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  作者: 乙井望潮
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〈五〉


 急に話を持ちかけられて困るだろうと思いきや、小磯茶屋の主人喜之介は大喜びで与次郎を引き受けた。街道沿いというだけでなく夏場のこの時季、客も、近隣の悶着も増える。


「人手はひとりでも多いに越したことはない」


 というわけだ。


「二階の座敷からぼんやり街道を眺めていてもいいんだろうが、どうせならおれたちに混じって働いていたほうが目立たねえ」


 喜之介のはからいで、与次郎は他の手下たちとともに小磯茶屋で働くことになった。通いの小女たちには


「手伝いにきてくれた江戸住まいの縁者」


 と説明してくれた。実際小磯茶屋では毎年、二十六夜待ち当日は街道を挟んで向かいの浜にも店を出すために手伝いを集めるとかで、与次郎ひとり増えても別段驚かれることもない。商売は違うがぜに屋でも下っ引きより汁粉屋の店先に立つほうが板についているなどといわれるくらいで、仕事にはすぐ慣れた。

 しかし伊助の探索もとんとん拍子とはいかなかい。


「色白で歳二十三、四ほど、背は高く細身、――確かに与次くらいの背丈は珍しいといえば珍しいが、だからといって界隈にひとりしかいないってほどでもねえ」

「しかも、名前や生業(なりわい)を変えているかもしれねえんで」

「難しい……」


 喜之介はしばし腕を組みうなっていたが、やがて顔を上げると


「今は違うかもしれんが名は清吉、与次に似た背恰好の若い男が()んでいねえか巡回のついでに探ってくれ」


 てきぱき手下たちに指図した。


「与次はこのあたりで顔が割れねえほうがいざというとき動きやすかろう。商いの手伝いをたのむ」

「へい」

「おかみさんの行方の手がかりを握る男のことだ、居ても立ってもいられねえだろうがここは堪えてくれ」

「へい」


 与次郎はうなだれた。手がかりといっても一年前、おようがこのあたりで消息を絶ったというだけのことなのだ。


「探りってのはたまに、下手人の名前も所在もつかめていて色も味も濃いのがあらあな。そういうやまは一気呵成(いっきかせい)に人を()ぎ込んでやっつけるが常套(じょうとう)だ」


 茶店の主人にしては分厚い掌ががっしと与次郎の肩を掴んだ。


「おまえさんの持ちこんだねたは確かに手がかりとしては色も味も薄い。だがとっかかりは今のところこれだけだ。だから網も大きく広げなければならねえ。そのぶん時もかかる。辛抱だ」

「へい」


 与次郎が顔を上げしっかり頷いてみせると、喜之介は安堵したように苦み走った顔にくしゃ、と笑みを浮かべた。




 一度夕立に見舞われたほかは相変わらずかんかんと厳しい残暑が続いている。めぼしい進展はない。


――一年前の今ごろ、伊助がこのあたりにいたのは間違いない。


 与次郎はそう確信しているが証拠もなければ、肝心の伊助の足取りも掴めていない。

 喜之介や下っ引きたちの探りで、高輪北町、中町、南町に伊助が見当たらないことは分かっていた。さらに網を広げてくれているがいかんせん品川宿は広く、人の出入りも激しく探索は捗らなかった。


――去年はともかく、今はもういないのかもしれない。


 伊助が高輪付近に棲みついていたかどうかもあやしい。もしかしたら宿に逗留していただけかもしれない。


――それに……。


 引き合わせて以降顔を出さない友野だけでなく、小磯茶屋の面々も決して口にしないが、ぜに屋の総左衛門やおたかのいうとおり


――おようは俺に飽きて出て行ったのかもしれねえ。


 その可能性もなくはないのだ。

 井戸から()み上げた水を(くりや)(かめ)に注ぎ足す。


「はいよ、水」

「助かるよ、与次さん」


 料理人がにこやかに応じる。一膳飯(いちぜんめし)酒肴(しゅこう)にと次々に舞い込む注文を(さば)くのにてんてこまいだ。

 小磯茶屋は街道を行くひとびとに茶だけでなく、飯も酒も(きょう)する。与次郎は小女にまじって給仕するだけでなく、水汲みやら薪割りやら、なかなかに忙しく過ごしていた。日の出とともに起き出しくるくると働き通し、夜はすこん、と眠りに落ちて夢も見ない。おかげでよけいなもの思いに沈まず過ごしていた。




