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  作者: 乙井望潮
3/6

〈三〉


 市川のいち造の一件から三年。

 夕凪(ゆうなぎ)が終わり大気がそろりと動く。東緑(ひがしみどり)河岸(がし)を歩きながら総左衛門が


「いい風だ」


 目を細める。

 夏の終わりが見えてきた。この日与次郎は、同じ下っ引きの嘉吉(かきち)が橘町で番太郎になったのを総左衛門にともなわれ祝いに行った。

 番太郎は木戸の番小屋に住まい夜警(やけい)をする仕事である。総左衛門の右腕でもあった嘉吉だが、与次郎の兄貴分というより叔父貴分、そろそろ老境に入ろうかという年ごろで、常々御役目を退()きたいと望んでいた。

 嬉しそうでもさびしそうでもあった嘉吉の姿を思い起こし、与次郎は


「へい」


 前に立つ親分に頷き返した。

 確かにいい風だ。そう思ったから相槌(あいづち)を打った。

 それだけのことが以前は難しかった。他人に先んじてその場を()かせてやれ、笑わせてやれとのべつ幕なしおちゃらけて、考える前に何でも口にのぼせて与次郎はその場に居合わせる人々を気まずくさせていた。


「帰るか」

「へい」


 口数少なく、しっかり頷いてみせると総左衛門は満足げに前へ向き直った。



 二十二歳になり、与次郎の思ったことをそのまま口ののぼせる癖は少しだけおさまった。しんなりと華奢だった身がいくぶん厚みを増し、あどけなさが鳴りを潜めた。しかし色白の肌は相変わらずで厳つさより愛嬌が勝り、つまるところ荒事汚れ仕事を厭わない下っ引きより汁粉屋の店番が似合っている。


「人なつっこくて細っこいのが好みだからあたしは大歓迎さ」


 いち造探しが縁となり転がり込んできた音曲の師匠おようが目を細める。

 がらんとしていた長屋は三味線やら箪笥(たんす)やらを持ちこまれてずいぶん手狭になったが、毎日決まった顔で膳を囲むのも悪くない。ともに暮らしはじめて三年、夫婦らしくなってきた。きっかけとなったもとの男のことが気にならないといえば嘘になる。それよりもおようとの間に波風を立てたくなかった。年上の女房がやってきてもたらされた安寧は、隙間を埋めるというよりひしゃげそうだった心を内側から支えあたたかくふくらませ


――これが、ひと並みの暮らしというものか。


 与次郎の心を満たす。

 湯屋(ゆや)からの帰るさ、仕舞屋(しもたや)の軒先に芙蓉(ふよう)がこぼれんばかりに咲いているのを見かけた。このままいち造、あるいは伊助の記憶も芙蓉の艶麗な花が一日でしぼんでしまうのと同じく、忘却の彼方で儚く薄らいでいくものと与次郎は思っていた。


「あんた」


 濡れ髪を(くし)()きながらおようが鏡越しに視線を寄越す。眉を(ひそ)めている。


「なんでい」


 いつになくじっとりした目つきに腰が引けた気持ちになった。


「いち造と会ったよ」

「えっ?」


 まさか化けて出たか、とぽろりこぼれそうになるのを飲みこむ。おようにとってのいち造は伊助に似た男なんであって、探しはじめた時点ですでに亡くなっていた市川のいち造ではない。


