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  作者: 乙井望潮
4/6

〈四〉


 また夏がめぐってきた。おようが姿を消して一年近く経つ。


「急に押しかけてきたんだ、いなくなるときだっていきなりさ」


 ぜに屋の女将おたかは気の毒そうに眉を下げた。


「あんな浮ついたのでなくてもあんたならもっとちゃんとした女房を迎えられるだろう」


 いたわりのことばに嘘がないからこそ与次郎は傷ついた。

 ここしばらく、与次郎はあまりぜに屋の店先に立っていない。夏場で汁粉が売れないのもあるが、めっきり暑さに弱くなった総左衛門に代わり出張ることが多くなったからだ。


 その日、与次郎は御用の筋で日本橋へ出向いた。横山町からさして遠くないがあっちへこっちへとたらい回しに遭いすっかり時間を喰われてしまった。友野同心への報告をすませ帰途につくともう日がだいぶ傾いている。

 往来の落ち着きはじめた大伝馬町(おおでんまちょう)から通旅籠町(とおりはたごちょう)にさしかかる辻でふと足を止めた。


――ぜに屋へ戻る前に寄り道するか。


 菓子屋できんつばを買いもとめ、


「嘉吉さん、いなさるかい」


 与次郎は橘町の番小屋を訪ねた。

 木戸番への給金は、町内で集めた金のさまざまな行事の入費を差し引いた残りからまかなわれる。その額が少ないため、荒物(あらもの)など生活雑貨の販売が木戸番の副収入となっていた。嘉吉の詰める番小屋も例に漏れない。草履(ぞうり)(ほうき)などがこまごまと並べられている。

 夏の盛りにもかかわらず嘉吉は元気そうだ。下っ引きの歩きまわる仕事がなくなって体が楽になったのだろう。

 小さな包みを渡すと酒より甘味を好む嘉吉は


「これは何より、なにより」


 菓子屋の売れ残りに違いないきんつばを歌うような調子で喜んだ。

 渡された麦湯(むぎゆ)を手に与次郎は上がり(かまち)へ腰かけた。


「近ごろは、どうでい」


 下っ引きのころはしばしば剣呑(けんのん)な目つきを見せていたものだが、今の嘉吉はにこにこ好々爺(こうこうや)然としている。


「親分が暑気に(あた)りなすって」

「あのひとは昔から、夏が苦手だ。ぜに屋は夫婦でおまえさんをだいぶ頼りにしているから、なあ」

「そんなことは……」

「思い入れが大きい分、口うるさくもあろうが、どうか親分をたのむよ」

「へい」


 小屋の店先に人が立った。


「ごめんください――」


 戸口から顔をのぞかせた商人風の男が売り物の草履を手にしようとして


「ん?」


 首をかしげた。


「こちらのにいさん、どこかで」


 しげしげと与次郎を見ていた男が頷いた。


「ああ、音曲のお師匠さんとこの。おようさんといいましたかね――」


 場が冷え冷えとするのにも頓着(とんちゃく)せず、話しつづける。

 男は両国橋の向こうで八百屋を営んでいる。若いころからの苦労が報われて表通りに店を構えた。まだまだ余裕があるとはいいがたいが道楽もせず商いひとすじに打ち込んできたのだから、と音曲を習うことにしたという。


「気の合うお師匠さんを探しておりまして。――おようさんとはご縁がございませんでしたが」


 つんと高くとまった口調が板についていない。


――はしゃいでやがる。


 与次郎は苦虫を噛みつぶしたような顔になりそうなところを堪えた。

 音曲の師匠というのはもとが粋筋だ。年増は年増でも色っぽい。横山町の長屋で音曲を教えはじめたころ、歯を鉄漿(かね)で染め女房らしく装ったとたんに弟子が減ったとか、おようが苦笑いしたことがあった。こうした上り調子の連中すべてがそうだとはいわないが、目の前の男は三味線より色事目当てだったのだろう。地元の住民は商いの客でもある。近場でとっかえひっかえできないので音曲ついでにあわよくば色事の相手を、橋を渡った先で物色していたに違いない。


