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短編

二年越しのレクイエム

作者: 遊一(Crocotta)


―――この人形の持ち主を探してください。―――


 部屋にいる二人の男のうち、一人が言った。

 歳は四十くらいだろうか。声の主は人当たりのよさそうな笑顔を浮かべ、じっと立っている。少しの間沈黙が続いたが、その表情はどれだけ見つめても全く崩れる気配がない。


―――あやしい。―――


 向かい立つ男は、目の前の男へ対し訝しげな視線を投げかけた。





「たいやき六個、くださいな」

 軽やかに響いた声は夢村(ゆめむら)という男のもの。夢村は嬉しさが堪えきれないといった様子で、右手に握りしめたお金を差し出している。先日二十四歳を迎えたばかりの夢村であるが、嬉々としてたいやきを待つその姿は、まるで幼い子供のようだ。


京斗(けいと)君は本当にたいやきが好きだねぇ」

 カウンターの奥で、白髪交じりの女性が嬉しそうに笑う。

「はい!大好きです」

 夢村は即答する。夢村の生活には余裕がそれほどなく、頻繁に買いに来ることはできない。だけどお金さえあれば毎日だって食べ続けたいほど、たいやきが大好物なのだ。


「それじゃあ、今日はおばちゃんすごく機嫌が良いから、一つおまけしてあげようね」

「わあ!ありがとうございます」

 夢村が満面の笑みを浮かべる。

 実はこのところは仕事の入りが少なく、たいやきを買うような余剰は少しも持ち得ないのだが、どうしてもたいやきを食べたいという衝動を抑えきれずに小銭だけを握りしめて意気揚々と買いに出てきてしまったのだ。

 そんな心情で手に入れるたいやきは、増えれば増えるほど喜びへと換算される。

 もちろん、普通の状態であったとしても歓喜に震えることには違いないのだが……。

(今日は、とくに嬉しい)


 夢村の自宅に残してきたお金はわずか二千と九十円。次の仕事がいつごろ入るかは運と時の定めに任せているので、いつになるのかは誰にもわからない。本来であれば焦燥するなり悲嘆するなりしてしかるべき状況だというのに、夢村はまったく焦ってもいなければ悲観もしていなかった。

 

 夢村は受け取った紙袋をしっかりとかかえ、微かに漏れてくる甘い香りを嗅いでからにんまりと笑った。

 大好きなたいやきが七個も入っている。その嬉しさのあまりスキップをしながら帰りそうになる身体を、大人の理性が懸命に押しとどめる。

 二十半ばの男が満面の笑みを浮かべてスキップをする姿は、控えめに言っても気持ちが悪く怪しげだ。


 夢村は、はやる心のままに急ぎ足で帰路へとついた。しかし、大通りを抜けて小道に入ったところで急にペースが落ちる。なぜなら十数匹に及ぶ様々な種類の猫たちが、足元へまとわりついてきたからだ。猫たちは夢村を見上げ、大合唱をしている。

「おはよう、みんな」

 そう言ってがさりごそりと紙袋をあさり、買ったばかりのたいやきを一つ取り出して放り投げる。

 大合唱は瞬時に悲鳴へと転じ、猫たちはたいやきに飛びついた。けれどたいやき一個に対して猫十数匹。すべての猫がたいやきにありつける訳もなく、とりっぱぐれた猫たちが夢村のズボンの裾を引っかいたり噛んだりして次の催促をし始めた。


「うーん……仕様がないなあ」

 夢村は困ったように頭を掻きながらも、新しいたいやきを地面に落とす。しかしそれでも取りあぐねてしまった猫たちがさらに次を催促する。しまいには食べ終わった猫たちがおかわりを要求しだしたりして、手元のたいやきは次々と減っていった。


「こら、久々に手に入れた貴重なたいやきなんだぞ。今度安いパンでも買ってくるからそれで勘弁してくれよ」

 そう言いながらも猫の催促に押し切られるようにしてついおかわりを与えてしまい、あっという間に残り一個となってしまった。夢村は紙袋の口をぎゅっと握り、頭上に持ち上げる。

