〈一〉
陸奥國に狢有り、人と化りて歌う。 (日本書紀 巻第二十二)
与次郎が横山町の汁粉屋ぜに屋の下働きとなってしばらく経つ。
十九歳と若く愛嬌がないとはいわないが、いつものんびり欠伸ばかりしているくせにいざことが起きれば目をらんらんときらめかせる。そのうえ与次郎にはよけいなひとことを考えなしに口にのぼせる悪癖があった。
御役目に忙しい岡っ引きの総左衛門に代わりぜに屋を切り盛りする女房のおたかは
「知りたがりであっちこっちに口をつっこんで、どうにも落ち着きがなくて扱いにくい子だよ」
噂話に目がなく、仕事そっちのけではしゃぐ与次郎を持て余し気味であった。
こうしたことはその気がなくとも顔色に出てしまうものだ。女将に白い目を向けられれば与次郎の居心地も悪い。
「だいたい俺は下っ引きなんだ。汁粉屋で働くつもりなんぞなかったのによ」
与次郎は病でふた親を、火事で奉公先の袋物屋を失っている。身ひとつで焼け出されて与次郎はただただ日々できそうなことを右から左にこなすだけの日々を無為に過ごし、困っているところを縁あって総左衛門に拾われた。
――八丁堀の手先ってのも、悪くねえなあ。
親も奉公先もあっという間に失った、その事実が遠い出来事のように思われる。自分が自分でないようなふわふわした心もちのまま与次郎は総左衛門の手下になった。
親分の総左衛門は温和で、女房に汁粉屋をさせるだけあってふくぶくしい中年男であった。揉めごとを丸くおさめさせればぴっかりいちばん、などと持ち上げられるがつまるところ華々しい難事件などとは無縁なのである。親分に探索の引きがなければ子分の与次郎におもしろげな仕事が舞い込むわけもない。
肩を丸め与次郎は往来の落ち着きつつある辻で足を止めた。裏通りへ向いていた頭をつい、と返す。
まだ宵の口だ。今日も、会えるかもしれない。
にぎにぎしい界隈へと与次郎は足を向けた。
宿の並ぶ一角にあかあかと灯のともる店がある。煮売屋だ。与次郎は
「おっと、気をつけな」
酔客のおこぼれ目当てにうろつくぶち犬を足取り軽く避け店へ足を踏み入れた。きょときょと見まわしていると店の奥から
「こっち、おうい、こっちだ」
手を振る者がある。
年の頃は与次郎のひとつ、ふたつ上だろうか。男が相好を崩し縁台の端へ詰めた。
「伊助さん」
「与次さん、いよいよ暑くなってきたねえ。わたしは夏が楽しみで。――さあ、ひとつ」
煮魚の皿を載せた折敷を挟んでちろりが行き交う。すでにいくらか過ごしたか伊助の愛嬌あふれる顔がほんのり赤らんでいる。
与次郎と伊助の似たところは年の頃だけではない。背丈は高いもののいかにも力仕事に不向きなしんなりした体つきや、目鼻がひとまず見苦しくない程度に整った顔立ちもそこはかとなく似ていた。
こうして煮売屋で酒を酌み交わすようになって半月ほどだろうか。
奥州から古着を買い付けにきたという伊助とはすぐに打ち解けた。年格好が似ていると好みも似るのか、刺身や鶏も悪くないが肴は煮豆やあぶ玉の少し甘めがよいとか、唐辛子の利きすぎや苦みの立つ珍味が苦手だとか、そんな細々とした好みまで同じだ。心なしか、会うたびに話しぶりや立居ふるまいまで似てきたように思われる。
与次郎と伊助は容姿から好みから何もかも似通っていたが笑いのつぼだけはちょっぴり、ずれているようだった。いつだったか、伊助が酔客におこぼれをねだるぶち犬の顔にちぎった海苔をふたつ、載せてやったことがあった。八の字にはりついた海苔は、もともと迫力のあるとはいえないぶち犬の顔に間の抜けた悲しげな表情をこしらえた。
「あっははは」
一度火の点いた笑いは止まらない。あまりに相方が楽しげなもので与次郎もいったんはつられたが、すぐに風のない日の鯉のぼりのようにしょんぼりしぼんだ。
「かわいそうじゃねえか」
爆ぜるような伊助の笑い声に戸惑っているようにも見えるぶち犬の顔から与次郎は海苔を払ってやった。
「犬なんだから、人じゃないんだから、悲しんだりするわけ、ないだろ、――でもだいぶ困ってるみたいに、見えたなあ」
口でそういいながら悪びれたようすもなく伊助はひいひいと腹を抱え笑いつづける。
違っているところなんて、そのくらいだった。まるで生まれたときからいっしょに育ってきたように与次郎と伊助は気安くなった。