 二十六夜待ちまであと五日になった。日盛りまでまだ間がある頃合い、


「やあやあ暑い、あつい」


 ざくざくと大股で友野同心が入ってきた。葦簀(よしず)の陰の縁台にどっかと腰かける。小女の運んだ麦湯を一気に干すと


「もう一杯」


 注文した。代わって与次郎が麦湯を運ぶ。待ってましたとばかりに友野同心はぐい、と湯飲みを傾けた。


「生き返る……。や、久しいな、与次郎」

「へい」


 街道は行交う人々で賑わっているが、混み合う時分でもない店に客は友野ひとり。かたわらに控え、さわわとそよぐ風に目を細めた。


「総左衛門を誘ったのだが――」


 街道へ目をやったまま友野がつぶやいた。誘ったが親分は来なかったということらしい。


「暑さが苦手なのでまだ遠出は億劫なのでしょう」

「それもあろうが、――()ねておってな」

「拗ねる?」


 驚く与次郎をちらと振り返り、友野は苦笑いした。


「おまえがぜに屋に戻らないつもりではないかと、やきもきしているようであるぞ」

「そんな、あっしは――」


 前掛けをぎゅう、と握ったところで


「おおい、待て」


 引っ繰り返った胴間声(どうまごえ)とともに


「待てったら、伊助!」


 にわかに街道がざわついた。


「違いますよ」

「いやいや、違わねえよう!」

――伊助さん。


 店の外へと踏み出そうとするのを大きく武骨な手が止めた。友野の視線をたどると葦簀の向こう、街道で男がふたり揉みあうのが見える。日に焼けたがっしりした男が、背の高い色白の男を引き留めた。


「人違いですよ」

「そんなわけがねえ、伊助よ、おめえ変わらねえなあ」

「違いますってば」

「なんだ、どうした」

「喧嘩か」


 街道を行く人々が足を止める。人垣ができつつある。


「どうだ」


 友野が与次郎に囁きかけた。


「おまえがいっていた伊助か」

「へい」


 表の騒ぎをじっと見つめる。

 力仕事に不向きなしんなりした長身。色白の肌に見苦しくない程度に整った目鼻。四年の歳月は伊助に何の変化ももたらさなかった。


「やめてください」


 顔見知りだと言い張り袖を引く男に振りまわされほとほと困り果てている(てい)で、伊助の目にそろりと相手を値踏みする色が滲んだ。


――伊助さん。


 よくしてくれた。四年も前のほんのいっとき親しんだだけだからか、厭なことでなく楽しかったことばかりが思い出される。それなのにかれの目にひっそり宿る卑しい色合いを意外だと思わない。


「おや――」


 街道につやつやとした丸い声が響く。


「清吉さんじゃないか」


 割って入ったのは押し出しの立派な初老の男だった。派手な身なりではないがふくぶくしく品がよい。


「ふむふむ、幼馴染みの伊助さんという方とこちらがよく似ていると。――なるほど十余年ぶりと。それはさぞ懐かしかったでしょう。しかしこのひとは近所に住まう清吉さんでしてな。残念ながらおひと違いでしょう」


 あっという間にその場をおさめた。

 友野同心が囁いた。視線は街道に据えられたままだ。


「おれは伊助に絡んでいたやつと話そう。おまえはあの老人を尾けろ」

「伊助さんは――」

「こっちで人を出してある」


 いつの間にか背後に立っていた喜之介が視線で示した。人垣の中にちらりと馴染みになった喜之介の手下ふたりが見える。与次郎は友野と喜之介へ頭を下げ前掛けを外しながら奥へ向かった。手早く着物の裾をからげて帯に挟み、菅笠を被ると店の裏からまわって街道へ出る。道の真ん中で起きた揉めごとを囲む人垣がほどけるのに紛れこんだ。