「須田町へ行った帰り、柳森のお稲荷さまでね。てっきりあんただと思って声をかけたらまるで別人、どころか」


 いち造だったというわけだ。


「間違いねえのか」

「ないね」


 年嵩(としかさ)の女房はかつていち造と名乗る伊助に似た男と(ねんご)ろであった。間違えようがない。与次郎と見間違いはしたわけだが。


「ないと思ったんだよ。でもどちらの御内儀(ないぎ)さんで、なんてきょとんとされちゃあねえ」


 毒気を抜かれたおようがぽかんとしているうちにいち造は連れの男と去ってしまった。


「おいどうしたい、盗まれた蓄えを取り返すのなんのって鼻息が荒かったじゃねえか」

「それ! そうなんだよ! もうあたしゃ悔しくてくやしくて。なんとかならないかね」


 おようによると、いち造は連れの男に泣きつかれていたという。


――もうこれ以上、耐えられない。すぐにでも、その丸子(まるこ)のお店へ連れていっておくれ。

「のっぴきならねえ様子だな」

「そうだろう?」


 目の前にかかりきりになって考えなしに動いてしまうことにおいて、おようも与次郎とどっこいどっこいだ。自分のことを棚に上げるわけではないが


「御役目ってこともあるからよ。次は見定めてから声をかけてくれ」


 与次郎は釘を刺した。今回は違ったが聞き込みやら探索やら、女房と立ち話をするゆとりのない場合も考え得る。


「すまないね。これからは気をつけるよ」

「たのむ。――で、そいつは今、なんて名なんだ?」

「いち造は、いち造だろう?」


 毛先のもつれを解く手を止めおようは(いぶか)しげに口をへの字にした。


「そういえばあいつ、相手の男を清吉っつあん、って呼んでたよ」

「清吉か」


 何かが引っかかる。


「その清吉ってやつは、いち造に似ていたかい」

「さあてどうだったろう。背恰好(せかっこう)は似たようなものだったかね」


 やっぱり金は戻ってこないだろうか、などとつぶやきおようはまた濡れ髪を梳きはじめる。その丸みを増した肩を与次郎は眺めるでなく眺めた。

 伊助――いち造――。不思議な男だ。

 どうも妙なにおいのするこの男を放っておいていいのだろうか。しかし何をどうしたものか、分からない。記憶の底に沈めたまま存在を忘れていた据わりの悪い何かが身動(みじろ)ぎしている。



 事件が起きたとぜに屋に報せがきたのは翌日夕刻で


「女将さん、親分からお呼びがかかりやして」

「気をつけて行っといで」


 店じまいの途中であったがおたかは快く送り出してくれた。

 おたかの与次郎への当たりはだいぶやわらかくなってきている。ぜに屋夫婦のもとで働くようになって三年余り、与次郎のはしゃぎ癖がいくぶんおさまったのが大きかろう。どっしり落ち着きのある分、躁的な明るさに馴染まなかったおたかが夫の若い子分に慣れてきたのではないかと与次郎は考えている。加えて嘉吉だけでなく下っ引きがまたひとり減ったことも影響しているようだ。

 何かとつんけんされていた初めのころと比べると


――極楽のようだ。


 だいぶ気安くなった。




 与次郎が横山町のぜに屋から()()り刀で駆けつけると、柳橋の川岸にわいわいと人が詰めかけていた。


「ごめんよ、ごめんなさいよ」


 人垣をかきわけ船着き場へ進む。茣蓙(ござ)の上に長身の男が横たわっていた。先に着いていた総左衛門が


「来たか」


 難しい顔でちら、と茣蓙の上の男にかけられた布をめくる。顔が赤黒く腫れている。


「溺れ死んだのとは違う、ような」


 与次郎は首をかしげた。


「おれもそう思う」


 ぬ、と割って入ったのは北町奉行所の定町廻(じょうまちまわ)り同心の友野である。三十歳をひとつふたつ越えたあたりか、きびきびとして脂の乗り切った年ごろだ。与次郎も長身だが友野はもっと大きい。


「見ろ」


 友野同心が死体の下まぶたを引き下ろした。粘膜に点々と赤く溢血(いっけつ)(こん)が見える。


「川に放りこまれる前に、布か何かで口と鼻を押さえられたのであろう」

「では、旦那」

「他殺だ。溺死に見せかけるために川へ落としたが、おそらく下手人のもくろみより早く岸に流れ着いたのであろう」


 沈痛な面持ちでつぶやいた友野が後ろを振り返った。人垣に向かい声をあげる。


「誰か、この男を知る者はないか」


 ざわついていた野次馬たちがぴたり、と動きを止めた。まばたき二、三度ほどの沈黙ののちてんでに


「さあ」

「見覚えのないひとで」


 首をひねる。

 柳橋は大川と外堀が合流するところだ。ここで川に放りこまれたのでなく他から流されてきたのだろうが、それがどこかは今のところ見当がつかない。

 茣蓙に横たわる死体は、長身というほかは目立つところのない平凡な男だった。

 死ぬには早くまだ二十代半ばほどか、濡れて暗い色合いになっているもののもとは御納戸(おなんど)色と思しき着物を着ている。(まげ)は崩れかかっているが月代(さかやき)はきれいに()られておりまめまめしい暮らしが見て取れた。どこぞの店の手代(てだい)かと思われる。


