復讐の葬送曲
※※
吐き気が治まらない。昨夜から何度吐いただろう。食欲などあろうはずもないから、もう丸一日何も食べていない。それでも胃は吐き出すことをやめようとしない。出てくるものといえば、僅かばかりの胃液しかないというのに。
眠ることもできなかった。眠れば夢に出てくる。あの醜悪な死体が救いを求めて俺をじっと見つめている。目玉は窪み、濁った瞳をあらぬ方向に向け、削げ落ちた頬の肉の隙間から、薄汚れた骨を覗かせて。
――やめろ、そんなふうに見つめたって俺には何もできない。
いくら大声で喚いても、死体はいつまでも見つめ続けている。やがて叫び疲れた俺は、狂い始めた理性を必死に掴みながらも、死体の腐った顔から目が離せなくなった。
「ごめんね……」
――頼むから謝らないでくれ。
「あたし……馬鹿だね」
――もう遅いよ。お前はもう死んでしまったんだ。
腐った死体の顔が、生きていた頃の咲子の顔になる。捨てられた子犬のような潤んだ瞳で俺に訴えかける。お前の得意な顔。俺はその表情を見るたびに欲情を覚えた。幼い顔立ちをお前は普段から憂いていたが、俺には十分に扇情的だった。突き上げる衝動を抑えられず、俺は華奢なお前の体を力いっぱい抱きしめ、耳元に囁きかける。好きだ……。
お前の体から力が抜けてゆき、そして幸せをかみ締めたような、はにかんだ笑みで俺の肩に凭れかかるのだ……。
幾度となく繰り返した夢想。そんな夢想ももはや意味を持たない。なぜならお前はもう――。
思考の中の咲子の顔が、腐った醜悪な骨と肉の塊になった。俺は耐え切れず、こみ上げる胃液を吐き出した。目から涙が零れた。溢れくる涙を止められなかった。
※※
八月二十四日。午後四時。世田谷区砧にある収録スタジオは騒然としていた。駐車場に入りきらない各テレビ局の中継車が道にまで溢れている。レポーターや記者が走り回り、少しでもよい場所を確保しようと、巨大なレンズを付けたカメラを抱えるカメラマンたちが殺気立つ。当初予定していたスタジオ内ではなく、正面入り口前に急遽場所を移動したのは正解だった。美術セットが展開されたスタジオ内では空きスペースが狭く、これだけの報道陣は入りきれなかった。ひとまず自分の判断の的確さに満足し、スタジオ管理関係者に頭を下げて回った苦労が報われたことに、北嶋春樹はほっとした。
実力ある女優を発掘し、売り出す力にかけては業界一と言われる紅プロダクション。その紅プロに新卒で入社して七年。広報部でキャリアを積み、今年ついに笠原咲子の広報担当チーフになった。笠原咲子といえば、二年前にデビューして以来、着実に女優としての才能を磨き、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで一気に実力派若手女優のナンバー1に躍り出た。芝居の懐の深さと存在感の大きさ。いずれも辛口で知られる某映画雑誌でさえ絶賛したほどだ。
当然、紅プロとしても笠原咲子に注力している。通常一人のタレントに一人のマネージャーしか付けない紅プロが、咲子には異例の三人ものマネージャーを付けている。メイクやスタイリストも含めたスタッフはざっと十人に及ぶ。北嶋もその中の一人として責任ある立場を与えられたことに喜び、そしてプレッシャーの大きさに震える毎日を送っている。
そして今日という日を迎えた。北嶋は溢れる報道陣を眺めつつ、暗澹とした気分に陥るのを拒むことができなかった。初めてこの話を聞いたのは、ほんの三日前。それまで笠原咲子を「売る」ことにのみ情熱を傾けていた北嶋を、絶望という名の地獄に突き落とすに十分な破壊力があった。日頃、能天気ともいえるほど陽気な笑顔を絶やさない社長が、咲子のスタッフを集め、珍しく難しい顔を皆に晒した。ゆっくりと全員の顔を見渡しながら、日に焼けた五十四歳には見えない精悍な顔が今にも泣き出しそうに歪むのを、北嶋は不吉な胸騒ぎとともに見つめた。
「明日、日東スポーツが咲子の妊娠の記事を一面で出す……」
囁くように発せられた社長の言葉が、皆の脳髄に響き、その意味が浸透するまで空白の時間が過ぎた。やがてそれぞれに驚愕の表情が浮かぶ。北嶋も例外ではなかった。衝撃の大きさに心臓を鷲掴みされたような息苦しさが襲った。
「ど、どういうことですか」
チーフマネージャーの佐田が叫ぶ。数え切れぬほど多くのタレントを芸能界に送り出してきたベテランマネージャーだが、笠原咲子に対しては、それまでのタレントとは違う格別な想いを抱いているらしい。以前酒の席で、北嶋にそう零したことがある。それだけに佐田の叫びは悲痛なものに聞こえた。
「咲子の妊娠が日東スポーツの芸能記者にすっぱ抜かれたんだ」
「妊娠てそんな……それは本当なんですか」
社長は苦渋の表情に顔を歪ませた。「本人からメールがあった。妊娠を認めたよ」
「そんな……咲子はまだ……」
佐田が絶句する。誰もが皆、言葉を失っていた。
咲子は今月、十九歳になったばかりだった。年頃の娘であることは事実である。恋もしたいだろう。しかし事務所とすれば清純派で売り出している咲子に、間違っても男の影など匂わせてはならなかった。スタッフの誰もがそれを承知している。咲子には可哀そうだが、アイドルである以上、仕方のないことだった。マネージャーはもちろん、すべてのスタッフが咲子の私生活にデリケートになっていた。共演する男性タレントを含め、あらゆる男の姿を排除すべく神経を使ってきたのだ。
それなのに妊娠……。まずは信じられないという思いが一同を支配した。
「相手は誰なのでしょう?」
重い沈黙が支配する室内で声を発することは憚れたが、北嶋は我慢できずに訊いた。俯いていた誰もが顔を上げ、社長の困り果てた顔を見つめる。
「岬……祥平だ」
一同から「ああ……」というため息が漏れた。社長も苦笑を浮かべ、疲労を滲ませながら目頭を指で押さえた。
岬祥平。北嶋は頭を抱えた。新進の映画監督。昨年、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲った。デビュー以来、斬新な映像と繊細な心理描写が高い評価を得、そしてカンヌを獲ることで、その実力を見せつけた。観客動員数も好調で、低迷する日本映画界にあって、唯一華々しい活躍で異彩を放っている。若干三十二歳。
岬の魅力は単に「いい映画を作る」男、というだけのものではなかった。モデル並みのルックスとスタイルを持ち、どこか翳を持った表情で、人前でほとんど笑うことがない。あまり饒舌ではなく、むしろ取材を受けても必要以上の会話をしない寡黙な性格だが、放つ言葉は清冽で聴く人の心を惹きつける不思議な力があった。故に神秘性の強い存在として世間には受け入れられ、特に若い女性に絶大な人気を持っている。それだけの男だけに、映画界だけでなく様々なメディアが放っておくわけがなかった。
紅プロもそんなメディアの一つだ。売り出し中の笠原咲子を主演に据えた、映画制作の企画を通したのだった。監督はむろん岬祥平。制作費に六億円の巨費を投じたその映画は、笠原咲子と岬祥平のジョイント映画として、目論み通り話題になっている。そしてその撮影を終え、映画が完成し、あとは公開を待つのみとなった矢先に起きたこの事態だった。
スタッフが神経質に目を光らせている中、二人はいつどのようにして咲子が妊娠するような関係になっていったのか。誰の頭の中にもその疑問があったが、しかし今考えなければならないのは、より現実的な問題だった。
「どうするんですか。記事が出ればマスコミは大騒ぎです。収拾がつきませんよ」
佐田の嘆きはもっともだった。人気の絶頂にある女優が、未成年でしかも未婚で妊娠。一級品のスキャンダルである。このところ芸能界で目立った話題がなかっただけに、マスコミはこの事実を挙って取り上げるだろう。事務所が声明を出すだけでは済まない。確実に本人の記者会見を要求してくる。たとえ会見を開いたとしても、穏便に収束するとは思えない。混乱は必至だ。
「とにかく会見は開かねばなるまい。本人に釈明させる。北嶋くん、よろしく頼むよ……」
社長の今にも泣き出しそうな顔に見られ、暗澹としながらも北嶋は「はい」と答えるしかなかった。
「しかし会見を開くにしても、どう説明するんですか。下手な説明ではかえって火に油を注ぎかねませんよ」
佐田が再び叫ぶように言った。マネージャーとしてどう対処してよいか分からず、パニックになっている。他の人間たちも同様で、言葉を失くしたまま、ただ呆然と成り行きを見守っているだけだ。