「暑さがつづきますねえ。――そういえば」


 買った草履に履き替えながら男はしゃべりつづけた。


「去年の夏、品川の手前あたりでしたかね、おようさんをお見かけしましたよ。あの日もやっぱり暑かった」


 品川の手前。

 おようが姿を消した日。

 体の奥がちりちりと焦れる。何かが喉もとまで迫り上がってきているのに、つかえている。それでもちかちかと明滅する火花に照らされてその何かはようよう


――二十六夜待ち、高輪か。


 与次郎の中で像を結んだ。




 翌朝、八丁堀の組屋敷を訪ねると与次郎は庭先へ通された。非番の友野同心が縁側でのんびり爪を切っている。


「何かあったか」

「その……」


 躊躇(ためら)いは瞬きふたつで捨てた。


「覚えておいででしょうか、おようのことで」

「もちろん」


 顔を上げ友野はしっかり頷いた。

 一年前、与次郎は女房おようの帰りを一日は待った。


――(こら)(しょう)のないことだ。いち造を市川で待てなかったおせんを笑えねえ。


 そう腹の中の軽口で焦りをいなしていられたのも初めのうちだけだった。

 まず長屋から、そして音曲の弟子たちに話を聞いてまわるもおようの行方は知れなかった。そもそも当時、与次郎は三好屋の手代清吉殺しの探索に携わっていた。


――そのうちひょっこり帰ってくるだろう。


 そう親分の総左衛門にいわれては探索から脱けるわけにいかなかった。


「実は去年の二十六夜待ちの日におようを品川の手前で見たと両国の八百屋が申しておりやして」

「品川の手前、――高輪だな。おようはそのあたりへよく繰り出していたのか」

「いいえ」


 おようは板橋で生まれ育ち根津で座敷に上がる芸者であった。煙管問屋の主人に身請けされたが早々に死に別れ、池之端で音曲の師匠として身を立てていた。生い立ちや、縁あってその後横山町の与次郎といっしょになったことを考えても、思い立ってふらりと出かけるほど高輪に用も馴染みもあるとは思えない。


「いち造、と女房が呼んでいた男を探しに行ったのではないかと」

「やはり、高輪にも人をやるべきであった」


 爪切りばさみをもつ手を止め、友野は沈痛な面持ちで狭い庭の隅へ視線を投げた。

 一年前の二十六夜待ちの探索はおようの証言にもとづきいち造と名乗る男が清吉殺しにかかわっていると見なして行われた。が、根強い反対に遭った。


――てめえの宿六(やどろく)を見間違ううっかり者の証言を鵜呑みにしてよいものか。


 手下本人の親分が渋って見せれば探索の士気の上がりようもない。

 殺された清吉は店で傍輩にいじめられ肩身狭く過ごしていたことも分かり、正体の定かでない男を闇雲に探すより三好屋内部の線を洗うほうが実があると考える者が多かった。殺された清吉の奉公先のある須田町を起点に、湯島や九段飯田町に場所をしぼっておこなわれた二十六夜待ちの探索は不発に終わった。そして三好屋からも下手人はあがらなかった。結局一年経った今も清吉殺しは解決していない。

 爪切りの後始末をする友野のうつむく頬を眺めているうちに与次郎の(はら)は決まった。


「聞いていただきたいことが、ございやす」

「話せ」

「女房のおようが柳森稲荷で見かけたいち造という男、四年前にあっしが出会ったときは伊助と名乗っておりやした」


 馬喰町(ばくろちょう)の煮売屋で伊助と出会い意気投合したこと。

 伊助がふっつり姿を消したこと。

 根津の料理人いち造を探しているとき、池之端でおようといっしょにいる伊助を偶然見かけたこと。

 そのおようが伊助を「いち造」と呼んでいたこと。

 与次郎が出会った伊助も、おようの男だったいち造も二十六夜待ちを楽しみにしていたこと。

 友野が顔を上げた。


「なるほど。――それで?」

「へ……」

「おまえはどうしたいのか?」

「どう、って……」


 穏やかな調子で問いかけられたにもかかわらず、ぎらつく刃を突きつけられたようにひやりと身が(すく)んだ。


――またはしゃいで、空回りしてしまった……。


 捜査が頓挫(とんざ)している清吉の事件に進展が見られそうだ、と思い(はや)る気持ちに駆られるまま組屋敷へやってきた。友野が非番であることはもちろん知っていた。それでも事件にかかわることであればこの同心が前のめりに喰いついて当たり前だと与次郎は思いこんでいた。帰ってこないおようのことを、親分の総左衛門やその女房のおたかをはじめとするまわりのひとびとは皆「ほら見ろ、いわんこっちゃない。逃げたのさ」と決めつける。おようの話を聞いてくれた友野同心だけはそうでない、だから、新しく聞き込んだ話を持ちこめば


