である。
(なによ。なんとか言いなさいよ)
視線だけではない。この沈黙の中、先に言葉を発した方が「負け」、といわんばかしに無言を貫き続けている。
おたがいに無言の圧をかけあう中、ひとつのことがわかった。というか、そのこと以外わからないのがわたしを不安にさせる。
(彼、ただ者ではない)
それが、いまの時点で唯一わかっていること。
それ以外のいっさいの情報をわたしに読ませない、あるいは悟らせないことから、彼が他とは違うことが分かる。
彼は、意図的にすべてを消しているのである。
感情や思考といったようなことを。
もちろん、なにも感じずなにも考えていない、という可能性はある。
しかし、彼の場合は違うはず。
意図的に消し、わたしを探っている。
無の状態で相手を探るなどということは、訓練を受けていないとなかなか出来ることではない。
(いったい、彼は何者なの?)
彼は、ドナルドソン侯爵家という武闘派の家系だから軍の要職に就いているのだと思っていた。つまり、お定まりで軍に所属し、適当にやっているのかと思い込んでいた、ら
が、どうやらそれは大いなる勘違いだった。
彼のほんとうの正体はわからない。だけど、これだけは言える。
彼は、一癖も二癖もある男だということを。
「サナ・エドモンズ公爵令嬢。いや、わが契約上の妻よ」
窓から射しこむ陽光が、彼をよりいっそう煌めかせている。
そのとき、やっと彼が口を開いた。
一瞬、睨み合いに勝ったと思った。
「おれたちは、五年の契約期間を経て本日からほんとうの意味で結婚する」
が、その優越感はすぐに消え去った。
「は?」
彼の言っていることがわからなかった。彼が癖の強いカニングハム王国語ではなく公用語を喋ったはずなのに、理解出来なかった。その内容がまったくわからなかった。
「噂にたがわず、じつにいろいろ問題を起こしてくれたようだな」
彼は、一冊の見覚えのない帳面をヒラヒラさせた。
おそらく、その帳面にはわたしのことが書かれているに違いない。
「が、噂にはないこともいろいろ起こしてくれたようだ」
彼は、さらに見覚えのある帳面をヒラヒラさせた。
それは、間違いなくわたしの帳面。いわば、わたしの虎の巻的帳面である。
(っていうか、わたしのものを勝手に見たわけ?)
「たしかに好きにすごしていいとは記していたが……。ここまで好き勝手するとはな」
彼は、唖然とするわたしなどお構いなしに心底おかしそうに笑った。
そのさわやかな笑い方が、いまのわたしには不愉快でしかない。