よほど気が合うのだろう。もし兄がいればこうだったろうか。伊助と過ごす楽しいひとときは、家族を失い独りで過ごす与次郎の心の隙をするん、と埋めた。
隔てが取り払われぐっと近づいたある夜、
「鋳掛屋の天秤棒やもしれんが」
伊助が気遣わしげにいいだした。
「合わないなら仕事を替えてはどうかね」
与次郎は持ち上げかけたちろりを折敷に戻し、しゅんと縮こまった。
さして年の変わらない伊助は奥州の店で買い付けを任されるほど信頼されている。それに引き替え自分は前の奉公先を火事で失い、総左衛門に拾ってもらっておきながら御役目に華がない、汁粉屋は男の仕事じゃないなどとぶすぶす燻る不満を心に抱えている。しかも
――下っ引きなんて。
親しくなった伊助に御役目のことをいえずにいる。偉いの偉くないのより何より、堅気の商人である伊助に必要とあらば荒事も汚れ仕事も辞さない自分の仕事を打ち明けて厭がられるのを与次郎は懼れた。
ちろりを差しだし与次郎の盃を満たして伊助が慰めるようなあたたかい笑みを浮かべる。
「千住の古着屋に伝手があるよ。与次さんさえよければ白河のわたしの店にきてもらったっていい」
伊助とふたり、笠を被り街道を旅するさまを、与次郎は容易に思い描くことができた。うらうらと晴れた街道。緑に萌える山並み。篠突く雨に追われ愚痴り合う、そんなことさえ楽しげに思えた。
――そうできたならどんなに幸せだろう。
所詮、酒にのぼせた頭に浮かぶ幻だ。盃を干し与次郎は脳裏のあたたかな景色を消し去った。
「合うも合わねえもねえ。仕事だもの」
親身な伊助の気遣いが嬉しい。しかし十九歳にして与次郎は手堅い職人や商人になる道、色々なものを捨ててこの道を選んだのだ。
「そうかい、無理には勧めないさ」
「すまねえ」
何もいわずとも伊助なら分かってくれる。
気兼ねないやりとりにもしかしたら与次郎は、伊助と自分との境目を見失いかけていたかもしれない。
別れはだしぬけにやってきた。
ある日、常にも増して機嫌の悪いぜに屋の女将に落ち着きがないだの調子づくなだのと厭みをいわれ、日向に置き放した菜が萎れるようにしょんぼりとくだんの煮売屋の暖簾をくぐった与次郎はいつもどおりきょときょと、きょときょときょととさして広くもない店内を幾度も見まわし
「ありゃ?」
首をかしげた。伊助がいない。
次の日も、その次の日も伊助は煮売屋に姿を見せなかった。
「伊助さん、ねえ」
襷と前掛けを切りきりと締め客の注文を捌く店の若い衆ははて、と眉を八の字にし
「このあたりは旅のおひとが多いから。――それより今日は蛸入っているよ。どうだい」
答えを探すのを諦めてしまう。
「名前は知らんが、おれぁ覚えてるぜ。あんたにそっくりな連れがいたってのは」
醤油樽に矢大臣と決め込んでいるが酔って体をぐんにゃり傾がせた男がでろでろと茶々を入れた。この煮売屋でよく見かける酔っぱらいだ。
「ちょいと話も聞こえてきたんだがあんた、あのにいちゃんが仕事の話を持ちかけるたんびにごまかしてたろう、岡っ引きの手下だってことをさ」
「そんなこと! ――しねえ」
剣突に剣突を返そうとして与次郎の言葉は尻すぼみになった。
「おれぁあの伊助とかいうにいちゃんに、教えてやったのよ。あんたが親切に商売替えを勧めてるやつぁ、思うようにはならねえよ、横山町のぜに屋っていえば表は汁粉屋だが主人は岡っ引きでもっぱら御上の御用で出突っ張り、あの野郎だってひょろい青二才のくせに下っ引きなのさ、ってな」
醤油樽の酔っぱらいがいったことを真に受けるのは業腹だがもしかしたら、岡っ引きの手下という堅気でない仕事が伊助は気に入らなかったのかもしれない。目に映るすべてを闇雲に疑い根掘り葉掘り要らぬところまでほじくり返す、――下っ引きのことをそう厭う者もいると聞く。
――しかし伊助さんに限って……。
会えなくなる前日まで仲よく同じちろりの酒を分け合っていたのだ。そんなはずはない。
「下っ引きってのは、そんなに駄目かよ? ――なあ」
足もとに寄ってきたぶち犬に煮染めの人参をひとかけ、放ってやる。ふんふん、と嗅いだのちふがふがと平らげた犬は与次郎を見上げると、ものいいたげに首をかしげた。