「そんなことは分かってる。だがもはやどう収拾づけようと混乱は避けられん。変に隠し立てすれば余計に問題が大きくなる。素直にありのままを言って、誠意を見せるしかないだろう」
「ありのままとは。誠意っていったい……」
「世間に対してだ。なんとしても咲子に汚れたイメージを付けさせてはならない。あくまでも純愛の結果であることを強調する。結婚する意志があることも、きちんと明言するんだ」
「それは事実なんですか。咲子の意思なんでしょうね」
「知るかそんなこと……」
社長は投げやりに吐き捨てた。「さっきから咲子の携帯に掛けているが、電源を切っているのかまったく繋がらない。妊娠しましたとメールを投げてきたきり、音沙汰なしだ」
「なら、もっと詳しく本人と話をしてみないと分からないじゃないですか。岬監督と本当に恋愛をしていたのか、そもそも妊娠だって間違いかもしれない」
佐田の声には希望がこもっており、自らを励ますようでもあった。
「天下の日東スポーツが一面で載せてくるんだ。ちゃんと裏は取ってあるのだろう。少なくとも妊娠の事実は曲げられない」
社長はいくらか冷静になってきたのか、声音が落ち着いてきた。北嶋も一時の動揺が治まり、頭が少しずつ回りだしていた。
「重要なのは結婚の意志だと思います。妊娠は衝撃的ですけれど、双方にきちんと結婚の意志があることを主張すれば、咲子に悪いイメージがつくことを回避できるのではないでしょうか」
北嶋の言葉に社長は大きく頷き、佐田も不安な表情ながら同意する目を向けた。
そして今日を迎えた。記事が出てからの業界の反応はすさまじかった。だがそれは同時に、咲子の女優としてのステイタスの高さを物語っている。清純派女優が唐突にもたらした核ミサイル級の衝撃。マスコミだけでなく、世間に与えた驚愕は想像を絶する。
居並ぶ報道陣の表情にも、心なしか緊張の色がみえる。彼らは自らの力で、世間を「あっ」と言わせるようなセンセーショナルな話題を報道することに意義を持っている。彼らの欲求を満たす上で、今回のネタは最上級のものだ。ならば情報を提供するこちらも最上級のもてなしをせねばなるまい。すでに会見で述べる内容、主張すべきポイントについて、咲子との打ち合わせを済ませた。あとは咲子の演技力しだいだ。
――さあ、最高の女優魂を見せてくれよ。
報道陣がいっせいにざわつき、無数のフラッシュが周囲を真っ白に染める。マネージャー二人に先導されて、笠原咲子が軽く微笑みを湛えて報道陣の前に現れた。スタジオの正面玄関を出たところで、大きくお辞儀をする。優雅な動作で鼻につくほどの謙った態度ではない。かといって傲慢にも見えない所作。計算されていながら、それを自然な印象で見せる振る舞いをこともなげにやってみせる咲子は、まさに天才の名に相応しい。北嶋は自らの立場を忘れ、一瞬見とれた。腕に鳥肌が立っていた。
衣装は薄い花色のトレンチジャケットに、水玉の白いワンピース。エスニックなアイキャッチでありながら、若さと清潔さを併せ持つ。そして女優としての華やかさを助長する効果もある。この場にもっとも相応しい衣装だ。北嶋は満足に頷いた。
細工は流々。あとは咲子しだいだ。猛烈なフラッシュの閃光に晒される中、咲子は自信に満ちた笑みで居並ぶカメラの放列をゆったりと見回していた。本当に凄い女だ――。
記事が出たのち、北嶋が咲子と相対することができたのは、結局今日になってからだった。咲子から直接に真偽を確認する間もなく、記者会見が行われる今日になってしまった。会見のシナリオを考えるのは北嶋の仕事である。そのためにも咲子から直接聞き出したいことが山ほどあったが、多忙を極める咲子のスケジュールを考えれば致し方なかった。それにシナリオは何もノンフィクションである必要はない。優先すべきは真実ではなく、女優としての咲子のイメージと価値。それらを貶めずに世間の理解と納得を得られればよい。北嶋は他の仕事を脇へ追いやって、このシナリオの草稿にあたった。
徹夜で書き上げた原稿。社長はいち早くそれを読み、そして頷いた。
スタジオに到着したとき、すでに咲子は楽屋入りしていた。手持ち無沙汰にファッション誌をパラパラと捲っていたようだが、北嶋が入ってゆくと笑顔で「おはようございます」といつもと同じ明るい挨拶を向けた。気詰まりなのは北嶋の方だった。訊きたいことはいくらでもあったはずだが、あまりにも普段通りの屈託のない笑顔を向けられて、口に出すのを憚られた。
それでも伝えるべきは伝えねばらならない。記者会見の予定があることを告げ、徹夜で書き上げた原稿を渡した。
「これは?」
怪訝な表情で首を傾げる。目の前で見る咲子の動作は、どんなに些細なものであれ、いつ見ても魅力的だ。このときも北嶋は厳しい現実をいっとき忘れ、咲子に見蕩れた。無言の北嶋をいぶかしむように、不思議そうな咲子の瞳が北嶋を見つめる。その視線にどぎまぎし、北嶋は我に返った。
「今日予定している記者会見のシナリオだよ。想定される質問事項と、それに対する回答の要点をまとめてある。時間までに頭に入れておいて欲しい」
咲子の戸惑う表情がなおいっそう色濃いものになる。
「記者会見のことは聞いているけど、シナリオってどういうこと?」
「答案の模範解答みたいなものかな。そのとおりに答えてくれればいい」
「私の自由にしゃべっちゃいけないの?」
「事情が事情だからね。混乱をこれ以上長引かせないことを最優先させたいんだ。映画の公開も控えている。社運を賭けた企画だから、なんとしてもマイナスのイメージがつくことだけは避けなきゃいけない。それは分かるだろ」
咲子は北嶋が渡した紙の束をパラパラと捲りながら「ふうん……」
と鼻を鳴らした。
「つまりは社長の指示ってことね」
「もちろんだ。僕の一存でどうこうできる問題じゃないよ」
北嶋は胸を張った。そんな北嶋を咲子の冷めた瞳が見つめる。北嶋とすれば社長の意思が背後にあることを強調することで、咲子の積極的な協力を得る思惑があったのだが、結果は逆効果だった。しかし北嶋には咲子の秘めた胸の内を察するだけの余裕や、微妙な心理を読む能力が不足していた。「分かりました」と澄まして言った咲子の言葉に、北嶋は疑いなく満足してしまった。これでなんとか乗り切れる目処がついた――。徹夜の仕事が報われた思いに、北嶋は安堵した。
※※
その夜、紅プロの社長室には沈鬱な表情を浮かべる男たちが集まった。誰も何もしゃべらない。重い静寂が垂れ込める室内に、テレビから流れる音声だけが響いていた。テレビでは昼過ぎのワイドショーで放映された咲子の記者会見の一部始終が流れている。生放送で放送された番組をビデオ録画したものだ。画面では無数のマイクを突きつけられた咲子が、卑屈さとは無縁の嬉々とした表情でレポーターが繰り出す質問に答えている。
――岬監督との間に子供ができたという記事が出ましたが、それは事実なのですか?
「はい。事実です。このお腹の中に……」咲子はいとおしそうに両手で自らの腹部を押さえ、「私たちの子供がいます」と、臆することなく答えている。その堂々とした態度に、質問するレポーターの方がややたじろいだほどだ。
――岬監督とはいつ頃から深い関係になったのでしょう。
「映画の撮影が終わった後からです。撮影中も何度か監督とは食事をご一緒させていただいてて、そのときから私の中では監督が特別な存在になっていましたが、さすがに撮影が終わるまでは恋とか愛とかいえる雰囲気じゃないですからね」
そう言って咲子は人懐っこい笑顔を見せた。
――しかし撮影が終わったのはちょうど半年前くらいですよね。わずか半年で妊娠したわけですが……そのことについては何か感想とかありますか。
「感想ですか? そうですね……」そこで咲子は照れた笑みを浮かべた。
「妊娠したことが分かったとき、とても嬉しかったです。私と岬さんとの愛の結晶ですから、本当に嬉しかったです」
――でも咲子さんはまだ十九歳ですよね。未成年で妊娠したということについては何かありますか?
「成人しているからとか、未成年だからとか、恋愛については関係ないと思うんですよ。子供ができたのだって私たちが望んだ結果ですからね、子供を授かったことと私の年齢とはまったく無関係なことです」
――ちなみに今、妊娠何ヶ月目なのでしょう。
「ちょうど5ヶ月です」
――もう男の子か女の子かは分かっているの?
「いえ。医師の先生が言うにはそろそろ分かるらしいんですけどね、でもまだ聞いてないんです」
――咲子ちゃんとしてはどっちがいいの?
