〈六〉
七月二十六日夜、高輪から品川にかけてなだらかに弧を描く浜に善男善女が押し寄せ、月待講に興じていた。人で芋洗いをやってみたらほらこのとおり、といわんばかりに混雑している。
きらきらしい装束を着崩し、けばけばしい化粧の剥がれ落ちるにまかせたままの姫御前もどきやら、つくりものの大蛸をかぶり脚をうねうねさせている若衆やらが、三味線や、鉦鼓を手にした囃子方を引き連れげたげたと笑いながら通り過ぎていった。街道沿いに建ち並ぶ居つきの茶屋の二階からも胴間声やら嬌声やらが聞こえてくる。
浜に負けず船で混雑する海上で
どん、どんどん、どん。
花火があがった。
天ぷらやら水菓子やらを買いもとめ、与次郎は葦簀張りの茶店へ戻った。
「おお、待ちかねたぞ!」
酔ったのだか、茶店の提灯の明かりが映ったのだか、友野の顔が赤くに染まっている。縁台の角盆の上に皿を載せると、友野は子どものようにはしゃぎながら天ぷらの串を手にした。かたわらの重箱には小磯茶屋料理方の心尽くしがつまっていたはずだが、とっくにすっからかんになっている。
「旦那、ほどほどにしてくだせえ。こんな調子じゃあ、三尊のお出まし前に腹を壊しちまいやすぜ」
「うまくてなあ、つい! ――与次よ、おまえも呑め」
上機嫌の友野がちろりからたぷぷ、と勢いよく酒を注ぐ。与次郎は盃に口をつけ海へ目をやった。
伊助、いち造、清吉、といくつも名前を乗り換えた男、徳治に首を絞められた与次郎とお才は駆けつけた友野同心や総左衛門の介抱で息を吹き返した。その場で取り押さえられた徳治は
「確かに首に手はかけましたけど、ふたりともぴんぴんしているじゃないですか」
けろりとして罪を認めようとしない。ただの悪ふざけだと言い張る。
――これは手こずりそうな……。
どう落としたものか。友野ら八丁堀で取り調べにあたる同心たちは困惑していた。が、与次郎に耳打ちされた友野が
「おい、徳治」
と不意討ちで呼びかけたところぶるぶる震え青くなり、赤くなってまた青ざめ
「その名前で、呼ぶなあああ」
喚きはじめた。ひとしきり暴れたあと徳治は憑きものが落ちたようにおとなしく素直になり、しばらくのち打ち首の刑に処された。
――あれから一年、か。
二十六夜待ちがまためぐってきた。世話になった喜之介のために巡回か、小磯茶屋の裏方か、何らか手伝いをしたいと申し出たはずがあれよあれよという間に客として月待ちを楽しむことになってしまった。快く送り出してくれたぜに屋総左衛門夫婦に申し訳が立たない。
「よい、よいのだ次! 次は必ずがんばるということで今年は楽しめばよいのだ!」
だっはははは、とまわりの喧噪に負けず友野がはしゃぐ。つられて盃を重ね、与次郎も心地よく酔った。
ふ。
気がつくとあたりが静まり返っている。寿司を握っていた屋台のおやじも、化粧の剥げた姫御前もどきも大蛸も、片肌脱いだ酔客も皆、じっと海を見つめている。
水平線をさやかな光がぴしりと裂く。月がゆっくりとのぼってきた。
「おい、見たか。三尊のお姿、見えたか」
まわりを憚って声を潜め、友野が与次郎の袖を引く。
「へい。旦那はいかがでした」
「見たぞ、もちろん。――光の分かれていたのがこう、ひとつになって」
並べた掌を左右に開きぴゃっ、と閉じる。
「あれが、そうなのだろうか」
「きっと、そうでやしょう」
一度静まり返った浜に、また人々の楽しげなさざめきが充ちてきた。
「よいものだなあ」
「へい、まことに」
酩酊の果てに幻を見ただけだとしても、月の美しさにかわりはない。
ちろりから友野の盃へ酒を注ぎ、与次郎は微笑んだ。
(了)
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