〈二〉
伊助が姿を現さなくなっておよそふた月。
江戸はまだまだ暑い日が続き、季節柄汁粉の売れ行きもぜに屋の女将の機嫌も芳しからず、つまるところ与次郎は変わり映えなく暮らしていた。伊助のことを思い出してしょんぼりするのも日課となっている。
突然姿をくらますまでは毎日のように煮売屋で顔を合わせ時に――いや頻繁に酒代を肩代わりしてもらいもした。それなのにふだん汁粉屋で下働きをしているだけでなく下っ引きも務めることを黙っていた。伊助はあんなに親切にしてくれたというのに。さぞがっかりさせたろうと、与次郎はじくじく悔やんだ。
「与次、いるかい」
閑古鳥の鳴くぜに屋に総左衛門が顔を出した。
「連れていってもいいか」
「どうぞ」
おたかは目も合わさず気怠く団扇をつかった。
からからに乾いた道が日を照り返す。与次郎は忙しなく汗を拭う総左衛門に随い馬喰町三丁目の自身番へ向かっている。
「暑い中、悪いな」
「とんでもねえことで。今日はいったい――」
「それがなあ」
番屋で女の話を聞いてやってほしいと呼び出されたという。
「馬喰町にいくらでも人手がありやしょう」
つい、ぽろりとこぼしてしまった。
こうして考えるより口が先に出るのが与次郎の悪い癖だ。親分にもぜに屋の女将にも、それどころか前の奉公先でも亡くなったふた親にもさんざんいわれてきた。分かっちゃいるが、言い含められたくらいで治るならとっくの昔によくなっている。
丸い背中を追いながら与次郎は肩を竦めた。
――しくじった。げんこつか、小言か。
総左衛門は振り返ることなく深くため息をついた。
――がっかりされた。
きつい日差しが肌を噛むように射す。
自身番に留め置かれていたのは、泣き腫らしもし、少々暴れもしたのか、むっくり目を塞ぐまぶたとぼうぼうと乱れた髪がもとのとおり整えばさぞ見映えがしようと察しのつく十八、九の美しい娘だった。よその面倒ごとを押しつけられたと気の進まぬままやってきた与次郎は目を瞠った。親分の総左衛門もしゃっきり背筋を伸ばしている。
「この娘さんが何かやらかしたのかい」
「したというか、なんというか――」
麦湯を差し出す番太郎の目が泳ぐ。
「人探しをしてるってんで」
「探してやりゃあいい。――なあ」
振り向き同意を求める総左衛門に与次郎は「へい」としっかり頷いて見せた。
「それをぜひ、ぜに屋の旦那にお願いしたいので」
番太郎が首を竦める。
「あたしはおせんといいます――」
市川の荒物屋のひとり娘だというおせんには将来を誓った相手がいる。根津権現門前の料理屋へ板前の修業にでているいち造という男で、このほど店を辞して帰郷することになっていた。が、待っても帰ってこない。
「どのくらい待ったんだい」
「帰ることになっていた次の日まで」
「それはまた堪え性のない」
ついつい要らぬ合いの手を入れてしまい、与次郎は総左衛門に目顔で窘められた。
「帰ってこないから迎えに来たんです。最後に姿を現したのがこの馬喰町のあたりだって聞いて――なのに見つからなくって」
おせんは肩を落とした。眦に涙が光る。
「入れ違いになっているんじゃないかい」
「ちょいと遊んでから帰るとか、ねえ」
「みんな、そういうんです!」
火にかけた薬罐からいきなり湯が噴きこぼれるのと同じ呼吸で、おせんはわっと泣き伏した。
「あたしが、あたしという者がありながらいち造さんが遊びにうつつを抜かしたりするわけが――」
「だよなあ、そりゃそうだよ、なあ」
「へ、へい」
人探しのためというよりただ機嫌を損ねないよう総左衛門と与次郎は相槌を打ち続けた。
ちょっと顔を出してさっと退けるつもりが、馬喰町の自身番を出るころには日が暮れていた。
「すごかった――ですね」
「ほんとに、なあ」
嫋々として見え、何かにつけてひんひん泣くわりにおせんは押しの強い娘だった。いち造探しを承諾させられただけでない。
「年齢二十一歳、背五尺三、四寸中肉、顔丸く色白き方――」
「目がぱちぱちしてはっきりした顔立ちっていってたなあ。なんとも難儀な」