「私はやっぱり女の子がいいですけど、でも岬さんは男の子の方がいいみたい」
屈託のない咲子の笑顔が画面にアップになる。
ここまでは何ら問題なかった。最初は硬かったレポーター陣も徐々に咲子のペースに乗せられ、少しずつ祝福する柔らかく温かい雰囲気になってきている。
咲子の応答する内容も、ほぼ北嶋が作ったシナリオに則っていた。記者たちが繰り出す質問も予想の範疇であったし、それに答える咲子の言葉も、淀むことなく北嶋の考えたシナリオ通りだった。ここまでは良かったのだ。脇で記者会見の場にいた北嶋も、この時点で不安は消え去り、安堵の吐息を漏らしたことを覚えている。だが、激震はこの後すぐに襲ってきた。
――それで、岬監督との結婚のご予定などは決まったのですか。
「いえ、結婚はしません」
一瞬、場が静まり返った。そしてざわざわと、咲子を取り囲む報道陣が蠢動する。それまで和やかな雰囲気の中にいた誰もが、突然に降り注いだ衝撃に打ち震えた。一人、咲子を除いて。
――え? 結婚はしないのですか?
「はい、しません」
堂々と笑みを浮かべたまま、咲子ははっきりと宣言する。一斉にカメラのフラッシュが閃く。マイクを向けるレポーター達の表情が凍りついた。
――ええと……それはどういうことかな。
「ですから、岬さんとは結婚はいたしません」
――では生まれてくる子供はどうなるの。
「私がちゃんと責任を持って育てます」
――え、じゃあ、岬さんはそれに対してはどう……。
「岬さんは関係ありません。たとえ結婚しなくても、この子の父親が岬祥平さんであることには変わりありませんし、ちゃんと父親としてこの子を認知してくれると言ってくれましたから。それだけで十分じゃありませんか」
自信に満ちた微笑。それはきっと演技などではない。北嶋は耳を疑い、そして硬直したまま動けなかった。咲子が自分を裏切った。その事実が無情なまでに北嶋の心を傷つけていた。
騒然としたレポーター達が矢継ぎ早に質問を浴びせる。
――そんな勝手なこと、周囲が許すと思うんですか。
――ご両親はなんて言ってるんですか。
――事務所の社長はなんて。
――大勢のファンの人たちにはどのように伝えるつもりですか。
突如として襲いかかる幾多の質問。殺気立つ報道陣に咲子も困惑した表情を浮かべるが、泰然とした微笑は消えることがなかった。自らの言動、決断に己を見失っていないからこその態度だ。しかしこのままでは収拾がつかない。
「おい、北嶋!」
咲子を守るように、マイクを向け続けるレポーター達の前に立ちふさがったマネージャーの佐田が叫んだ。しかし北嶋はその声を、ひどく遠い潮騒のように感じていた。混乱する目の前の光景を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
無言のままリモコンでテレビのスイッチを切り、社長は頭を抱えた。北嶋は居たたまれない気分の中で、ただ俯くことしかできなかった。佐田や他のマネージャーたちも同様のようで、報道陣とのもみ合いで崩れたネクタイを直す気力も涌かないようだった。
「すみません……。僕のせいです」
北嶋は沈黙に耐え切れず、細々とした声で言った。誰も何も反応を示さない。ドアを隔てて断続的に聞こえてくる電話の呼び出し音が、異様に耳に響いていた。
この放送からのち、事務所は休むことなく鳴り続ける電話の応対に忙殺された。多くは咲子がレギュラーを抱えているテレビ局やラジオ局、広告代理店やCM契約先の企業などであったが、中には咲子のファンも多く混ざっており、泣きながら自殺を叫ぶ男の数も一人や二人ではなかった。夜になり、それらも一時に比べれば落ち着いてきたが、今もなお熱狂的なファンたちが――多くは若い男性だが――泣きながら意味不明の言葉を叫んだり、強い言葉で詰問してきたりする。事務所のほとんどのスタッフがその対応のため、残業する羽目になっていた。
「君のせいじゃないよ」
しばらくたって、佐田が疲れた笑みを北嶋に向けた。「咲子の暴走を止められなかったのも、咲子が岬監督と会っていることに気づかなかったのも、すべて僕らマネージャーが不甲斐なかったせいだ」
「そうだよ北嶋。お前はよくやったよ。徹夜で台本作ったりな」
サブマネージャーの寺岡誠二も青白い顔を北嶋に向け、苦笑いを浮かべた。寺岡は北嶋と同期入社だった。ともに笠原咲子の担当になり、二人で酒を酌み交わしながら咲子の未来を通して、芸能界への熱い将来を語ったりした。二人の間にはただ同期であるというだけでなく、常に咲子の存在があり、咲子がいたからこそ、仕事で煮詰まったり辛い思いをしたりしたときでも、互いに励ましあえてきた。咲子は北嶋と寺岡を繋げる磁石の役割もし、そして緩衝材でもあったのかもしれない。ともに芸能界を仕事の場とする若い世代だけに、互いの主張がぶつかり合うこともしばしばだったが、しかし咲子の存在が二人の意思を共通のものにした。
過去二人で語り合った熱い思いが脳漿で渦巻く。咲子の裏切りを目の当たりにした今、北嶋にはそれも遠い昔のように思えるのだった。
※※
その後、残務整理を途中で切り上げた北嶋は、寺岡とともに居酒屋の席に落ち着いた。週末のせいか店は混んでおり、奥の座敷を占拠した学生たちの嬌声が、店中に充満している。仕事帰りのサラリーマンの姿も多く、ジョッキを傾けながら日頃のストレスをぶちまけ合っているのだろうか、怒鳴り声にも似た大声がそこかしこから上がり、反響しあっていた。
北嶋と寺岡は運良く空いていたテーブル席に、足取り重く腰を下ろした。互いにビールと簡単なつまみを頼み、あとは押し黙ったままだ。二人ともまっすぐ家に帰る気にはなれず、なんとなく誘い合って、事務所に近いこの店に入ったのだった。
ジョッキのビールが運ばれて来て、二人は無言のままグラスをぶつけた。何に乾杯するのか分からぬまま、やけくそのようにグラスを呷る。すっきりとしたのど越しも、美味な苦味も、どことなく忌々しく感じられた。
「咲子の方、放っておいていいのか」
周囲の喧騒に消え入るような小さな声で、北嶋は言った。聞こえないかと思ったが、寺岡は顔を上げて虚ろな目を北嶋に向けた。
「中田谷がついてる。今日はあいつが最後まで面倒を見る予定だ」
「そうか……」
そこで再び沈黙が降りた。中田谷和美は三人いる咲子のマネージャのうちの一人だった。大学を去年卒業したばかりの新人だが、仕事を覚えるのは早かったように記憶している。咲子とも仲がよく、佐田や寺岡がついているよりも咲子は和美と一緒にいることを喜んだ。小娘同士、ウマが合うんだろう――と以前に寺岡がぼやいていたのをふと思い出した。
「咲子はもうだめだな……」
二杯目のジョッキが運ばれてきたとき、寺岡は吐き捨てるように言った。北嶋はそれには答えず、ふと考えていた。確かに、ここのところの周囲の騒動を見ていれば、清純派女優として頂点に上り詰めた咲子の人気も終わりだろうと思う。マスコミに媚を売り、純愛をアピールすることで咲子のキャラクターを壊さず、事態をより良い方向へ導く作戦は失敗した。単にマスコミの心象を悪くしただけでなく、アウトローな主張を口にした時点で、清純派の咲子は確かに終わったのだろうと思う。
だが……、女優としてはどうだろうか。咲子は来年二十歳になる。少女から大人の女へと脱皮する時は誰しも訪れるし、その「移行」に失敗して芸能界から見捨てられたアイドルは星の数ほどにも及ぶ。そういう意味でいえば、これはうまくすればこれまでの咲子のイメージを脱ぎ捨て、新たな咲子の魅力を発揮してゆく契機になるかもしれない。そう閃きに近い直感があった。
しかし長年マネージャーとして清純派女優、笠原咲子を売ることに精を尽くしてきた寺岡には、そう簡単に割り切れないものがあるのだろう。それはなんとなく理解できた。
「もう少し夢を見ていたかったよ」
自嘲気味に笑いながら寺岡が呟いた。
「咲子のこと、諦めちまうのか」
「しょうがねえだろ。汚れた清純派女優など落ちてゆくだけだ」
「汚れたじゃない。汚されただろ」
「どっちだって同じだよ。これまで積み上げてきたものを、全部自分でぶち壊しちまった。どうひっくり返ったって、咲子の価値を維持することは不可能だ。くそ、岬の映画になんて出させるんじゃなかった」
「そんなこと今さら悔やんだってしょうがないよ。それに映画の公開はこれからだ。スクリーンの咲子の演技を見れば、女優としての咲子がどれほどの実力を持っているか、誰もが認めることになる。それほどの出来だと俺は思ったがな」