「さすがにコレはあげられません!」

 夢村は宣言し、大急ぎで細い小道に駆け込んだ。慣れた足取りでくねくねと何度も道を曲がり、小さな追っ手たちから逃走する。


 しばらくは逃走劇が続いたが、ある程度進むとみな諦めてそれぞれの生活拠点へと戻っていった。

 夢村は辺りを見回し猫たちが居なくなったのを確かめてから、紙袋の中に残った最後のたいやきを取り出した。猫たちが食べているのを見ていたせいで、食欲が刺激されてしまったのだ。

 夢村は歩きながらたいやきにかぶりつく。

 さっくりとした食感のあとに続くふんわりとした感触。咀嚼をすれば、程よい甘みが口の中へやさしく広がっていく。外側はパリッと硬め、内側は柔らかさを保った絶妙な焼き加減の生地と、控え目な甘さで仕上げられたつぶ餡との相性が抜群だ。

「幸せだ……」


 夢村は至福の表情でたいやきを頬張りながら、細道を歩いていく。このあたりの地形はかなり複雑で、「住宅をも組み込んだ、地域を丸ごと利用した巨大迷路を建設しました」などと言われても納得の、細くて入り組んだ道が所嫌わず続いている。

 そんな入り組んだ一帯の中に、夢村の家……兼、探偵所が存在している。


 そう。この夢村京斗、実は探偵なのだ。

 創業したのは夢村の父親で、上げた看板の名は『夢村探偵所』

 一階が住居で二階が事務所となっている。案内なしではたどり着けないような複雑な場所に事務所を置いたのは、ひとえに予算の問題だろう。

 父親は夢村が幼いころに亡くなっているため真実はわかりようがないが、おそらく現在の夢村と同じようにあまり余裕のない生活をしていたに違いないと夢村は思っている。でなければもう少しわかりやすい場所に事務所を構えたはずだ。


 この一帯には驚くほどたくさん家があるにも関わらず、そのほとんどは空き家のまま放置されている。ゆえに、ここに居住者がいることを知る人は少ない。それにもし知っていたとしても尋ねようと思う人は稀で、また、尋ねようとしたところで案内なしに辿り着ける人はまずいない。

 けれど夢村は、この場所をそれなりに気に入っていた。周囲の建物は空家ばかりとはいえ、それは決してさびれた幽霊屋敷のようなものではなく、並んでいるのは小洒落た洋風の家々で景観は悪くない。その中にひっそりとたたずむ夢村の家は、さながら小説などに出てくる隠れ家のようで、趣がある。


 一つ不満をあげるとすれば、探偵所内に唯一存在する大きな窓からの眺めが悪いことだ。実際のところ、眺めという言葉をあてがうには相応しくなく、あえて言うならば“窓枠のはまった壁”もしくは“質の悪いフェイク窓”と表すのが最も似つかわしい。驚くことに窓枠の向こう、十五センチほど先には隣の家の壁が立ち塞ぎ、夢村がどんなにがんばって窓の外を覗いてみようとも、そこから見えるものは押しやるような赤茶色の外壁と細い道、そしてわずかに見えるちっぽけな空だけしかない。周辺には一軒家が多く、どの家も屋根が低い。通常であれば二階部分にある事務所の窓からの見晴らしは良いはずなのに、隣の家だけは例外で、完全に外の景色を遮っている。当然、人は住んでいない。この近辺ではかなり珍しい三階建ての家屋なので、昔は大所帯の一家が住んでいたのかもしれない。


「ん?家の前に人が……」

 所在なく佇む人影を見て、夢村は用心深く近づいた。別に探偵風を吹かしているわけではない。見覚えのない人物がそこに居る、それだけで充分おかしいのだ。夢村探偵所の知名度はかなり低く、夢村を訪ねるのは常連もしくはその人から紹介を受けた人たちくらいのもの。アポもなく見知らぬ人が訪ねてくるなどまずありえない。それに立地の問題もある。地図を見たとしてもたどり着くのが難しいようなところにあるので、案内なしには来られない。現に、今まで自力で事務所を訪れた新規顧客は存在しない。

 それなのに、目の前には見も知らぬ人が居る。


 夢村が近づくと、家の前に居た中年の男が気付き、会釈する。三十代後半くらいだろうか?少々肉付きの良いその男は気持ちの良い笑顔を夢村に向け、手に持つ紙袋を差し出した。