「――いやなに、人違いなどよくあることです」


 朗々とした声の主を伊助が見送っていた。頭を下げるひょろ長い体からぴしぴしと尖った気配が放たれる。与次郎は関心を失いばらける野次馬の流れに乗り伊助から距離を取った。

 ゆったりと歩む初老の男を視界の隅に置き与次郎は街道を南下した。


――隠れすぎねえように、な。


 下っ引きになってすぐのころ、何度も総左衛門に言い聞かされた。与次郎は長身が災いしてしくじることが重なり、尾行を苦手としている。


――確かにおまえの背の高さは目立つ。

――だがうまく()けられないのはそれがもとじゃねえ。


 探索より町内の揉めごとをおさめるほうが得意な総左衛門であるが、尾行は上手い。


――こつはな、周りの景色に溶けこむことよ。


 与次郎なりに総左衛門に教わったとおりにしてみるがどうやってこの長身を溶けこませたものか、手立てが思い浮かばない。それどころか


――やっと、やっと見つけた……!


 しくじりを重ねて半ば諦めていただけに、ようやく手がかりが生きてきたと目の前が明るくひらけるような気持ちと、今以て伊助の発見を信じがたく思う気持ちとが体と心の芯をぐらぐら揺さぶる。菅笠越しの視界に初老の男を捕らえてはいるものの、()()ぜになった(たか)ぶりに与次郎の足取りが乱れた。


――相手は隙だらけのじいさんひとりだというのに。


 ぽてぽてと寛いだ調子で歩む初老の男にこちらを警戒する様子はうかがえない。本来失敗する尾行ではない。しかしこのまま心を乱しばたついてしまえば気取られてしまう。


――落ち着け。与次郎、落ち着け。


 両頬をばちんとたたいて気合いを入れたいのを堪えた。


「――なあにぎくしゃくしてるか」


 背後からすす、と寄ってきた男がぽん、と肩に手を置いた。


「親分さん……」


 与次郎と同じく菅笠で顔を隠し、裾をからげ歩調も体つきも違って見える喜之介は茶屋の主人というより遊び人、いかにも(くるわ)へ昼遊びへ向かいそうな風情でうまくまわりに溶けこんでいる。


「そんな鯱張(しゃっちょこば)るほどの相手じゃねえ。あのじいさんは長兵衛といって御殿山(ごてんやま)近くに住まう分限者(ぶげんしゃ)でな。おそらく屋敷へ戻るところだろう」


 喜之介のいうとおり、長兵衛は八ツ山(やつやま)を過ぎ歩行(かち)新宿(しんしゅく)から御殿山へ向かい、寄り道もせず屋敷へ戻っていった。


 見届けて与次郎と喜之介は、高輪への帰途についた。

 乾上がりそうにかんかんと照り続けていたというのに、空にいつの間にか黒雲が重く垂れ込めている。


「長兵衛じいさん、あの男を清吉と呼んでいた」


 喜之介が難しい顔をする。


「伊助ってやつは殺した男の名前を奪うのか」


 ひんやりと湿った風が吹きはじめた。遠くで雷が鳴る。夕立がやってきた。




 街道で伊助が幼馴染みだという男に絡まれて以降、それまで(とどこお)っていたのが嘘のように探索が(はかど)りはじめた。

 二十六夜待ちまで、あと二日。

 友野同心と喜之介に与次郎、と小磯茶屋二階の座敷で顔を合わせた。窓から望む海は明るくまぶしいが、日差しが和らいできた。そよ、と吹き込む風が涼しい。

 聞き込みしたことを持ち寄ると、伊助と仮に呼ぶ男の半生が見えてきた。

 伊助の現在の住まいは北品川宿御殿山向こう、長兵衛屋敷近くの百姓寅蔵方。去年の正月、主の寅蔵が急に病を得て亡くなり、残された老妻おきちと娘お才とでほそぼそと暮らしているところへ伊助が転がり込んだ。以来、お才と夫婦になり畑を耕したり品川宿へ行商へ出たりして暮らしているという。