「ん?」


 死体の衣服を(あらた)めていて与次郎は(たもと)に何か入っているのに気づいた。取り出してみると、きっちりたたまれた手ぬぐいだ。白地に紺で


「みよし、や?」


 と染めてある。


「もしかして、須田町の履物屋の」

「――ああ、三好屋か」


 与次郎は友野同心と総左衛門へ


「ひとっ走り、行ってまいりやす」


 ことわりを入れると柳原土手へ向かい駆けた。




 夕刻、須田町界隈は店じまいがあらかたすんでいる中、三好屋だけはまだ開いていた。こうこうと漏れる灯りにばたばたと行き交うひとびとの影がよぎる。裏手へまわると表と違いしん、と静まり返っている。


「ごめんなさいよ」


 繰り返し声をかけると、奥からはたはたと女中が出てきた。


「――はい? 今は忙しいんだけど」


 与次郎を出入りのものと違うと見て取るやつっけんどんな様子を隠さない。


「こちらさんであつらえたものですかね」


 ぐっしょり濡れたままの手ぬぐいを与次郎が差し出すと


「ええ、たしかに。――それが何か?」


 女中はますます不機嫌に眉根を寄せた。


「柳橋であがった土左衛門の袂に入っていたんで。二十歳過ぎ、背の高い男でやしたが」


 女中の顔に戸惑いが浮き


「まさか……」


 みるみるうちに青ざめる。

 表からまわってきた番頭と手代をともない、与次郎は急ぎ柳橋へ戻った。



 死体の身許(みもと)が判明した。神田須田町で履物を商う三好屋という店の手代で、清吉という。

 自身番へ呼ばれた三好屋の番頭と手代は茣蓙の上の骸を見遣り


「間違いありません」


 顔を青くさせ震えている。


「清吉……」


 与次郎にはその名前に覚えがあった。前夜、女房のおようの話に出てきたからだ。


――柳森のお稲荷さまでね。


 三好屋があるのが筋違(すじかい)御門(ごもん)近くの須田町。柳森稲荷は筋違御門と和泉橋の間にある。店からさして離れていない。若い手代が脱け出してひとっ走り向かう先としてうってつけといえる。

 三好屋のふたりを帰らせて友野同心が与次郎へ目をやった。


「何か気になるか」

「へい。その、――」


 何から話していいものやら、与次郎は躊躇(ためら)った。相手は親分の総左衛門以上に御役目に忙しい八丁堀の同心である。だらだらと事の起こりを三年前に(さかのぼ)るわけにもいかない。女房のおようが柳森稲荷で自分と間違えて声をかけた男の連れが清吉という名前だったという話をした。