「初めまして。わたくし木戸宏平きどこうへいと申します。あ、よければコレをどうぞ」

 夢村は差し出された袋を見ると、途端に表情を明るくした。一瞬でわかる。中身は先程ほとんど猫にあげてしまった、あのたいやきだ。

 依頼したいことがあるというので、夢村は相好を崩したままに宏平を二階の事務所へ案内した。真っ直ぐに執務机まで行き、机の上に散らばった資料をざっと手でよけてから、そこにたいやきの袋を置く。それから顔の前で両手を組み、笑顔を封じて真剣な表情を貼り付ける。

「ご依頼ということですが」

 紙袋を凝視しながら発した夢村の言葉に宏平が察し、「どうぞ召し上がってください」と、手のひらでたいやきの袋を指し示す。

「いただきます……!」

 夢村は逡巡することなく即答し、たいやきにかぶりついた。


 手にじんわりと伝わるあたたかさと口いっぱいに広がる甘い香り。依頼人、宏平の存在は夢村の頭の中から一瞬で消え去った。ただひたすらにたいやきを味わっていく。しかし、三個目を口に含んだところで夢村の目の前に何かが差し出された。それは全長四十センチ程度の、少女の形をした古びた人形だった。髪は茶色い毛糸でできていて、目は丸くくりっとしている。夢村はたいやきを口に運ぶのを止め、完全に動作を停止した。口の中にはまだたいやきが残っている。

「この人形の持ち主を探してください」

 宏平が言う。夢村は口に残したたいやきをゆっくりと咀嚼しながら、机越しに立っている宏平を見上げた。


 夢村の頭にはいくつかの疑問が浮かぶ。

 まず一点目。差し出された人形は所々ほつれたり破れたりしている上に随分と黄ばんでいて、それが誰かの落し物であるとするならば、持ち主を探すほど大切なものには見えない。

 二点目。これが落し物などではなく、人物探しのための補助的なアイテムと捉えた場合。探したい人物の持っていた物がこの古びた人形だったとして、「人形の持ち主を探してください」という言い回しは不自然だ。そもそも、ここが探偵所と知っていた上で平然と家の前に立っていた点も気にかかる。先にも紹介したとおり、この事務所は知名度が低い上に立地条件も悪い。探偵事務所の存在を知っていたとして、これまで誰一人として自力でここまで来た者は居ないのだ。


 とはいえ、このまま追い返すわけにはいかない。どんなに怪しげな人物でもお客はお客。依頼内容も聞かずに帰すなんて、そんな薄情なことはできない。それは夢村のポリシーに反する。

 ……などと、もっともらしい理由を並べてみたが本当のところはそうじゃない。実に単純なことだ。要するに、夢村の腹の中に入っているものが問題なのだ。

 たいやき。宏平の買ってきた、たいやき。そう、宏平の存在すらも忘れ無我夢中でかぶりついた、あのたいやきだ。貢物だけ受け取って、帰れも何もあったもんじゃない。


(これは……策略?)

 夢村はたいやきをごくりと飲み込んだ。腹の中にあっては返しようがない。

 夢村は食べかけのたいやきをティッシュペーパーで包んでから紙袋に戻し、できる限り袋の外に匂いがもれないよう口を何度も折りたたんだ。そして口元を軽く拭ってから、探るような視線を宏平に向ける。


「……人形の持ち主とはどのようなご関係ですか?」

「親子です。この人形の持ち主……わたしの娘が二年前から行方不明になっておりまして、是非とも探していただきたいのです」

 宏平の言葉は、ますます夢村を疑わせた。

 行方不明者の捜索なら警察に任せればいいし、もし警察の対応に不満があって探偵に頼みたいと言うのであれば、もっと大手の探偵所に行くのが普通だ。誰かの紹介を受けてやって来たと言う訳ではないようだし、怪しいことこの上ない。事務所に来たときから時折見せている人のよさそうな笑みについても、どことなく違和感があるように感じる。