「確かににわかに転がり込んできたよそ者なんですがどうもその、まじめな様子が殺しと結びつかないんで。――ただ」


 喜之介が腕組みした。


「近ごろ婿殿がちょいちょい家を空けるようになったと、おきちがぼやいているらしいです」

「行き先は」

「歩行新宿の茶屋です。目当ての茶屋娘がいるわけでなく、馴染みの連中とわいわい差しつ差されつしているだけで」

「べつだんあやしくもない、と。――どうもこの男、よく分からぬ」


 窓外の明るい海へ目をやっていた友野同心が


「伊助に絡んでいた男、陸奥国白河の出で為八というそうな」


 切り出した。

 幼馴染みと称する為八によれば伊助は百姓の家の三男。蒲柳(ほりゅう)の質で幼いころはどちらかというと体つきが小さく、頑健な兄たちから邪慳(じゃけん)にされて肩身狭く暮らしていた。ある年、米が不作となり口減らしに仲のよかった年子の弟徳治(とくじ)が奉公に出されることになり、居づらさが増し伊助はたまりかねて家を飛び出した。


――伊助はそのまま亡くなっちまったもんだとばかり、思っておりました。


 やはり奉公に出され、現在は江戸で暮らす為八は


――なつかしくって声をかけましたが、やはり人違いだったんでしょうか。


 しょんぼり身を縮めていたという。


――弟の徳治がまた哀れでして。


 奉公先の油屋で小僧になり一年ほどつとめていたがある夜、店の外で殺されてしまったそうだ。


「困るのは――」


 友野同心が眉間に指をあてぐりりと揉んだ。


「伊助と清吉殺しを結びつける証拠がないことだ」

「伊助だか清吉だか、名前や身許をころころ変えていやがる。いざお白州でしらばっくれられちゃそれまでなんで」

「おようがいてくれれば……」

「むう……」


 聞き込みは捗っているものの、伊助を下手人として引っ張るには決め手を欠いている。

 与次郎は姿勢をあらため、手をつき頭を下げた。


「伊助をお縄にできるにしろできないにしろあと二日、二十六夜待ちで切り上げようと、思いやす」

「それでよいのか」

「よいも何も」


 もとより(はら)の中で行儀よく座って待っておりましたといわんばかりに、自然と与次郎のなかで決意が固まっていた。


「尻尾を出さねえんじゃ、仕方ありやせん」


 伏していた顔を上げると、友野も喜之介も厳しい顔つきで窓の外へ視線を投げていた。




 二十六夜待ち当日となった。高輪から品川へかけてたいへんな賑わいとなっている。

 夜半過ぎから未明にかけて東の空にのぼる月を拝もうと多くのひとびとがここ高輪へやってくる。この日、小磯茶屋は二階の座敷はもちろんのこと、街道を挟んで海辺にも茶店を出すことになっていた。ひとが大挙して押し寄せれば(いさか)いやら迷子やら揉めごとやら、地元の岡っ引きを必要とするもろもろも多く出来(しゅったい)するわけで、当然のことながら伊助の見張りどころではない。


「すまねえな」

「とんでもねえことで」


 喜之介の下っ引きたちもごく少数をのぞき今夜は月待ちに駆り出される。てんやわんやしているが楽しげにも見えた。

 探りは入れるだけ入れてあり、今は伊助の動向だけを押さえていればよい。与次郎は友野同心、そして親分の総左衛門とともに伊助を見張りに御殿山へ出向いた。


「久しいな、与次」

「へい」


 高輪へきて二十日ほど経つ。友野同心の「片がつくまでこちらで世話になるがよい」との言葉に甘え、小磯茶屋に出張りっぱなしでぜに屋には戻っていない。しばらくぶりに顔を合わせる総左衛門は暑気に(あた)ったか、少し(やつ)れしぼんで見えた。