プリントが仕上がって関係者だけを集めた試写会が先日あったばかりだった。北嶋もそのうちの一人として完成したばかりの映画を見たが、映画の出来も咲子の芝居もかなりレベルの高いものだという実感を持った。
「海外の映画際に出しても、きっと高い評価を得るだろう。女優としての咲子はまだ終わっちゃいない」
半分は自分に言い聞かせるつもりで、北嶋はそう励ました。ふんと寺岡は鼻を鳴らした。
「子持ちで未婚の女優か。そんなの咲子じゃねえよ。現にCMの契約を打ち切る話も出てきているし、決まっていた仕事のキャンセルも今日だけで四件だ。明日はもっと増える。清純派でない咲子など、誰も望んじゃいないんだ」
「そんなことないよ。今はまだそうかもしれないが、きっと咲子の評価が再び高くなる日が来る。俺はそう信じる」
ジョッキに残っていたビールを、北嶋は一気に飲み干した。なお納得のいった様子のない寺岡は、冴えない表情で重苦しいため息を吐き続けていた。
※※
それから二日間、表面的には何事もなく過ぎた。人気女優のトップスキャンダルも、新たな進展がなければいつまでも引っ張ることはできないのか、さすがのワイドショーも笠原咲子の名を連呼することはなくなった。マスコミは衝撃的な咲子の告白ののち、当然のことながら岬祥平のインタビューを望んだ。だが咲子とは違い、フリーな立場である岬からは取材のアポイントメントを取れた社はなく、それどころか行方さえも分からない始末だった。岬の声を聞こうと、連日マスコミ各社は咲子の行動に張り付いている。咲子には「岬さんは今どこに?」と質問を投げ、答えがなければひたすらに咲子の行く先へと後を追う。その追いかけっこは静まる気配を見せないが、表面的には何事も起きていないため、テレビやラジオで報道されることもない……という状況だった。
しかしこのような状態が咲子にとって良いはずがない。例の記者会見からのち、周囲に迷惑が及ぶことを避けるため、咲子には事務所の用意したホテルで寝泊りさせていた。仕事場とホテルとの往復には必ずマネージャーが送り迎えをすることにし、そのため咲子の自由は完全に奪われることになった。ホテルに帰っても、咲子が宿泊しているホテルはすでにマスコミに知られ、一晩中張り込まれているため、外出はできない。ストレスのためか日増しに咲子の表情から元気さが消え、不眠を訴えるようになった。そこで宿泊先のホテルを変えることにしたのだが、そのまま変えただけではすぐにまたマスコミに知られ、同じことの繰り返しにしかならない。
北嶋が社長に呼ばれたときには、そのような背景があった。
「私がですか」
言われたことがすぐには理解できず、北嶋は自分を指差したまましばらく呆然とした。
「そうだよ。マネージャーが動けばすぐにマスコミに気づかれるだろ。だから今日は君が咲子をホテルまで送ってやって欲しいんだ。すでに別のホテルを手配してあるから、そこまで目立たないように咲子を送ってくれ。今まで泊まっていたホテルは念のためにまだチェックアウトはしていない。マネージャーの佐田や寺岡たちには、ダミーの車でそっちへ向かわせるから」
むろん、断れる話でもないので、北嶋は言われたように咲子を迎えるため、都内の郊外にある収録スタジオに来ていた。目立たぬようにというお達しを守るため、事務所の車でなく自分のデミオを運転してきた。小型だがキビキビ走る。外国車が王道の芸能界にあっては返って目立つかとも思ったが、まさか天下の笠原咲子が国産車の、しかも小型車に乗って出て行くとは考えまい。今日もスタジオ周辺にはマスコミの姿があちらこちらに見られるが、彼らの裏をかいて咲子を誰にも気づかせることなく脱出することに、北嶋はゲームにも似た興奮を覚えていた。もちろん咲子の心情を考えれば不謹慎だという思いはあったが、内から滲む興奮はいかんともしがたい。
時計を見た。午後十時四〇分。咲子の控え室から佐田が出てきた。北嶋に目配せする。
「俺たちが囮になる。咲子をよろしく頼むぞ」
北嶋は硬い表情で大きく頷いた。
北嶋が咲子と直接会うのは、先日の記者会見以来だった。後部座席にうな垂れて座る咲子は、確かに少しやつれ、表情も疲れているように見える。ルームミラー越しにそんな咲子の姿を見、追跡してくる車やバイクがないことを確かめて、北嶋はほっと息を吐いた。
咲子は一言もしゃべらない。北嶋も声を掛けることを憚れて、ただひたすらに車を運転し続けた。
車を横浜方面へ走らせる。事務所が手配した新しいホテルは、横浜にあるインターグランドコンチネンタルホテルだった。都内よりも発見される危険度が低いだろうという読みだった。改めてミラー越しに背後を伺う。付いてくる車はない。と、それまで眠ったように瞼を閉じていた咲子が、こちらを見つめていることに気づいた。どきりと心拍が跳ね上がる。
「ど、どうした。寝てたんじゃなかったのか」
それまでじっとこちらを見ていた咲子の瞳が、一瞬揺れたように見えた。咲子は視線を逸らし、落ち着かぬ様子で爪先を噛む。北嶋は続けて言うべき言葉が見つからず、そのまま咲子からの返答を待った。前方の信号が赤に変わる。ゆっくりと車を停止させた。するとしばらくして「ごめんなさい……」という弱弱しい声が背後から聞こえてきた。
「え?」
意図が見えず、とっさに振り返る。咲子と目が合った。咲子はわずかに言いよどむ素振りを見せたが、意を決したように言った。
「ごめんなさい。北嶋さんにはちゃんと謝らなきゃって、ずっと思ってたの」
「謝るって、なにをだい」
「この間の記者会見のこと」
「ああ……」
信号が青になった。車を発進させる。ぽつりぽつりとフロントガラスに水滴が落ちてきた。雨が降ってきたらしい。ワイパーのスイッチを入れる。ワイパーが水滴を拭き払うたび、前方を流れる街のネオンが滲んだ。
「社長にも怒られたでしょ」
咲子の声が少しずつ沈んでいくのが分かった。
「いや、社長は誰も責めなかったよ。佐田さんたちも、お前のせいじゃないって励ましてくれた」
「そう……よかった」
深夜のためか、道路はすいていた。ちらりと再びルームミラーを見やる。つけてくる車はない。どうやら作戦通りマスコミを撒くことに成功したようだ。
「この車、北嶋さんの?」
「ああそうだよ。小さい車ですまないね」
「ううん……可愛くって私は好きだな。ごちゃごちゃして大きい車はあまり好きじゃないの」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいな」
室内がやや暑く感じる。北嶋はクーラーのスイッチを入れた。背後の咲子を伺う。虚脱したようにシートに身を預けていた。やはり疲れているのだろうか。
「岬監督はどんな車に乗ってるんだっけ」
咲子を元気付けたくて、北嶋はわざと明るい声を出した。しかし咲子の反応はそっけないものだった。
「アルファロメオ……」
一言、つまらなそうにそう言った。
「そうか、やっぱりいい車に乗ってるんだな」
負けじと北嶋は明るい声で言う。
「そうかな。ごちゃごちゃして大きいだけの車よ。この車の方がぜんぜんいいわ」
「そ、そうかな……。ま、お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいかな」
ふと岬監督と何かあったのかな――という疑問が涌いた。訊いてみたい欲求に駆られるが、口にした途端に咲子に嫌われる気がして必死に耐えた。
ふう……という深いため息が聞こえた。あまりの艶っぽさに背筋がぞくりと震えた。
「あの記者会見のときのシナリオ、北嶋さんが徹夜で書いてくれたんだって?」
「ああ、そうだけど……」
「あのシナリオ良かったな。私もあの通りに話したかった」
「よくそんなことが言えるなあ。最初っからそんな気なかったくせに」
咲子の呟きを北嶋は冗談だと受け取った。笑いながらこちらも冗談めかして返したつもりだった。ちらりとミラー越しに咲子を見る。北嶋の表情から笑顔が消える。咲子は思いつめた表情で、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめているようだった。
「なんで……あのシナリオ通りに話さなかったんだ」
「よく分からない。困らせたかったのかな」
「困らせるって誰を?」
答えはなかった。咲子から返ってきた返事はため息だけだった。それきり会話はなくなった。車は横浜市内に入っていた。
ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルは、みなとみらいの海に面した一角に、帆船の帆を模した独特の姿を優雅に佇ませている。雨に濡れた寂しさの漂う街並みの中で、ひときわ勇気付けられる存在に見えた。