 夢村は視線を机上に落とし、紙袋を見つめた。食べてしまった以上、怪しいというだけの理由で依頼を断るわけにはいかない。

 それに、宏平には怪しい点があるとはいえ危険な人物には見えない。依頼を受けたとして、その所為で夢村に何か損害が起こるとはどうも思えなかった。

「……わかりました。引き受けましょう」

 夢村は暫く考えた後、そう答えた。たいやきによって、夢村がまんまとはめられてしまった感があるのは否めない。けれど結局のところ、夢村は依頼主を無下に扱うことなど出来ない性質なのだ。

 その後、夢村は宏平から行方不明だという娘についての詳しい話を聞いた。そして、予想される報酬額の半分を前金として受け取り、後日何かの結果が出次第、事務所でふたたび会う約束をした。




* * *


 依頼人、木戸宏平の娘の名前は亜利紗(ありさ)。宏平があまりにも怪しく見えたことから念のため戸籍を確認すると、意外にもあっさりと捜し人は見つかった。それはあまりにも早い発見で、またあまりにも驚くべき事実だった。


 木戸亜利紗は、死んでいた。

 行方不明などではなかったのだ。当時五歳だった亜利紗は車にはねられて事故死。運転手のよそ見が原因だったらしい。

 戸籍で確認をとった結果、木戸宏平と亜利紗が親子であるということは確かであった。ならば、当然事故のことは宏平も知っているはずである。事故を起こした本人とも話をしてみたが、直接宏平に謝りに行ったと言うのだから、知らないはずはない。


 ではなぜ、亜利紗の捜索をわざわざ依頼しに来たのか。夢村はそれを探るため、宏平についても調べてみることにした。

 夢村は宏平の実家を調べ、直ちにそこへ向かった。それほど遠い所ではなく、電車で小一時間の距離に彼の実家は存在した。

「すみません、木戸宏平さんについて伺いたいのですが」

 夢村の言葉を聞くと、応対のため玄関まで出てきた人物はあからさまに眉をしかめた。名乗り忘れていたことに気づき、あわてて素性を伝える。

「あっ、夢村探偵所から来た、夢村京斗といいます。実は先日、宏平さんから亜利紗ちゃんの捜索依頼を受けまして……」

 そこまで言うと宏平の母、公子(きみこ)は目を見開き、戸惑いながらも答えてくれた。

「亜利紗は……いません」


「ええ。戸籍を見て直ぐにわかりました。宏平さんもわかっているはずです。それなのにどうして宏平さんが捜索依頼をしたのか、僕はそれが知りたいんです」

 夢村が静かに言うと、公子は頷き、ゆっくりと話し始めた。

「もちろんあの子、宏平も亜利紗のことは知っています。しかし、どうしても認めようとしないんです。

 葬儀の時にも顔を出さないで『亜利紗は死んでなんかいない、絶対戻ってくるんだ』と、そう言い張っていました。

 最初のうちはただの強がりでしかありませんでしたし、周りもかわいそうがって『そうだね、きっと戻ってくるよ』などと声をかけていましたら、しまいには本当に行方不明なんだと信じ込んでしまったんです」

「では、墓参りなんかも……?」

「一度も行っておりません。でも、宏平ばかりを責めないでやってください。あの子はかわいそうな子なんです。

 嫁は育児がそれほど辛かったのかノイローゼになってしまい、亜利紗が生まれてから二ヶ月足らずで黙って出て行ったきり戻って来ません。そのうえ、あの子にとって唯一心の支えだった亜利紗も、二年前に居なくなってしまいました。その悲しみがどれほどのものだったかは計り知れません」

 公子がぼろぼろと涙を流して訴える。

 細かい部分はすべてあとから聞いた話になるが、宏平の妻がノイローゼにかかったとき、宏平やその母と父たちがなんとかしようと試みたものの結果は空しく、結局どうにもできなかったらしい。

 夢村は涙を流す公子を前にして、何か言おうと言葉を探ってみるが何一つ浮かんでくるものはなく、最後まで言葉をかけることができなかった。

 夢村は公子が泣き止むまで、ただじっと、そこに立っていた。




 夢村は宏平の実家を去ると、次は亜利紗の墓へと向かった。

 亜利紗の墓の前ではちょうど、三十代前後の女性たち数人が花を飾っていたので、夢村はその人たちの話も聞くことにした。先程のように不信感を抱かせないため、今度はきちんと自分の身分を真っ先に説明し、本題に入る。