「友野さまからうかがった」


 驚いたことに、総左衛門が子分の与次郎に頭を下げた。


「おようの件は、すまなかった」

「よしてくだせえ。すんだことでやす」

「ここで押し問答していても仕方ない。御殿山の見張りと交代しよう」


 三人は高輪から品川へ向かった。北馬場町を抜け宿場町を歩く。とっぷりと日は暮れているものの、そこここでちんとんしゃん、音曲(おんぎょく)やら酔客の笑い声やらでにぎにぎしく、あかあかと灯火がともり提灯も必要ないくらいだ。


「善男善女の集いにしてはずいぶんやかましいな」

「三尊のお出ましまで長うございますから」


 御殿山をぐるりと迂回して目黒川をのぼりはじめるころには月待講の賑わいもだんだんと遠のきあたりは闇に包まれた。りん、りん、と鈴虫の音が聞こえる。

 三人は暗闇の中黙って歩いた。居木橋を過ぎたところでぽつ、と前方に滲むように提灯の明かりが見えた。


「こちらへ」


 与次郎は、友野と総左衛門に囁きかけ入会地(いりあいち)(やぶ)へ身を潜めた。はた、と虫の音が()む。無音の闇がのしかかってくるようだ。しばしのちにすいっちょ、すいっちょ、ときりぎりすが鳴きはじめた。

 ふら、ゆら。

 提灯の明かりと男女の語らう声が近づいてきた。


「――清吉さん、近ごろお茶屋さんばっかり」

「おれにもつきあいが、あるからね。でもみんなには今夜は行かないといってあるよ」


 ぼ。

 寄り添う若い男と女の姿が闇にほんの少し浮き上がる。伊助と、女房のお才だ。高めの甘え声につきり、と与次郎の胸が痛んだ。


「屋台にするかい、それとも茶店かい」

「ふたりきりに、なれるところ。――去年みたいに女のひととどっか行っちゃ、厭」


 ぶわ、ぶわわ。

 体中の毛が逆立つ気がした。


――やはり伊助は去年、おようと会っている……。


 飛び出して伊助の首根っこを掴み問い詰めたい気持ちで頭の中が焦げつきそうになる。そ、と武骨で大きな掌が与次郎の腕を押さえた。

 ふら、ゆら。

 提灯の明かりとともにふたりが通り過ぎた。


「与次郎、先に行け」


 小声で友野が促す。頷いて与次郎はそろりと藪を脱け出した。

 ひたひた、と足音が近づいてくる。


「おい、おれだ」


 友野同心が見張り番の下っ引きを囁き声で呼び止めるのを背に、与次郎は足を速めた。




 提灯の明かりは居木橋(いるきばし)を過ぎたあたりで路地に入った。


――ひとつめの角を曲がって裏手から御殿山へ向かうつもりか。


 与次郎の予想ははずれた。寺の塀に沿った暗がりを

 ふら、ゆら。

 提灯の明かりが揺れながら進む。気づかれぬよう、見失わぬようそろそろと進むうち、


――なぜこんなことを続けているんだ。


 友野同心にも総左衛門にも、ぜに屋の女将にも小磯茶屋の皆にも申し訳なく、同時に事件を解決したいと願う気持ちが

 ぷつ。ぷつり。

 (いかり)が抜けるように遠のいていく。解き放たれて与次郎は闇を泳ぐ獣になった。


――なぜ俺を置いていった。

――なぜ俺を独りにした。


 その問いをぶつけたい相手が伊助なのか、おようなのか、それも定かでない。楽しげに暮らすひとびとの輪にくわわることはならず、さびしくままならない境遇を(うら)み、それでもひとの態をして口真似て歌う。