哀れなのはいち造とかいう男である。罪もないのに人相書きまでつくられた。
「それだけ大事なんだろうが」
総左衛門が指でぞりぞりと顎を擦る。疲れの滲む親分の顔から推して知れることを、与次郎はいちど口にしようとして飲みこんだ。
翌日から与次郎はいち造探しに取りかかった。
総左衛門からはひとりでことに当たるよういわれている。無理もない。事件でもないのに兄貴分や、まして親分を引っ張り出すわけにいかない。新米の下っ引きひとりあてがえば義理はじゅうぶんに立つ。
せっかく捜索を任されたというのに与次郎は今ひとつしゃっきりできずにいた。いち造は咎人でなし、そもそもこの人探しは町内からの依頼ですらない。
柳橋のたもとで人相書きを開く。
「せい五尺三、四寸。色白き方――いち造さんってのは俺に似てやがるな」
連れがいれば「こいつはいい男だ」と軽口をたたくところだが今はひとり。与次郎はじりじりと高くなる陽光に炙られながら行き方知れずのいち造、そしてかれの帰りを待ち焦がれているおせんへ思いを馳せた。
おせんはたしかにきれいな娘であった。郷里ではいちばんでもあろう。
――どのくらい待ったんだい。
――帰ることになっていた次の日まで。
いかに市川が江戸に近くやりとりができなくないとはいえ、帰郷の日取りをはっきりとおせんが押さえているというのが引っかかった。
美しいおせんのゆとりの感じられない表情を思い出す。いち造にしつこくせっついたのではなかろうか。
――逃げてるんだろうなあ。
与次郎は両国橋へ投げていた視線をふたたび人相書きへ落とす。朝起きたときは川を渡りひとっ走り市川まで行ってみるかと思っていた。
――その線は後まわしだ。
柳橋を渡って与次郎はいち造が板前の修業をしていたという根津権現門前へと足を向けた。
「いち造が何か……」
料理屋の主人が顔を青くした。
「いや、そういうわけじゃないんで。ただそのなかなか帰らないからってお身内が」
「ああ、あのきれいだけどちょっと怖いひと」
おせんはここにもやってきて強い印象を残したらしい。主人は面倒から腰が退けているのがありありと透ける態で
「いち造がうちを辞めたのはついこの間だよ。どこぞで骨休めでもしているんじゃないかね」
眉を下げた。
――そうだよな。俺も、それに違いないと思う。
肩を竦めたいのを堪える。
与次郎は主人の許しを得て板場で働く傍輩や女中にも話を聞いた。おせんがしつこくしたあとを掘り返す年若い下っ引きが歓迎されるわけもない。聞き込みは思わしく進まなかった。
仕込みで忙しくなるからと追い出されとぼとぼと帰途についた与次郎は池之端で足を止めた。夕涼みに興じる人々でそこそこに賑わっている。五位鷺の水面を睨み動じない姿をぼんやり眺めているうちに日が暮れた。昼の暑熱が暗く色濃い水辺へ吸いこまれ、涼が倦んだ体を撫でるようで心地よい。
――もう、夏も終わりだ。
ふたたび歩き出そうとしたところでぶつり、と草履の鼻緒が切れた。舌打ちを堪えて道の脇で屈む。手ぬぐいを裂いていると
「待って、いち造さん――」
女の高く甘い声が聞こえた。
――いち造?
顔を上げた与次郎の視界の隅を背の高い男がちらりと掠める。たばねに結った髷の刷毛先がはらときれいに剃られた月代に載り、ほつれの見えない髱がしんなりと骨の細そうな色白のうなじとぴたり、合っている。そこそこに金回りのよさそうな職人に見えた。
いち造、――いちぞう。探している男と同じ名前に聞こえたが、さして珍しくもない。体格は似通っていなくもない。が、探し人は料理人だった。あのように手堅い風体ではなかろう。
――それにしても、見覚えがあるような、ないような。
後ろ姿をちらと見ただけでは知己かどうか分からない。わざわざ追いかけて確かめるほどでもあるまい。与次郎は鼻緒をすげる作業に戻った。
高い声の女が追いついて男の袖を引く。
「待ってったら」
「こらこら、大きな声を出すもんじゃない」
――聞いた声だ。
顔を上げて与次郎は、驚き呆けた。
――伊助さん?