「ふむ」


 友野が武骨な指を眉間にあて考えこむ。総左衛門が声を潜めた。


「おまえと間違えて……女房でもそんなことがあるのかい」

「おようはそう申しておりやした」


 総左衛門に現れた咎める色に反発を覚え、与次郎は唇を尖らせた。声が高くならないよう努める。


「すべてを確かなのか、違うのではないか、と疑ってかかるだけでは芸がない。――いわれてみればあのほとけと与次郎は似ているではないか」


 友野が眉間から指を離した。


「いえいえ、旦那。そういう話じゃねえんで。清吉が会っていた連れのほうと与次とが似てるの似てないのってことで……ん?」


 総左衛門が茣蓙の上の遺体へ目をやり、そして与次郎をじっと見た。


「背恰好は似ておりやすね」

「そうであろう。与次郎の話を聞くまでは三好屋のごたごたかと思っていたんだが」

「それが、揉めごともあったようでして」

――もうこれ以上、耐えられない。すぐにでも、その丸子のお店へ連れていっておくれ。


 おようが柳森稲荷で出会(でくわ)したとき、清吉は連れの男に泣きついていたという。

 眉間の皺を指でぐりりと潰すようにひとしきり揉み


「面通ししてみるか」


 友野がうつむいていた顔を上げた。


「おまえの女房を連れてきてくれぬか。このほとけがその話に出てくる清吉かどうか、確かめたい」

「承知しやした」


 与次郎は自身番を出て横山町の裏店へ駆けた。おようは長屋で与次郎の帰りを待っていた。


「今日は遅かったねえ、――ってどうしたんだい、息せき切って」


 蠅帳(はいちょう)の扉に手をかけて目を丸くするおようを


「柳橋の自身番に、いっしょに、来てくんねえか」

「いいけどさ」

「ゆうべ聞いたあれ、いち造の話」

「ええ?」

「いいから早く、来てくれ」


 せっつき連れて戻る。

 両国広小路へ出ると、涼しくなった。昼間の暑熱を川風がぬぐい去っている。


「ごめんくださいまし」


 身を縮めるように自身番へ入ったおようが茣蓙の上へ目をやり


「ひ……」


 ()()り青ざめた。


「あんた」


 与次郎に(すが)る指が腕にきつく食い込む。


「このほとけさんは、その」

「須田町の履物屋の手代で、清吉というそうだ」

「せいきち……、あっ、昨日、柳森で……」

「顔を、確かめてくれねえか」


 白くなった口もとを手ぬぐいで押さえ、おようはかくかくと頷きおそるおそる近づいてくる。与次郎は茣蓙のかたわらで遺体の顔を覆う布をはら、とめくった。


「どうでい。柳森のお稲荷さまで見た清吉はこの男かい」

「このひとだよ」


 青ざめたままだがおようはしっかり頷いた。


「どうだか」


 離れたところで総左衛門が冷え冷えとした声を出した。


「だいぶ怯えているようだがおよう、与次にいったことはほんとうなのかい」

「――親分さん、何をおっしゃりたいんで」


 縋るおようの手の震えが止まっている。


「どうもこうも、話ができすぎていやしねえかと、思ったまでよ」


 総左衛門とおようの間にだいぶ前からわだかまりがあったらしいと、与次郎は初めて気づいた。友野同心が割って入った。


「やめんか、総左衛門。今はこのほとけに何が起きたか、できるだけ目星をつけたいところだ。――おようとやら、覚えていることを教えてくれ」

「はい」


 柳森稲荷で夫を見かけたと思い込み声をかけたこと。

 しかし人違いだったこと。

 先方は覚えていないふりをしていたが、かつて自分と(ねんご)ろでありながら蓄えを盗んで逃げた男だったこと。

 男に清吉が泣きついていたこと。

 おようはいくぶん顔色はよくないものの、目にしたことをしっかりした調子で話した。ふむふむと熱心に聞いていた友野同心に対し、総左衛門はむっつりと床のあらぬところへ目をやっている。おようも総左衛門を視界におさめまいとするかのように頑なに目を()らしていた。