――よし、与次郎。手配しよう。


 武骨で堅物ながら頼りになるこの同心が探索の道すじも手順も何もかも示してくれるものだと、与次郎は思いこんでいた。


――そうだ、友野さまのおっしゃるとおりだ。俺は、どうしたいんだ……。


 また、やってしまった。まわりのひとびととの間に、自分の考える以上に隔てがあることをいつも忘れてしまう。だいじなこと、取り返しのつかないことを前にするとますますそうなってしまう。こうして伊助という友を、女房のおようを、わずかばかり(つちか)った職務上の信頼をも失うのだ。与次郎はうつむき唇を噛んだ。


「ふむ」


 身を縮める与次郎の頭の向こうで、大きな体が立ち上がった。


「ここで待て」

「へい……」


 屋敷の奥で二言三言語らう声が聞こえ、ほどなくして水野が戻ってきた。


「行こうか」

「へ、……どちらへ」

気散(きさん)じだ。つきあえ」


 下男から受け取った菅笠を


「今日も暑いぞ」


 与次郎へ手渡し、自身は編笠を被る。ふたりは屋敷を出て長屋の並ぶ路地を抜け、南へ向かった。




 確かに暑い。いったん秋めいて朝晩は涼風が立っていたというのに名残惜しい、最後に(はや)せとばかりにここしばらくかんかんと日が照っている。


――気散じ、か。


 先を歩く友野の、着流しに両刀を落とし差しにするゆったりしたいでたちを与次郎は複雑な気持ちで眺めた。

 成果を上げられなかった件を蒸し返した下っ引きを持て余しているのだろうか。女房に逃げられたと後ろ指をさされる男への同情心か。

 ゆったり足を運んでいても大柄な友野の歩みは速い。長身の与次郎はついていけるが、どちらかというと小柄で(ふと)(じし)の総左衛門は苦労するだろう。いつもいつも同心の供をするわけではないが、夏場の仕事がこちらにまわってくるわけだ。ほんの少し、与次郎の肩から力が脱けた。

 ずんずんと南へ向かう。


――まさか……。


 行く先がどこか(さと)りはしたものの、友野の意図が読めない。芝口から金杉橋を過ぎ、芝浦へ出る。ふたりは黙ったままゆったり湾曲する海岸線をたどり、高輪(たかなわ)の大木戸、牛町を経て南へ向かった。

 海が明るく、広い。日が高くなるにつれ照り返しがきつくなるが、与次郎の目はまばゆくきらめく水面へ惹きつけられる。鬱屈でしぼんだ胸にたっぷり潮風を吸いこむ。


「よい眺めだ」


 友野も足を止めはればれとした景色に目を細めた。


「気持ちようございやすね」

「おお、ようやっと機嫌を直した。――そのへんで休むとするか」


 またぞろ唇を尖らせようとしたが与次郎は、ざくざく大股で先に立つ友野についていった。右手に居つき、左手に葦簀(よしず)張りの茶屋が並ぶ。そのうちの居つきの一軒へ友野は入っていく。落ち着いたたたずまいといえば聞こえはよいが、両隣の店が賑やかに客引きをしているのにくらべるとだいぶ地味に見える。軒行灯(のきあんどん)に〈小磯茶屋〉と書いてあった。


――あっ、ここは……。

「これは、これは」


 壮年の男がにこやかに出迎えた。小磯茶屋の主人喜之介だ。先代から続き十手をあずかる岡っ引きで、総左衛門が「あれはしっかりした男だ」と褒めていたのを与次郎は思い出した。


「だいぶ、歩いた。酒をたのむ」

「へい。こちらへどうぞ」


 喜之介が案内したのは二階の二間のうち一室で、広く開け放した窓から広々とした海を望むことができた。


「これは、よい」

「眺めだけが自慢でございまして」


 喜之介がくしゃ、と笑うと苦みの走った顔に気さくな笑い皺が刻まれた。とんとん、と階段をふむ音が聞こえたと思えば、若い衆が友野と与次郎の前に角盆(かくぼん)やら瓶子(へいし)やらをきびきび並べて出て行く。


「隣は空いております。ごゆっくり」


 主人の喜之介も階下へ去り、静かになった。窓の下は街道で旅人やら駕籠(かご)やらが盛んに行き来しているのだが、二階にのぼりわずかに隔てられるだけでその賑わいが遠く感じられる。