北嶋はまっすぐに車を地下の駐車場へ入れた。深夜にもかかわらずホテルの正面玄関前は明るすぎたからだ。目立ちたくないという気持ちが、正面玄関に車を横付けさせることを躊躇させた。
エレベータで二階に上がる。咲子をロビーの隅に座らせて、北嶋は素早くフロントへ近づいた。深夜で人気は少なかったが、きっちりとタキシードに身を固めたフロントマンが慇懃に腰を折る。北嶋は自らの名を告げた。部屋の予約を入れたのは社長の唯一の秘書である倉原という五十年配のおばさんなのだが、予約の名前を北嶋の本名にしたからである。咲子の名前はもちろんのこと事務所の名前も使えず、咄嗟に口から出たのが北嶋の名前だったと申し訳なさそうに倉原さんは言った。それに対して北嶋は何と答えたか記憶にない。笑って了承したように思う。いずれにしろ迷惑だなどとは微塵も感じていなかった。咲子のためになるのなら――そういう気持ちが強かった。
フロントマンが予約の確認を行っている。ロビーに一人置いてきた咲子の方をちらりと見やる。携帯電話で何やら話をしていた。ずきりと嫌な予感に襲われる。その咲子と目が合った。咲子の表情が硬直した。
「お待たせ致しました」
声を掛けられ、北嶋の意識が咲子から逸れた。「こちらに署名をお願いします」カウンターに紙とボールペンを提示され、北嶋はペンを握った。何を書いているのか分からない。頭の中で警鐘が鳴り、鼓動が早まった。震える手で何とか名前を記入する。我慢できなくなり、再び咲子の方へ視線を走らせる。そこにいるはずの咲子の姿が消えていた。
不安が現実になる。パニックで口の中がカラカラに乾いていた。無意識に走り出す。背後でフロントマンがなにやら叫んだようだが、耳には入らなかった。エスカレータが目に止まり、夢中で一階へ駆け下りた。正面玄関の重厚なガラス扉の向こうへ駆けてゆく咲子の姿がちらりと見えた。
「咲子!」
見境なく叫んでいた。驚く周囲の人間たちがこちらを見ているようだったが、北嶋にはそれを気にする余裕はなかった。正面玄関を出てさらに走る。ドアマンが怪訝な表情を向けていた。
咲子の姿が見えた。エントランスのロータリーに並んだタクシーの一台に向かっていた。意図が見えた。全力で走るが間に合いそうにない。
タクシーの後部ドアが開いた。咲子がそれに乗ろうとしている。
「咲子!」
再びたまらず叫んだ。と、咲子の動きが止まった。半身をタクシーの車内に入れ、ドアに凭れ掛かるようにして近づく北嶋を見た。
北嶋は夢中で後部ドアにすがりついた。息が苦しい。言葉が出ない。よほど情けない顔をしていたのだろうか、こちらを見つめる咲子の哀れむような目がやけに印象に残った。
「ごめんね、北嶋さん……」
咲子が済まなそうに言う。息が切れて声が出せない。
「私……行かなきゃ」
「ど、どこへ……」
咲子は言いよどんだ。言わなくても北嶋にはわかっていた。
「岬のところか……」
咲子は無言のままうつむいていた。逆上しそうになる。
「なぜ」
咲子は答えない。
「分かっているのか、自分の立場が。いま岬のところへなんか行ったら……」
「分かってる。分かってるけどしょうがないの!」
咲子の必死の形相が、北嶋の視界いっぱいに広がった。咲子の瞳が潤んでいる。自らを抑圧し耐えてきた感情が限界に達し、一気に爆発したかのようだった。抑えきれなくなった感情が咲子を呑み込む。肩をわなわなと震わし、涙が頬を濡らした。
北嶋はうろたえた。どうすればいいのか分からない。
「気持ちは分かるよ。だから落ち着いて……」
「分からないわよ。北嶋さんには分からないのよ」
「いや……今までずっと缶詰にされて、岬さんに会いたいという気持ちは俺にだって分かるよ。でも……」
「違うわ。そうじゃない。違うの」
「違うって何が……」
「北嶋さんはあの人のことが何も分かってない。だから結婚なんて言葉を簡単に書くことができちゃうのよ」
なんだ、何を言ってるんだ――。意味が分からず、北嶋はただ呆然と咲子を見つめた。
「私だって本音を言えば結婚したかった。記者会見で『結婚します』って堂々と言えたらどんなに幸せだろうと思った。でもできない。私には分かるの。あの人の苦しみがよく分かるの。だからそんなこと、絶対に口にできなかった」
どういうことだろう。今まで語られなかった岬祥平に関する咲子の言葉だ。それは分かる。でも咲子の主張したい意思が、北嶋には見えない。呆然と立ち尽くすしかなかった。
雨脚が強まった。濡れた髪から雫が滴り落ちる。
「本当にごめんなさい。間違っているのは私かもしれない。でもそれが分かってももうどうしようもないの」
「咲子……」
咲子は北嶋の雨に濡れた体にそっと寄り添った。心臓がどきりと跳ね上がる。訳も分からず北嶋は咲子の華奢な身体を抱きしめた。
「私、北嶋さんの親切に甘えただけ。北嶋さんの気持ちを利用して裏切った」
そうだ。その通りだ。でもそんなことはもうどうでもいい。このままどこにも行かないでくれ――。
「本当にごめんなさい」
咲子は渾身の力で北嶋の身体を押しのけた。何が起きたか理解できない北嶋はたたらを踏み、堪えきれず濡れたアスファルトに尻餅をついた。視界のすぐ前でタクシーのドアが閉まる。水しぶきを上げてタクシーが走り去っていった。
「咲子ぉ!」
北嶋の悲痛の叫びは、走り去るタクシーのテールランプに滲んで溶けていった。アスファルトを叩く雨の音だけが後に残った。
※※
それきり、咲子が姿を現すことはなかった。三日が経った。咲子の携帯電話にずっと掛け続けているが、電波が届かない場所にいるのか、それとも電源を切っているのか、一度も繋がることはなかった。
二日間は様子を見た。誰もが落ち着かず、じりじりと気持ちが粟立つ日々が続いた。三日目、社長が決断した。「捜索願いを出すしかない」皆が息を飲んだ。しかしそれしか方法がないことも同時に分かっていた。だから誰も何も言わず、ただ俯くしかなった。
『笠原咲子・行方不明!』
スポーツ誌の一面に、大きな見出しが踊った。事務所の周囲は再びマスコミで覆われ、騒然となっている。電話も鳴りっぱなしだった。北嶋はそんな状況を直視できず、社内の隅で塞ぎこんでいた。
すべては自分のせいだ。あの時、力ずくでも咲子を止めていたら、こんなことにはならなかった――。
事務所の人間は皆、北嶋に同情的だった。ここ最近の咲子の言動を見ていて、誰もが「何も起きなければいいが……」と不安に感じていた証だ。結局今回もババを引かされたのは北嶋であったというだけであって、もしかしたらそれは自分だったかもしれないという思いがあれば、当然のことながら北嶋を責めることなどできないというところだった。
寺岡はがっくりと肩を落とす北嶋に慰めの言葉を掛けて、迷惑を掛けた取引先への事情説明に出かけていった。他のマネージャも同様で、佐田の姿も朝から見えない。社長もまた頭を下げに回っている。事務所に残る他のスタッフは電話の応対などに忙しく、北嶋に声を掛ける人間は誰もいなかった。
それは北嶋には幸いだった。今は誰かと話をしたい気分ではない。いつまで塞ぎこんでいても事態が良くなるわけではないと分かっていても、何かをする気力は沸かなかった。繰り返し頭に浮かぶのは、雨に濡れたインターコンチネンタルホテルのエントランス前での一幕だ。タクシーに乗る咲子を、なぜ止められなかったのか。今でははっきりとした理由も見つからず、北嶋の思考は堂々巡りを繰り返していた。
上着の内ポケットに入れていた携帯電話が着信に震えた。うっとうしく思いながらも携帯電話を取り出す。表示された発信者番号は知らない番号だった。出たくないと思いつつも、指は通話ボタンを押していた。
――あ、もしもし……、紅プロダクションの北嶋さんですか。
聞き覚えのない男の潜めた声が、かろうじて聞き取れた。
「はいそうですが……」
警戒しながら答える。マスコミはまだ、咲子と最後にいたのが北嶋であることを知らない。知れば疑惑の目が北嶋に向くのは必至である。それだけに北嶋は恐怖を抱えていた。いずれ最後に咲子と接触したのが自分だと、どこからか漏れるだろう。そのとき自分はどうすればいいのか――。
――ぶしつけで恐縮ですが、これから私と会っていただけませんか。
電話の声はなお潜められている。意図が分からず混乱し、と同時に恐怖と不安で額に汗が浮かぶ。
「あの、失礼ですが、どちら様でしょうか」
――ああ、これは失礼しました。ですが敢えて今は名前を伏せさせていただきます。その方が北嶋さんにとっても良いと思いますので。
「どういうことでしょう」