「宏平さんについてお聞きしたいのですが……」

 話好きのメンバーだったようで、こちらが質問をしなくても次へ次へと勝手に話を進めてくれる。

 そういうのが嫌だと言う人もいるだろうが、探偵という立場からすれば非常にありがたい。口が堅いよりは断然いい。困るのは時間に限りがあるときだけだ。

 幸いなことに今日は時間に追われていなかったので、女性たちの気が済むまで話を聞いていた。話の内容はほとんど覚えていなかったが、ただ一つだけ覚えている言葉がある。

 一人の女性が不意に、

「でも、お父さんが一度も会いに来てくれないなんて、亜利紗ちゃんもかわいそうよねえ……」

 かわいそう。そう、言ったのだ。

「かわいそう……」

 夢村は墓を見てつぶやいた。心なしか、亜利紗の墓がまわりの墓よりも沈んだ雰囲気を帯びているような気がした。


(確かに、かわいそうだ―――)

 夢村は墓の前で静かに手を合わせ、目を閉じた。

 夢村には死んだ者がどうなるのかなんて到底分かり得ないが、もし自分が死んだとき、自分の大切な人が墓参りに来てくれないのは、きっと悲しいのだろうと思う。

(自分の死を信じてくれないのはそれだけ愛されていたという証拠なのかもしれない。だけどそれでも、その死を信じないあまり愛する人が会いに来てくれないというのは、とても辛いことだろうと思う。だから、きっと亜利紗ちゃんも辛いのではないだろうか。寂しいのではないだろうか。

 死を迎えた人間に、まだ何かを感じる心があるのかどうか僕には分からないけれど……。

 それでもやっぱり悲しいことだと思うから。宏平さんにとっても、亜利紗ちゃんにとっても、辛いことだと思うから―――)

 夢村はゆっくりと目を開けて墓を見据える。

 どうにかして、二人を会わせてあげたいと思う。




「お久しぶりです夢村さん」

 宏平が笑顔で挨拶をする。初めて会ったとき、宏平を怪しみ、その笑顔に違和感があると感じていたが、今ならそれがどうしてなのか容易に理解できる。

 これは夢村を騙す為の作り笑いではなく、自分を騙す為の作り笑いだったのだ。亜利紗がまだ生きていると信じ込むための、偽りの笑顔。今まで「亜利紗は生きている」と口にするたびに、その偽りの表情を幾度となく浮かべてきたに違いない。

 ならばこれほど悲しい笑いはないだろう。

 無理に笑わなくて良いから、どうか亜利紗ちゃんの死を認めてあげて欲しい。夢村は心の底からそう感じていた。


「それで……何か進展はありましたか?」

 宏平が、遠慮がちに夢村へ質問する。

「ええ。亜利紗ちゃんが見つかりました」

 そう言った瞬間、宏平の顔がかすかに強張った。夢村は優しく微笑んで、指差しながら言う。

「ここに」

「……ここ?」

 宏平は夢村の指の先にある、自分の胸を見下ろした。

「ええ。ここです」

 夢村が指を下ろし、静かに言葉を続ける。

「亜利紗ちゃんは確かにその中に存在しています。だからこそ貴方はこの探偵所を尋ねた。亜利紗ちゃんの存在があまりにも大きすぎて、耐えられなくなったからでしょう。……でもね、宏平さん」

 夢村は優しく、そして同時に悲しげな笑みを浮かべた。


「もうそろそろ、事実を受け止めても良いのではないですか?