似ている。しかしふた月前に姿を消した伊助は、気のいい商人だが垢抜けないうぶなところのある男だった。
「だっていち造さん、あたしを置いてどこかへ行ってしまいそう」
「おまえを置いてどこへ行くっていうんだ」
伊助はこんな三代前から江戸で産湯をつかっているような柄じゃない。ぜに屋の女将が大切にしている砂糖を壺ひとつまるっと、いっぺんに喰らったとて女にさらりと甘ったるいことなどいえる男ではなかった。
――よく似てはいるが他人だ。
「おや、湯島は賑やかだね」
「二十六夜待ちの支度だろうよ。――いよいよ夏が終わるな。おれはあれが楽しみで」
裂いた手ぬぐいをぐりぐりと縒る手もとへ目を戻した与次郎の背中越しに声が遠ざかる。
二十六夜待ち。
鼻緒をすげ替える与次郎の疲れで倦んだ頭の奥の奥にしまい込んでいた記憶が表へ出てきた。
――いよいよ暑くなってきたねえ。わたしは夏が楽しみで。
馬喰町の煮売屋で、伊助はそういっていた。ひゅる、と襟もとを涼風が撫でる。
――もっというと夏を乗り切って人心地ついたころの二十六夜待ち、あれが楽しみなのさ。
そうもいっていたはずだ。
「やっぱり、――やっぱり伊助さんだ」
立ち上がり振り返った与次郎の手からぽとり、と半端に手ぬぐいの通った草履が落ちる。涼を楽しむ人々の中に、職人風の男と高い声をした女の姿はなかった。
明くる朝、柳橋のたもとで与次郎は人相書きを手に唸っていた。両国橋を渡るべきか。こちら柳橋へ足を踏み出すか。
おせんの探すいち造はどこへ消えたのだかしれない。親分のいいつけで自分はいち造を探さねばならない。御上の御用ではなく、町内からの依頼ですらないわけだが。すなわち優先度合いが低いから年若い与次郎へまわってきたのである。
――伊助さん……。
与次郎は見てしまった。伊助によく似た男が池之端にいたのを。いなくなった友の行方が知れそうだ。しかしこちらは親分のいいつけとは関わりがない。
――ほんとうに、そうか?
おせんの探す男もいち造ならば、自分の探す男も――ふた月前はともかく――今はいち造と名乗っている。伊助によく似たいち造とやらを探すことは、市川のいち造を探すことになりはしないか。捏ねても詮無い屁理屈ばかりが頭を埋める。
「ああもう、どうしたものか」
ぐるぐると考えをめぐらせるうちに日が高くなっていく。
結局与次郎はその日も、両国橋を渡らなかった。
根津権現門前を起点に谷中天王寺まで足を伸ばしおもに岡場所で聞き込みをしたものの、おせんの探すいち造も伊助もとんと足取りが掴めない。池之端まで来て与次郎は
――また一日徒足踏んじまった。
肩を落とした。残暑は今日も厳しくじりじりと色白の与次郎の肌を炙ったが、日が落ちてしまえばなよやかに涼風が立つ。
昨日はおせんのかきまわした跡をなぞっただけだった。それなら今日は、とおせんの入りにくそうな界隈をまわったわけだが
――俺がいち造なら……。
馴染みの女がいるならともかく、もとの奉公先の近くで何日も骨休めとしゃれ込みはしない。実際、いち造は足繁く通う遊びかたをしていなかったようだ。郷里にやかましい許嫁が待っているからでもあろう。もしかしたらおせんにほだされていたのかもしれない。
残暑厳しい中連日走り回りそれが徒労となると、半ば覚悟の上とはいえ疲れがずっしり肩にのしかかる気がする。ふと、人恋しい気持ちになった。
――徒足ついでだ。二十六夜待ちとしゃれこむとするか。
夕暮れの池之端から湯島へ向かう。切通から天満宮へ、だんだんと人が多くなり賑わってきた。
二十六夜待ちとは七月二十六日の夜、月の出を待って拝むことをいう。月の光に阿弥陀、観音、勢至の三尊が顕れるとされ、未明、地平から顔を出す月を待つ人々がここ湯島だけでなく深川洲崎や飯田町九段坂、高輪などに集う。
急坂に沿って建つ料理屋から灯りやら音曲やら酔客の機嫌良く騒ぐ声が漏れる。まだご来迎までだいぶあるとはいえ月待ちそっちのけの騒ぎに与次郎は苦く笑んだ。
こうした賑わいは悪くない。何をしても上手くいかない自分もこんな賑やかで楽しげな場に居合わせてよいのだと思える。