 ふら、ゆら。

 はるか前を行く灯りをとらえればきっと、この身を苛む問いの答えが得られる。


――こんなにももとめているのに、なぜ俺はひとになれないのか。


 跫音(あしおと)も息も潜め縫うように闇を進むうち


「――――ッ!」


 絞り出すような(うめ)きが聞こえてきた。我に返り、駆ける。


「清吉さんッ、あんたッ、なんでこんなこと――」


 灯りが激しく揺らぎ、落ちる。くしゃりとひしゃげた提灯に火が燃え移った。

 ぼう。

 灯りに男の姿が浮き上がる。


「清吉、この名前も今夜限りだ。もう一度くらいはつかっても、いいだろうが、――飽きた」

「何をお言いだい、あんた……ああッ」


 男が女に覆いかぶさる。その両手は激しくもつれ合う相手の首に絡みついていた。

 与次郎は駆け寄り伊助の腕を解こうとして


「や、やめ、――やめろ」

「ああ?」


 突き飛ばされた。

 足もとでゆらゆらと燃える提灯に照らされた伊助は昂揚するでなく淡々と、茹でて水にさらした菜をしぼるのと変わらぬといわんばかりに女の首に両手をかけた。

 が……はがっ……。

 苦しげな呻きが弱まる。


「やめ、や、――やめろおおお」


 泣きながらよろよろと、与次郎は伊助を突き飛ばした。


「な、な、なんであんた、こんなことを、――伊助さん」

「誰だ」


 揺らぐ明かりに浮き上がる男が目を(すが)めた。


「――ああ、馬喰町(ばくろちょう)煮売屋(にうりや)で……与次さんか」


 だんだんと思い出しているのだろう、その移ろいが感情の抜け落ちた顔に(あらわ)れた。はたはたと化粧(けわ)うように人殺しの顔が四年前、煮売屋で見せた愛嬌あふれる笑みへと変化していく。


「久しぶりじゃないか」


 怖ろしい。

 動かなくなった女の体をぺい、と放り伊助はゆらりと立ち上がった。にこにこと笑いながらじりり、と迫ってくる。


「あ、あ、あんた去年の二十六夜待ちの日に、おようと会っただろう」

「およう……、およう……?」


 にこにこしていた顔にいったん戸惑いの色を浮かべた伊助がふたたび明るく笑った。


「去年の二十六夜待ち、ああ、あのうるさい女か。――殺したよ。殺して川に投げ込んだよ」

「そんな……およう……」


 半ば諦めていたはずなのに、どこかで自分のことなど忘れて気楽に生きていてほしいと願っていたその望みが絶たれた。ぺたりと情けなく腰を抜かしたまま、与次郎は伊助を(なじ)った。


「神田須田町(すだちょう)の、履物屋の手代を殺したのも、あんたか」

「須田町……ああ、清吉ね、そうだったっけ、そうだったねえ」


 歌うような調子でにこにこと笑う。


「あれはほら、違う名前のやつだから。今はおれが、清吉だし」

「じゃ、じゃああれは、いち造のしわざだっていうのか」

「うん、そうだったかねえ、そうだねえ、いち造、そんな名前のもいたかも、ねえ」

「いち造は、市川の出で、根津権現門前で料理人をしていて」

「ああ、そうだった。よく調べたねえ。うん、殺したよ。伊助という名前のころさ」


 じりじりと迫ってきた伊助が覆いかぶさってきた。炎に照らされた顔、頬や鼻筋がてらてらと輝いているのに、ゆらめく明かりを映す瞳はぽっかりと(うろ)が空いているように見えた。