 それはとても辛いことかもしれません。けれど、同じように亜利紗ちゃんも辛い思いをしているはずです。愛ゆえの行動とはいえ、自分の大好きなお父さんが、自分の死を受け入れてくれないあまり一度も会いに来てくれないのですから……」

 どれくらいの時間が過ぎたのか、重々しい沈黙が続き、やがて宏平がゆっくりと口を開いた。宏平は涙を堪えるように歯を食いしばり、絞り出すような声で言葉を零していく。

「どうして……そんなことを言うんですか?わたしはただ、亜利紗を探してくれと、そう言っただけだったのに……」

「そうです。僕は依頼通りに亜利紗ちゃんを探して、そして見つけたんです」

 夢村は穏やかに答えた。


「亜利紗ちゃんは貴方の中に居ます。これは確かです。だけど貴方は突然突きつけられた事実にどうして良いかが分からなくなり、がむしゃらに動いているうち、ついにどうしようもなくなってしまった。

 だから、今になってこんなところにまで足を運んできたんですよね?

 貴方は亜利紗ちゃんのことをとても大切に想っている。それは最近知り合ったばかりの僕にも充分わかりました。しかしそれゆえに、死という概念が随分と遠くに行ってしまった、いえ、実際はとても近くにあったのに、そんなものは知らないと払いのけてしまったのです。

 宏平さん、貴方は自分がどうするべきなのか、ちゃんとわかっているはずです。そろそろ自分の“心”に正直になりましょう?亜利紗ちゃんのためにも、しっかりと真実と向き合ってください。亜利紗ちゃんもきっとそれを望んでいるはずです」

 宏平は静かに夢村の言葉を聞いていた。夢村は宏平が話し出すのをじっと待つ。宏平はしばらくのあいだ俯いて口をきつく閉じていたが、段々とその力は緩んでいき、やがてその口が開いた。

「きっと……一番辛い思いをしていたのは、亜利紗なんですよね……。

 突然命を奪われただけでもかわいそうだというのに、さらにわたしがそのことから逃げてしまって……その、今まで一度も、墓参りに行ってやっていないなんて……」

 宏平の顔がゆがむ。

「……人と人の辛さは量れませんよ」

 夢村がそっと声をかける。その顔には憐憫が滲んでいた。


「貴方も亜利紗ちゃんも同様に辛いんです。

 だけど貴方は親として、亜利紗ちゃんの為にもその辛さを乗り越えなくてはならない。そういうことでしょう?きっと亜利紗ちゃん、待っていると思います。だから親として、ちゃんと会いに行ってあげてください。

 そしてまた一人じゃ絶えられなくなるようなことがあれば、誰でも良い、誰かのところに行って貴方の辛さを和らげてもらってください。……僕でもかまいません。僕は大抵ここに居ますからね」

 めったに依頼はきませんしね、と言ってにっと笑う。宏平もつられて唇の端を上げた。すっかり憑き物が落ちたようだった。宏平の顔からは違和感が完全に消え去り、とても爽やかな笑みを浮かべている。

「そうですね……また何かあったときには、ぜひ貴方にお願いしたいです」


 そこからしばらくは二人でお茶を飲み、亜利紗の話をした。

 帰り際になると、宏平は深く頭を下げて何度もお礼の言葉を述べた。それからにっこりと意味ありげな笑みを見せ、そして一度は参考物品として預かり、お茶の最中に返したはずの古い人形を夢村の前へ差し出す。

「……なんですか?」

 探るような目つきで夢村が問う。

「貰ってください。だって、もともとの依頼内容はこの人形の持ち主を捜すことでしょう?だから、夢村さんが貰ってください」

「いやいや、だからって何で僕が……。というか依頼内容の趣旨が変わっている気がするのですが……」

 夢村は断ったのだが、最終的には宏平に押し負け、結局は人形を貰い受けることとなった。

「探偵所なんて探せば山ほど見つかるのに、どうしてうちみたいなところを選んだんですか?」

 夢村は最後に、依頼を受けた当初からずっと気になっていたことを質問した。


「ここの探偵ともあろうお方が、そんな言い方をすることはないでしょう」

 宏平がおかしそうに笑う。普通なら自分の事務所に自信を持ち、宣伝をする位じゃないとやっていけない。けれど夢村はそんな様子を少しも見せず、それどころかどうして来たんですかと質問をしてきたのだ。きっと宏平でなくても笑ってしまうだろう。

「そうですね……わたしはこの辺が地元で、小さい頃はここらにもよく入り込んで遊んでいたんですよ。だから探偵所があること自体は前々から知っていました」

「よく……来ていた?」

「ええ。そうです。貴方のお父様、京助けいすけさんには色々とお世話になりました。

初めてここに来た時は、ただ単に迷ってしまったというだけで本当に偶然に過ぎなかったのですが、京助さんのハーモニカに聞き惚れてしまって、その後は自分の意志で通うようになりました」