 知らなかった。自分の女房と親分との間に溝があるなど、思いも寄らなかった。


「明朝、仕切り直そう」


 おようへの聞き取り後、友野同心のひと声で解散となった。




 妙な空気の充ちた自身番からおようとともに戸外へ出た。与次郎はすんと川風の涼に目を細める。向こう岸から(さざなみ)のように賑わいが伝わってきた。


「すまねえ」

「いいんだよ」

「その、親分のこと気づかなくて――」


 与次郎はうつむいた。胸が塞がるようだ。


「すまねえ」

「いいっていてるじゃないか」


 しんみりした声だった。

 顔を見ることができない。与次郎は背を向けたおようの、三年で丸くなった肩へ目をやる。


「親分さんはあんたがかわいいのさ。そして高く買ってもいる。だからあたしみたいなすれたのが女房じゃしっくりこないとお考えなんだろうさ」

「そんなこたあねえ」


 間髪入れず切り返す与次郎におようは苦く笑む。


「そりゃ親分さんでなくあんたの考えだろう。ろくに考えずすっぱり返すところがあんたの駄目なところさ」


 (たしな)められて与次郎はしょんぼり肩を落とした。



 長屋へ戻り差し向かいで話をした。

 そもそもの発端が三年前の市川のいち造探しだったこと。

 その頃、姿を消した伊助という名の友がいたこと。

 伊助に似たいち造という男とおようがいっしょにいるのを池之端(いけのはた)で見かけたこと。

 市川のいち造探しを放り出し、湯島の二十六夜待ちへ繰り出し伊助を探そうとしたが見つからなかったこと。

 静かに与次郎の話に聞き入っていたおようがふうむ、と頬に手をあてた。


「その伊助さんってひとは、そんなにいち造に似ていたのかい」

「身なりやことば遣いは違っていたがそっくりだった」

「二十六夜待ちを好むところも、同じだねえ」

「明日か……。友野さまに月待ちを探りてえと思い切って申し上げるつもりだ」

「そうするが、いいよ」


 励ますようにおようが与次郎の腕を撫でた。その手をとる。小さくしんなりとした手だが、長い年月、毎日のように三味線を弾きつづけて指先の皮が固く厚くなっている。

 三年前、池之端で初めておようを見たときのことを思い出した。


――だっていち造さん、あたしを置いてどこかへ行ってしまいそう。


 年増のくせにはしゃいだ姿が若々しく、その華やぎにそこはかとなく痛みと(かげ)りもにおい、何ともいえない艶があった。

 与次郎の長屋へ転がり込んできて三年、音曲(おんぎょく)の弟子も思うように増えず、小ぎれいにしていてもめっきり地味になったおようの姿を、年相応に落ち着いたと思ったのは間違いだったのではないか。知らぬところで苦労を背負っていたのではないか。しどけなく開いた唇から鉄漿(かね)で染めた歯の闇越しに鮮やかにぬめる舌がのぞく。こぼれる熱いため息が与次郎を(から)()った。




 翌朝、与次郎が目を覚ますと、おようは姿を消していた。

 昨晩はふたりして帰りが遅くなった。湯屋へ行ったかもしれない。宥められ励まされ元気を取り戻せたとひとこといいたかったが


――いないならいないで、いいか。


 少し頭を冷やしてみればなかなかに照れくさい。

 いち造だか伊助だか、生前の清吉と最後に接点のあった野郎をとっ捕まえてから、おようにはじっくり言い聞かせてやろう。よそで誰が何をいおうとおまえはいい女房だと。そう思い直し、与次郎はぜに屋へ向かうべく足取り軽く長屋を後にした。

 いよいよ今夜は二十六夜待ちだ。

 清吉殺しの下手人が三好屋の中にいると見当をつけている総左衛門には反対されたが、友野同心の後押しもあってしぶしぶ探索の人手を集めてくれた。


――おれはあれが楽しみで。


 江戸で二十六夜待ちをしているところなどいくらでもある。人手がいくらあろうと、虱潰(しらみつぶ)しなどできるわけもない。須田町からあまり離れていない界隈に絞って探索の網が張られ、与次郎は三年前にあたりをつけた湯島へ向かった。

 伊助は見つからなかった。

 相手はころころと名前や身許(みもと)を変えて姿をくらます男だ。尻尾を掴むのも容易でない。そう分かっていても与次郎は悔しくて仕方なかった。くさくさした気持ちのまま長屋へ帰る。


「おい、およう……」


 部屋に女房の姿はなかった。

 しらじらと明けた早朝の味気ない光が障子越しに差し込む。布団は与次郎が起き出したときのままぺっそりへこんでいた。それだけでない。片づけられた箱膳(はこぜん)。壁際の三味線。ふたりで買い求めたお(とり)さまの熊手(くまで)。部屋は長く実りない一日を過ごす前、意気揚々と出かけたときとまるで変わっていない。

 おようは帰ってこなかった。



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