「いち造も清吉もみんな、みーーんな、暮らしに不満があった」


 歌うように伊助が語る。

 いち造は許嫁(いいなずけ)のやかましさに辟易していた。

 清吉は店の連中にいじめられていた。


「そんな厭な毎日からおれはね、みんなを解き放ってやったんだ。――与次さん、おまえだってそうさ」

「お、お、俺は何も」

「ほんとうに、そうかい? おまえだって不満があったろう」


 ぜに屋では女将のおたかに邪慳(じゃけん)にされる。下っ引きになったはいいものの、空回りにしくじりばかりで親分の総左衛門にがっかりされる。


「厭なら、おれがもらったっていいだろう」


 伊助が与次郎の頬をなで回した。


「いち造も清吉も、おれならもっと、あいつらの人生をうまく生きてやれる」

「だから、殺したのか……」

「そうよ。名前を奪ってそいつになりきってまじめに働いて所帯をもったりして、ふわふわしてあったかい気持ちになってよ、しばらくの間はいいのさ」


 伊助は視線を宙に遊ばせた。


「でもふわふわしたところからぺりぺりって、皮が()がれるみたいに幸せな気持ちが離れていって――飽きちまう。だから次の人生を奪うために殺すのさ」


 伊助は冷や汗でぬるぬるとぬめる与次郎の頬から、首へと手を滑らせる。


「取り調べもお白州(しらす)も、おれは怖くない。――だって」


 ふふふ。

 まだらに炎の明かりが踊る色白の頬に、伊助は凄絶な笑みを浮かべた。


「いち造を殺したのは伊助。清吉を殺したのは、いち造。じゃあおれはいったい、誰なんだ?」

「い、いす、伊助さんだろう?」

「さあ、どうかね。お白州で『それはおれじゃありません』っていっちまうさ。自白さえしなきゃおれの(とが)じゃない」

「――っく」


 与次郎の目が悔し涙で曇った。

 やはりこの男は口封じのために清吉といっしょにいたところを見たおようを、おようといっしょにいたことを知っているお才を手にかけたのだ。そして同じ理由で自分を殺そうとしている。


「あんた伊助、なんだろう?」

「違うよ」


 おかしい。

 高輪でつい先日、幼馴染みだという為八がこの男を伊助と呼んでいた。まさかそれもどこかで奪った他人の名前なのか。


「徳治」


 考える前に与次郎はその名を口にした。

 首にかかった指がびくり、とおののく。


「あんた、ほんとは徳治っていうのか。伊助と名乗っていたってことはまさか、――兄弟を殺して奪ったっていうのか」


 白河のはずれの村で生まれ育ったという伊助の年子の弟、徳治。伊助が出奔(しゅっぽん)したのち、奉公先で奇禍(きか)に遭い死んだとされていた。おそらく伊助と徳治は年が近いだけでなく、顔も背恰好も似ていたに違いない。為八からすれば徳治はすでに亡くなっていることが確定しているわけで、では目の前にいる幼馴染みそっくりの男は生き残っている可能性がある伊助だ、と断じたのだろう。


「こんなこと、いつまでも続けていられねえぞ」

「おようを殺して、おれの平穏は一年長引いた。お才も殺してやった。おまえも殺す。郷里のことをべらべらしゃべる為八も、追いかけて殺してやる。そうすればまた一年、いや、もっと長く今の気楽な暮らしが続けられるはずだ」

「もうやめねえか、徳治」


 表情の抜け落ちていた顔に激昂(げっこう)の色がのぼった。


「その名前で、呼ぶな……!」


 首にかかった指に力がこもる。


――苦しい。


 かは、と大きく口を開けても息を吸いこめない。

 ち、ちり、ち。

 (とげ)の生えた光のつぶが現れた。ひとつがふたつに、ふたつが四つに、

 ちり、ち、ちり。

 どんどん()えて視界を覆っていく。


――俺たちはやっぱり、よく似ている。


 ひとになりたくてなりきれなくて、ひと並みの暮らしに憧れて、ひとを真似て歌ってみるけれど、歌えない。


「違う、違うおれは徳治じゃない、おれは、おれは」


 目の前で(わめ)きながら与次郎の首を絞める、自分と似た獣の姿が光に(さえぎ)られ消えていく。視界が白く、()き切れた。



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