「父と知り合いだったんですか?」

 夢村は驚いた。


「はい。いつも決まった時間に窓辺でハーモニカを吹き、その後には必ずわたしの相手をしてくれました。貴方のことも知っています。貴方はその頃まだ五歳くらいの子供で、相当かわいらしかったんでしょうね、京助さんはいつも自慢をしていましたよ。でも……」

「―――僕が小学校に上がる頃、事故に巻き込まれて死んでしまった」

 夢村の言葉に、宏平が黙って首を縦に振る。

「……人づてに聞いて驚きました。貴方もどこか親戚の家に引き取られたということでしたし、以来一度もここへは訪れませんでした」

「それなのに、どうしてまた?」

 夢村が宏平へ話の続きを促す。

「貴方が京助さんの子供だから、と言う訳ではありません。第一この探偵所が再開したことすらわたしは知りませんでした。ただ娘の面影を追い、さまよう日々を過ごしていたんです。

 しかしそんな中、町で偶然貴方を見かけました。京助さんに瓜二つだったので初めは本人かと思いましたが、京助さんのはずがありません。外見からしてもずいぶん若く見えましたし、きっと以前親戚に引き取られていった京助さんの子供なのだろうと思いました。そして暫く見ていると細い小道に入っていったので、これはもう確実だと思いました。

 けれど最初に言った通り、わたしは京助さんの子供だからと言う理由から、貴方を選んだわけではないのです。

 お金が無くて月に一度しか買うことの出来ないたいやきを、猫にほとんどあげてしまう。そんな貴方を見て、依頼をしようと思ったんです」


「……そんな恥ずかしい場面を目撃して、それでここに決めたんですか?」

 夢村が恥ずかしさと驚きが入り混じった複雑な心持ちで問う。そんな夢村に宏平はきれいな笑顔を向けた。

「そんな場面を見たからこそ、決めたんです」

「そうですか……」

 夢村は苦笑し、いたたまれない思いで頭を掻いた。

「ともかく、話を聞かせてくれてありがとうございます。父のことはよく覚えていないですし、父のことを話してくれる人も少ないので、今日は宏平さんからその話が聞くことができて良かったです」

「いや、とんでもない。こちらこそ、本当にありがとうございました。夢村さんのおかげでとてもすっきりしました。依頼したのが貴方で良かったです」

「父から受け継いだ大切な仕事ですからね」

 夢村が微笑む。

「でも、それよりこの人形……本当に僕が貰っていいんですか?亜利紗ちゃんの大切な人形なんでしょう?」

 父親が持っているほうがいいのではと思うのだが、宏平は「どうしても貴方に持っていて欲しいんです」と言って聞かなかった。そうして催促もしていないのに、後日お礼も兼ねて改めてたいやきを差し入れにきますと言って去っていった。


 内心、たいやきという言葉にかなり心惹かれていて、今からすでに楽しみで仕方がない。宏平はきっと袋いっぱいのたいやきを持ってきてくれることだろう。

(そうしたら猫たちに分けに行ってやろう)

 夢村の頭の中に一瞬だけそんな考えが浮かんだが、直ぐにかき消した。また猫にほとんどを食べられてしまうに違いないからだ。

(猫たちには、今度安いパンでも持っていこう……)


 夢村は、机に置かれた少女の人形をそっと見つめた。

「……男一人の探偵所にかわいらしい人形が置いてあるって、どうなんだろう」

 そう言いながらも夢村は大事そうに人形を抱えてから棚に移動させ、にっこりと笑いかける。開いた窓からは気持ちのよい風が流れ、カーテンが静かに揺れていた。夢村は窓に近づき、顔を半分ほど外に出して存分に風を受ける。いつもは狭苦しく感じる赤茶色の壁も今はそれほど窮屈に感じない。

「気持ちのいい風だね」

 語りかけるようにそう言った夢村の視界の先では、宏平が意気揚揚と大通りに向かって歩いていた。


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