――笠原咲子のこと……といえば察していただけますでしょうか。
ずきりと胃を万力で締め付けられたような痛みが襲う。呼吸が苦しくなり、咳き込んだ。
――悪いようにはいたしません。それはお約束します。ですが是非にお話しなければならないことがあります。北嶋さんお一人に出てきていただきたいのです。
咄嗟に周囲を見渡した。こちらに注意を向けている目はなかった。どうすべきか。社長の判断を仰ぐべきか。
――どなたにもお話なさらずに来てください。
こちらの意図を読み取ったかのように制された。喉がからからに渇いていた。
「どうしてですか」
かろうじて問う。掠れた声しか出なかった。
――今この時点で騒ぎを大きくしない方がよいと思いますので。
その相手の言葉に、北嶋は意思を固めた。どこの誰だか知らないが、確かに騒ぎを大きくしたくないという気持ちが大きいのは事実だった。それに咲子のことと聞かされて、じっとしていられる気分でもなかった。
「分かりました。どこへ行けばよろしいですか」
きっちり十五分後、北嶋は相手が指定したバス停に来ていた。場所と時間を指定しただけで、すぐに相手からの電話は切れた。ツーツーという電話から聞こえる電子音を聞きながら、一瞬後悔の念がよぎる。やはり相手の言いなりになったのは間違いだったのではないか。だがでは他にどうすれば良かったというのだ。相手は名も告げず、一方的に北嶋一人で来ることを求めた。相手には北嶋が一人で必ず来るだろうという読みがある。そしてそれは確信に近かったに違いない。なぜなら主導権は向こうが握っているのだ。
話の内容が何かは分からない。それだけで人を呼び出すのは確かに無理がある。しかし北嶋には負い目がある。知られたくない事実がある。相手はこちらがそれを知っていることを匂わせれば、あのような意味不明の電話でも、北島が言うとおりにするだろうと見極めていた。
この先、何かが起きる予感があった。恐怖と期待が入り混じる。もしかしたら咲子に会えるのか――。
バスを待つ乗客の振りをした。さりげなく時刻表に目をやる。次のバスが来るまでにはまだ間があった。バスに乗れという意味ではないのだろうか。何の意図があってこんな場所に呼び出したのか。ふとそう疑問に思ったとき、目の前に一台の車が止まった。何の変哲もない国産の白いセダン。運転席から身を乗り出すようにして男が北嶋を見た。
「乗ってください」
そう言って助手席のドアを開けた。恐怖が走る。咄嗟に車内を見た。乗っているのは運転している男だけのようだ。
「さあどうぞ」
手に汗が滲む。だがいまさら躊躇して何になる。北嶋は助手席に乗り込んだ。
男はスムーズに車を車線の流れに乗せた。無精ひげが伸びているせいか、最初は四十歳くらいかと思ったが、よく見ると肌はまだ若々しく、自分とたいして変わらないくらいの年齢に見える。表情は硬く、何を考えているのか読み取ることはできなかった。
「あの……どこへ向かっているのですか」
しばらくしてから耐え切れずに北嶋は訊いた。
「遠くです」男は前を向いたままだった。「このまま中央道で富士の方へ行きます。帰りは遅くなりますが大丈夫ですか」
「ええ……まあ」
「ご心配には及びません。帰りもちゃんと送り届けさせていただきますので」
とりあえず目的地が分かったことで想像が働くようにはなった。男の言葉を真に受ければ、自分を呼び出した用事とやらも今日中に片がつくくらいのことなのだろう。そして富士になにかがある。そこに咲子がいるというのだろうか。そしてこの男はいったい……。
およそ二時間の道中。何も知らぬまま、聞かされぬままというのはご免こうむりたい。覚悟を決めたせいか、恐怖心は薄れていた。
車は首都高に入った。渋滞はなく流れは順調だった。あとはしばらく高速を走り続けることになるのだろう。質問するには頃合だと思った。
「ところであなたのお名前は? まだ教えてもらっていませんが」
いきなり声をかけられ、男は僅かに驚いた表情を見せたが、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべた。
「どうも失礼いたしました。自分はこういう者です」
と、男は上着のポケットから名刺を取り出し、北嶋に差し出した。北嶋は無言でそれを受け取った。そしてぎょっとした。
『日東スポーツ新聞社 芸能部記者 根上祐太郎』
名刺を持つ手が震える。「日東スポーツ……」うわ言のように口が勝手に動いていた。
「お察しの通り、笠原咲子のスクープ記事を書いたのは私です。電話で名前を伏せさせていただいた理由もお分かりいただけたと思います。電話で私が名乗っていたら、あなたはきっと平常心ではいられなかったでしょう」
あまりのことに声が出ない。まさかあの記事を書いた本人に呼び出されるとは、想像すらしていなかった。
「驚きかとは思いますが、事情は簡単です。妊娠のことは笠原咲子本人から聞きました。記事にして欲しいと頼まれまして」
「うそだ……」
かろうじてそれだけが言えた。
「いいえ、嘘ではありません。証拠の録音テープもあります。ご希望ならあとでお聞かせいたしますよ」
衝撃が頭の中で渦巻く。目の前の風景が崩れていくような錯覚を感じた。
「本当に……咲子本人が本当にあなたにそう言ったのですか」
「ええ。詳しい話は目的地に着いてからいたします。長い話になりますからね。それにあなたもいろいろと整理しながら聞いた方がいいでしょう」
頭の近くで鐘を叩かれたような気分だった。グワングワンと根上の声が頭蓋骨の中で反響する。
「それにしてもなぜ私を……」
「呼び出した理由ですか。それもちゃんとあります。僕は記事が出た後もずっと咲子を追っていました。他社の記者と同じようにね。でも一つだけ違うのは、あの日、あなたが他の記者を撒いて咲子をインターコンチネンタルホテルへと送ったときも、私だけは付いていたということです。つまり一部始終を見ていたということです」
「一部始終を……」
「ええ。タクシーに乗る際の一幕もすべて。まあもちろん離れたところから見ていただけなので、交わされた会話までは聞こえませんでしたけれど」
再び衝撃が北嶋を襲う。あの場面を見られていた――。
「あなたは咲子が姿を消すとき、その場にいた人だ。だから私はあなたに話をしようと決めた。会話は聞こえなくても、二人の様子からあなたたちの間に何があったか、おおよそ見当はつきます。あなたならきっと咲子の立場になって物事が見えると思った。それが理由の一つです。そしてもう一つ……」
北嶋は虚ろな目を根上に向けた。その視線を感じたのか、根上の横顔が憂いの笑みに揺れた。
「知りたくないですか。あのあと咲子がどこへ向かったか。そして今どうしているか」
北嶋はフロントガラスに映る景色を見つめた。この行く先に咲子がいるのか。
車が加速する。シートに押し付けられるような重力を感じながら、北嶋は浮き沈みする感情を持て余し、混乱を続けていた。
※※
鬱蒼と茂る森の中へと進んでいった。だいぶ前に河口湖を横目に通り過ぎた。それからずっと登ってきたように思う。道路の周囲に広がる林は、針葉樹や白樺が目立つ。林の木々を通して、所々にコテージや別荘が見えた。九月に入ったこの時期、平地ではまだ残暑が続いているが、この辺りはもうだいぶ寒くなってきている。開けた窓から吹き込む風は、やや冷たく感じた。
もう富士山の麓のはずだ。どこまで走るのだろう――と北嶋がいぶかしんだとき、車が減速した。左へウインカーを出す。北嶋はその方向を見やった。道路とも呼べない雑草の生い茂った小道が、林の奥へと続いている。最近車の往来があったことを示すように、小道に生える雑草がタイヤの通った場所だけなぎ倒され、ちょっとした轍ができていた。
十分近く走っただろうか。生い茂る木々に視界を遮られていた眼前に、やや開けた土地が広がっていた。といってもせいぜい五十坪くらい。二、三台の車が止められるスペースの奥に、丸太で組まれたコテージがある。建てられてからだいぶ経つのだろうか、表面は汚れが目立ち、木の色も褪せている。ところどころで黒い染みが浮かんでおり、埃で汚れた窓ガラスなどと考えると、とても人が住んでいるようには見えなかった。
「ここは?」
「とにかく中へ入りましょう」
北嶋の問いには答えず、根上は「どうぞ」と促した。歩き始めてふと、どこからか腐臭に似た鼻につんとくる臭いが漂っていることに気づいた。何が臭うのだろうと周囲を見渡し、そして頭上を仰いで息を飲んだ。周囲を覆う唐松や白樺の木の枝に、無数の黒い鳥が止まっていた。カラスだった。