 (すず)の瓶子を傾け、差し向かいの同心の盃を満たす。くい、と干して


「うまい」


 友野がほう、と息をついた。遠慮せず呑め呑め、と勧められるまま与次郎も口をつける。ひんやりと透きとおったものがすう、と喉を通り過ぎる。酒もよいのだろうが、しらじらと清らな錫独特の色合いの瓶子が酒も冷やしたのだろう。残暑の中歩いてきた体を慰めるやわらかい味わいだ。そうして盃を重ねることしばし、友野が


「さて、――今朝の話だが」


 と改まった。


「伊助、いち造、――同じ男なのであるな?」

「へい」


 与次郎も盃を角盆へ戻し背筋を伸ばす。


「伊助でないほうの、根津の料理人だったいち造とやらは見つかったのか」

「見つかりはしたんですが、死んでおりました」

「死因は」

「溺れ死んだ、と。酔って川へ落ちたのだろうといわれていやしたが」

「むう。――他殺であろうな」


 友野はうつむき、眉間に指をあてぐりぐりと揉んだ。


「根津の料理人を殺したのも清吉を殺したのも、伊助だ。――となれば与次郎、おまえも一度は命を狙われていたのではないか?」

「そんなまさか、あっしはこうして今もぴんしゃんと……」


 与次郎は煮売屋で出会した酔っぱらいの濁声(だみごえ)を思い出した。


――おれぁあの伊助とかいうにいちゃんに、教えてやったのよ。

――ひょろい青二才のくせに下っ引きなのさ、――ってな。


 岡っ引きの手下という堅気でない仕事が伊助は気に入らなかったのだとばかり思いこんでいた。


――違った。


 八丁堀につながりのある面倒な相手だからだった。

 にわかには信じがたい。ひと月に満たない交流ながらあれほど楽しく仲よく過ごしたのだ。まさか伊助が自分を殺そうと考えていたかもしれないなどとは思いもしなかった。


「与次郎」


 友野の顔が窓外の日差しに照らされている。明るい光が視界を()き友野の表情は濃い影に沈んでしまった。


「おようはどこへ行ってしまったんだろうな」

「へい……」


 与次郎は瓶子を手に取った。錫のひんやりとした手ざわりが日差しに炙られた肌の熱を吸い取る。瓶子の中でたぷん、と酒が揺れるのを感じた。


「もう生きちゃいない気がしておりやす」

「一度手からこぼれた事件を(すく)い上げるのは、おようのためか」

「旦那、あっしが泣こうが暴れようが、世間はこっちの都合じゃ動いてくれやせんぜ」

「しかしこのままでは明るみに出ない」

「それはおっしゃるとおりなんで。――あっしは」


 どうすればいいのだろう。

 ふた親が亡くなり、兄のように慕っていた男も、口うるさくはあったが慎ましく仲よく暮らしていた女房も姿を消した。


――なんで俺だけが独りさびしく生きなきゃいけねえんだ。


 御役目やぜに屋の下働きに疲れて長屋へ帰り、横になって思うことがある。長屋の壁のすぐ向こうに隣人がいると分かっていても夜が更けるにつれて静まり返るこの世に存在するのはおのれだけなのではないか、


――もしかして今までの暮らしはぜんぶがぜんぶ夢で、目が覚めたら独りぼっちなんじゃねえか。

――俺は穴ぐらでひとに化ける夢を見る獣なんじゃねえか。


 という(おそ)れが圧しつぶすように迫ってくる。瓶子を掴む手が震えた。


「すまなかった」


 明るい夏の日差しに輪郭を縁取られ濃い影に沈んだままの友野の肩あたりからふと力が脱け(ほころ)んだ気配がした。


「今朝も、そしてさっきも意地の悪いいいかたをした」

「そんな、滅相(めっそう)もねえことでございやす」

「行き詰まっていた清吉殺しの件に光が見えかけているのだ、どうしたいも何もない。おまえの掴んだ手がかりにすがるほかあるまいよ」

「へい……」

「しばらくここを根城にして探ってみるがよい」

「へ、……? あっしにはその、ぜに屋の仕事が」

「総左衛門には話を通しておく。――喜之介、いるか」


 友野が手をたたく。とんとん、階段をのぼってくる音が聞こえてきた。



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