しかし同時に立て続けに両親を、奉公先を失って以降、ふわふわと足場を踏みはずし宙に浮いている心地が続いているようにも思える。自分がどこの何者なのか、ほんとうに横山町の下っ引き与次郎なのか、自信がなくなるのはこういうときだ。
――ほんとうは、ひとですらないのかもしれない。
――ひとに化けた獣かなにかなんじゃなかろうか。
そうだとすれば、妙なはしゃぎ癖があったり、要らぬひとことを我慢できず口にしてしまったりするのも腑に落ちる。
「ん……ん、んふ、ふうん……」
軒下の暗がりで料理屋の座敷から漏れる音曲のしらべを、与次郎は耳で拾ったとおり口ずさもうとした。三味線や手拍子、人々が歌う声は耳に入るのに意味のある詞、節回しをつかまえることができない。唇から漏れるのは歌とはいえない呻きだけだ。
ひとでないから、ひとになりたいと強く願う。ちゃんとひとになって、ひとに混じって、ひと並みに生きて歌いたい。
与次郎はひとしきりそんな迷夢に耽った。
「このくらいでよしときなよう」
おろおろと引っ繰り返った声を
「なにかあ、男に捨てられるような大年増に呑ませる酒はない、――ってかあ」
高い胴間声が遮った。
目をやれば茶屋で管を巻く女がいた。着物も髪を飾る簪もそれなりによいものを身につけているのに酔ってぐにゃぐにゃに乱れている。酒癖の悪い女の、しかし声に覚えがあった。
――昨日、池之端で伊助さんに甘えかかっていた女じゃないか。
遠巻きにする人垣をかきわけ、与次郎は女へ歩み寄った。
「おい、だいじょうぶかい」
「だいじょうぶな、もんかね」
確かに平気そうには見えない。ぐんにゃりと縁台に伏した女の手から盃がぽろりと落ちた。
「こちらの姐さん、どうしたんでい」
水を運んできた露店の主に声をかける。
「それが気の毒な話でして」
困り顔の主人によれば女の名はおよう。池之端で音曲の師匠をして生計を立てているという。張りのある高い声と甘めの顔立ちで若く見えるものの大年増で、近ごろ若い男と懇ろになってうきうきしていたが
「駄目になったんだそうです」
このていたらくである。
「しかも今朝方、その男がなけなしの蓄えをかっさらって消えたとかで」
「それはまた難儀な」
声を落としていたつもりなのに耳障りだったか、
「あたしのなにが悪いっていうのさあ、いちぞおおお」
がばりと起き上がった女が与次郎の顔に鉄拳を浴びせた。
夜明けになってやっと横山町の長屋に戻り、ぐったりしているところを与次郎は親分に呼び出された。
ぜに屋二階の窓からまだひとの気配の薄い路地を見遣りつつ煙管をすぱすぱやっていた総左衛門が苦い顔で振り返り
「どうしたい」
与次郎の目をくっきり彩る痣と腫れに目を丸くした。
「すいやせん。湯島でいち造さんを探していたんですが、――こうなっちまいやして」
「湯島?」
「へい。人違いした上に人違いされて女大虎に殴られやした」
「災難だったなあ」
小言を食らわせるつもりで身構えていたらしい。出端をくじかれた総左衛門はしかしとん、と煙草盆へ灰を落とし姿勢を改めた。
「あのな」
「へい」
与次郎も背筋を伸ばす。目は畳へ落とした。
「いち造が見つかった。――回向院だ」
「えっ」
回向院は明暦の大火の焼死者を幕命でとむらった万人塚がはじまりである。無縁寺ともいわれ、そののちも水死者など横死した無縁仏を埋葬することで知られている。
――回向院で、ということは……。
「死んでた、まさかそんな」
「そうだ」
「……すいやせん」
目の前が暗くなるようだ。
唇へ持っていきかけた煙管を盆に置き総左衛門は窓の外へ目をやった。
「人探しはしくじったが、それはおまえひとりに背負わせたおれに責めがある。あと、――これからは居所をちゃんと知らせろよ」
「すいやせん……へい……」
根津へ行く前に両国橋を渡るべきだった。市川までびゅん、とひとっぱしり行ったとて、帰りしな自分で回向院に寄ることを思いついたやもしれず、門前町で聞き込みをすれば「回向院には行ってみたかい」と促されたやもしれない。
――おせんは悲しんだろう。
そう思うと辛い。
馬喰町でおせんが大騒ぎしたあの日すでにいち造は死んでいて、何をどうしようと徒足だった。しかし人探しをしくじった与次郎が、烏滸がましくも気遣いなど口にするわけにいかない。