コテージの中はひんやりとしていた。やや黴臭く、そして空気が淀んでいるように感じられる。根上は何も言わず、土足のまま中へと進んでいく。北嶋もその後に続いた。
廊下を進む。左右にいくつかドアが並んでいた。根上はそのうちの一つを開け、北嶋に入るように促した。恐る恐る中を見る。二十畳ほどのリビングだった。テーブルや椅子、ソファなどの家具は外観のイメージとはそぐわず綺麗なものが配置されている。床も清潔に保たれているようで、ぱっと見た感じでは埃一つなく、ワックスもきちんとかけられていて、掃除が行き届いている印象があった。
「ようこそ」
不意に声を掛けられ、びくっと肩を震わせる。部屋の隅の壁に暖炉が備え付けられているが、今そこに二人の男女がこちらを振り向いていた。男は六十歳前後だろうか、髪に白いものが混じった初老の男である。椅子に腰掛けているのかと思ったが、よく見ると車椅子だった。その背後に二十代半ばと見える若い女が立っている。すらりとしていてスタイルがよく、背も高い。ウェーブが軽くかかった長い髪に、うっすらと施した化粧が清楚な雰囲気を匂わせている。ぱっちりとした大きな瞳でまっすぐ北嶋を見つめ、そしてゆったりと深くお辞儀をした。慌ててお辞儀をしながら、北嶋はこの女性とどこかで以前に会ったことがあるような気がしていた。
「よく来てくださった。さ、どうぞ」
そう言って車椅子の男はソファを手で示した。歓迎しているようだが、しかし表情はなかった。居心地の悪さを感じつつも、北嶋は勧められるままにソファに腰を下ろした。根上も座るのかと思ったが、根上は壁際に寄りかかり、室内を傍観するように佇んだ。女はリビングの奥へと続くキッチンへ消え、しばらくするとコーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。
女は品良く立ち居振る舞い、それぞれにコーヒーカップを渡す。ソファに腰掛けた北嶋にも、目の前にあるテーブルに丁寧にソーサーを置き、コーヒーカップを載せた。
「お砂糖とミルクはいかがいたしますか」
澄んだ声で訊く。
「い、いや、結構です」
女がキッチンへ去るとそれぞれが思い思いにコーヒーを啜る音が響いた。気詰まりを感じつつ、北嶋もコーヒーに口をつける。独特の芳しい香りと程よい苦味が口の中に広がった。
誰も言葉を発しなかった。北嶋も何をしゃべっていいか分からず、改めて周囲に目を配った。壁には印象派の絵が数枚、均等に掛けられている。絵について無知の北嶋には、誰のどんなタイトルの絵なのかは分からなかったが、いずれも木や森をモチーフにした絵だということは分かった。
ゆっくりと窓の方へと目を向ける。くすんでいて茶色がかったガラスの向こうはコテージの裏手にあたるらしい。鬱蒼と森がどこまでも続いているようだ。まだ昼過ぎの時刻だが、奥の方は暗くてよく見えない。森の手前にガレージがあった。一台の車が停められている。真っ赤な車。アルファロメオ――。
咄嗟に北嶋は立ち上がった。弾みでコーヒーが零れた。履いていたスラックスがコーヒー色に染まり、あまりの熱さに北嶋は悲鳴を上げ、持っていたコーヒーカップを指から滑り落としてしまった。木の床に落ちたコーヒーカップは派手な音とともに砕け散り、残っていたコーヒーが床に飛び散る。
「落ち着きなさい」
初老の男が穏やかな声でたしなめる。女が足元で割れたコーヒーカップを片付けていた。
北嶋はしかし、アルファロメオを睨み据えたまま、身動きせずに立ち竦んでいた。
「あの車は……?」
誰ともなく尋ねる。声が上ずるのを抑えられない。答える者はいなかった。
北嶋は全員を振り仰いだ。
「あれは岬祥平のアルファロメオでしょう。違いますか!」
北嶋は叫んだ。女は黙々と片付けに手を動かし、初老の男は無表情でコーヒーを啜っている。たまらずに北嶋は根上を見た。根上も北嶋を見つめていた。
「あの車は岬祥平の車だ。そうでしょう」
先ほどよりも落ち着いた声で北嶋は言った。ゆっくりと根上が頷く。
「確かにあれは岬祥平という男のものかもしれないですね」
「しれないとはどういうことですか。僕は咲子から聞いたんだ。岬祥平の乗っている車はアルファロメオだと。ここにいるんじゃないんですか。咲子も一緒に」
北嶋は仁王立ちになり全員を見回した。一歩も引かないつもりだった。しかし興奮する北嶋とは対照的に、三人はひどく冷めていた。その対応が余計に北嶋を苛立たせた。
居ても立ってもいられない気分だった。北嶋は駆け出した。部屋中を探して回るつもりだった。
「どこへ行くんです?」
根上の制止する声が背後から飛んだ。北嶋は足を止め、振り返る。「決まってるでしょう。探すんです」
「探すって何をですか」
「何をだと。ふざけてるのか!」
北嶋はいきり立った。もはや感情を抑えることなど不可能だった。咲子がいるかもしれないというのに、じっとなどしていられるはずがない。だが根上はあくまでも冷静だった。
「落ち着きましょう。まずは話を聞いてください。探すのはそれからでも遅くはないでしょう」
「落ち着いていられるか。悪いがこの建物の中を調べさせてもらう」
「そんなことしなくても、いずれ会わせてあげますよ。最初からそのつもりだったんですから。だからそんなに慌てないでください」
「どういう意味だ。何を言ってる!」
「もういい!」
低い怒声が割って入った。地の底から湧き上がってくるような声に、北嶋は一瞬怯んだ。声は車椅子の男のものだった。車椅子ごと北嶋の方へと向き直る。しかしその顔は異様なほどに無表情だった。まるで感情と呼べるものすべてを失ってしまったかのような、能面を思わせる無表情。その異常さに、北嶋は背筋が冷たくなった。
「ここで醜いやりとりをしてても始まらん。この方が見たいと言うなら見せてあげればいい」
口だけを動かし、初老の男はぼそぼそと言った。目や頬の筋肉をほとんど動かさず、唇だけが別の生き物のように動いていた。人間のものとは思えない顔。目を逸らしたいのだが逸らすことができない。意思の伝わらない瞳に見据えられ、北嶋は貝のように硬直していた。
「すべてを語ると決めたんだ。この方の好きなようにさせてあげればいい」
「しかし岬先生……」
「え……」
硬直したまま、北嶋は驚愕のうめき声を上げた。「岬……先生?」
根上が深いため息を吐き、天を仰ぐのが見えた。北嶋の混乱はますます深まり、頭の神経がショートしてしまったかのように目の前が真っ白に染まる。
「改めて自己紹介しておこう。岬祥平とは私のことだ」
「はあ?」
声が裏返った。北嶋は間抜けな反応しか示せなかった。いつの間にか、女が岬祥平と名乗った初老の男の背後に立っていた。根上も壁から離れ、男の傍らに立つ。
「驚くのも無理ないが……、岬祥平監督とはこの方のことなんですよ。あのアルファロメオも足のお悪い先生が、普段の移動のために使われている車です」
根上の落ち着いた声音が、北嶋の頭の中でやまびこのように反響する。言葉の意味を理解することを脳が拒絶しているかのようで、北嶋は頭を抱えた。
「じゃ、じゃあ、岬祥平として今までテレビなどに出てた男はいったい……」
「あれは私のせがれだ。義理のな」
能面の男が答える。
「せがれ? 息子さんということか」
「義理のと言ったろう。あれが子供の頃に私が引き取った。身寄りがなかったし、私も子供がいなかった」
「篠井祐。それがあの人の本名よ」
背後に立つ女が答えた。改めて女を見る。どこかであったような感触が消えずにある。それを訊きたい衝動に駆られたが、混乱が勝っていた。それどころではなかった。
「篠井くんは映画監督などではないのです。彼にはそんな才能はありませんから」
根上が次いで答える。北嶋は頭の芯に火がついたのを感じた。馬鹿にされているという思いが襲う。
「しかし……実際に彼は映画監督として、映画を撮っているじゃないか。半年前にもうちの笠原咲子を主演にして、映画の撮影を行ったばかりだし、その現場には僕もいた。この目でちゃんと見てるんだ」
「確かに現場では彼が映画監督として立ち居振舞った。でもただ振舞ったというだけで、実際の指揮は岬先生が行っていたんです」
「どういうことだ……」
説明されればされるほど、北嶋の混乱は大きくなってゆく。頭を抱えたまま身動きができなかった。
「やはり順を追って説明したほうがいいだろう。根上くん」
「はい」
根上は北嶋に近づくと、優しく腕を取った。
「ソファに座りましょう。かおりさん、済まないがコーヒーをもう一杯用意してくれないか」
「はい」
かおりと呼ばれた女が再びキッチンへと向かう。北嶋はその後姿を目で追った。かおり……香……香織……橘香織!
「ま、まさか……」
北嶋は絶句した。
「気づかれましたか。彼女は女優の橘香織です。岬監督の一作目の映画で主演を演じた」
「映画はカンヌでパルムドールを獲得した。そして彼女も確かブルーリボンの新人賞を獲ったはずだ。でもそれ以降、彼女を見ていない」
どこかで会ったことがあると感じたのはそのせいだったのか。
「さすがに芸能プロダクションの人ですね。よくご存知だ。彼女は一本だけという約束で岬監督の映画に出演した。彼女がヒロインでなければ絶対に撮らないと監督が仰られたものでね、周囲が彼女を必死に説得したんです」
橘香織はお盆にコーヒーを載せ、北嶋の前に立つとはにかんだ笑みを浮かべた。
「あの映画のあとはこうして岬先生の身の回りのお世話をさせていただいています。コーヒーをどうぞ」
北嶋は脱力したようにソファに腰を沈めた。テーブルにコーヒーを置き、橘香織は下がってゆく。その一挙一動を北嶋は呆然と目で追った。
「少しはご理解いただけましたか。この方が岬監督だということを」
根上は北嶋の向かいの椅子に腰を下ろした。岬祥平は少し離れたところで北嶋を見つめていた。あの能面のように感情のない顔で。
「説明してくれ……何がどうなってる」
根上は岬の方をちらりと見たようだった。岬がそれに対して無言で合図したようだったが、北嶋は岬の方を恐怖で見ることができなかった。あの感情のない目で見つめられることが怖かった。
「四年前に遡ります。きっかけはある一つの交通事故でした」
根上は窓の外へ遠い視線を送りながら話し始めた。北嶋は俯いてそれを聞いていた。
「片岡昌平監督という有名な映画監督がいたことをご存知ですか」
唐突に予期しない名前がでてきたことに、北嶋は一瞬呆気にとられたが、すぐに「もちろん知ってますよ……」と力なく答えた。
片岡昌平は戦後を代表する映画監督の一人だった。三十歳でデビュー後、『荒涼の鷲』など、硬派な社会ドラマを得意とした名作を世に残した人だ。だが一九九二年に『驟雨の森』を制作して以来、映画界からその名を聞くことがなくなった。そして数年前に他界したと聞いている。
「それは私のことだよ」
ごく自然の声が、車椅子に座った岬の方から聞こえた。「え!」驚愕の目で岬を見る。人形のような生気の感じられない瞳と向き合うことになり、北嶋はぶるりと背筋を震わせて目を逸らした。
「私の昔の名は片岡昌平といった」
「そんな馬鹿な……。片岡昌平は死んだはずだ。はっきりしたことは忘れたけれど、確かに死亡の記事を読んだ気がする」
「最初に片岡昌平死亡の記事を書いたのは私です」
根上が声を低めて言う。しばらく室内に静寂が訪れた。根上の声が続く。
「片岡昌平監督は四年前に交通事故に遭った。首都高速で後ろから走ってきたトラックに追突され、その勢いで外壁に激突したのです。車は前部から押しつぶされ、片岡監督は車内で挟まれた。駆けつけたレスキュー隊員らによって救出されましたが、意識不明の重体でした。一時は死の危険もありましたが、奇跡的に一命をとりとめたんです」
「まさに九死に一生とはこのことだ。だが私はどうせなら死んでしまった方が良かったと思った。だから死ぬことにした」
再び静けさに包まれる。疑問はあったが、質問する気力が北嶋にはなかった。再び根上が続ける。
「私は片岡監督とは旧知の仲です。私が大手の日東スポーツに入社できたのも片岡監督のおかげなのです。その監督から病室に呼ばれ、そして言われました。死んだことにして、自分の死亡記事を書いてくれないかと……。もちろん悩みましたけれども、片岡監督の頼みです。私には断ることなど考えもしなかった」
「私は生まれ変わりたかったのだ。これはいいチャンスだと思った。片岡昌平という人間が一人、この世から消えるだけのこと。そして私は死に、母方の姓である岬と名乗ることにし、名前の文字も変えた」
「なぜ生まれ変わりたいなどと考えたのですか……」
やっとのことで搾り出すように北嶋は訊いた。
「疲れたのだよ。映画監督として、確かに私は世間で認められるような作品を残したかもしれん。しかしもう限界だと思った。片岡昌平という名前だけがどんどん大きくなってゆく。映画会社は新しい映画を撮れと責めてくるが、片岡昌平としてはもう映画を撮ることは無理だと思った。巨匠などと煽てられたが、それに相応しい映画を撮る自信をなくしていたのだよ」
「監督は安息を得たいのだと思いました。そしてその望みを叶えてあげることが、自分にできる恩返しだと思ったのです。結果はご承知の通りです。私の書いた記事によって、片岡昌平監督はこの世から消えることができた。大々的に葬儀も執り行い、これで監督に安息を与えることができると思いました。しかし……」
「そんな嘘がいつまでも通用するはずがない」
北嶋は憤りを覚え、少し強い声で言った。あまりにも稚拙だし、自分勝手な行いだと思った。そんな個人の都合で、メディアが使われ、事実を捻じ曲げて報道してよいはずがない。
「その通りです……」
根上は沈鬱な表情で続けた。「監督の死に疑問を持った人がいた。ある映画会社の役員の方なのですが、もともと監督と親しい人でした。葬儀も行いましたし、墓も立て、監督の住んでいた家も処分いたしました。それでもその方は疑っていたのですね。葬儀の際に、最後に監督の顔を一目見たいと仰られたときに、私は丁重にお断りいたしました。事故のため、顔が酷い状態だから見ない方がよいと言って。当然そうするより仕方がなかったのです。なぜなら棺の中に監督の死体など入っているわけがありませんから。しかし今思えば、あの方はその時点から怪しんでいたのかもしれません」
「密かに調べさせていたのだな。やがて私がここに潜んでいることを知り、そして会いにきた。仕方がなく私はすべてを明かしたよ。納得すればおとなしく帰るだろうと思ったからだ。だがすべてを知った上で、奴はなんと言ったと思う。片岡として映画が撮れないのなら、今度は岬の名で撮ったらどうだと。改めて新人として映画を撮れば、今までの作品に縛られることなく自由に撮れるではないかと……」
岬はふうっと深く息を吐き、それからまた続けた。
「愚かなのは分かっている。しかしな、私はその誘いに惹かれてしまった。結局私には映画しかない。奴の言うとおり、岬として、新たな名前でなら、もう一度映画が撮れるような気がした」
「しかしなぜ身代りを据える必要があったんです?」
北嶋は吐き捨てるように訊いた。唾棄したい思いだ。どんな理屈をつけようと、すべてはこの男の身勝手な考えから発していることに変わりはない。
「それは私が提案いたしました」
根上が答えた。「監督は一度死んでいる身ですから、再び世間に姿を現すことはできません。名前を変えても、監督のことを知っている人間は世間に大勢いるわけです」
「それに命拾いしたとはいえ、私は事故の後遺症でこのざまだ。顔面の神経もずたずたになり、表情も表せない。こんな奇怪な人間を、世間は見たいと思うかね。世の人間は例外なく美を求める。醜いものからは目を背け、美しいものには誰しも寛容になる。その点、祐はうってつけだと思った。奴は私と違って美男子だし、それに役者になりたいと思っていたようだ。私の身代りを演じる役だと告げたら、最後には納得して引き受けた」
「しかし映画制作については素人です。インタビューを受けても、映画について多くを語れるはずがない。でもそれが良かったようですね。若手のカリスマ映画監督として、すっかり認知されてしまった。それでも気の休まる日はなかったですけどね」
一つだけ大きな疑問が浮かんだ。
「それにしても作家や音楽家ならともかく、映画監督というのはどうしたって人前に出る必要があるでしょう。撮影現場ではどうしてたのです。スタッフや出演者、その他の関係者が大勢いる撮影現場で、すべての人間に口封じをするわけにもいかないはずだ」
「そう、その通りだ。だから私は現場に足を運んだことは一度もない。すべて私の指示した通りに、祐が現場を仕切った。そういう意味では岬祥平の映画は篠井祐の映画であると言っても過言ではない。実際に、私は一本だけ撮ったら、あとは祐に任せるつもりだった。むろん祐にその気があればの話だが」
「それで彼はどうしたのです」
北嶋の質問に、岬は口をつぐんだ。根上を見るが、根上も顔を俯かせて黙り込んだ。
「彼には映画監督を続ける気はなかったわ。役者をやらせてくれと言ったのです。それも岬祥平としてではなく、篠井祐として」
今まで部屋の隅で佇み、会話に加わろうとしなかった橘香織が二人に代わって答えた。
「役者に? しかしすでに映画監督として、曲がりなりにも知名度はあったわけだから、それはそんなに難しいことではないですね」
「そうね。普通に考えればその通りなんだけど、でも周りは反対したの。特に事情を知る映画会社の人間とかね」
「なぜ」
「決まっているでしょう。岬祥平の映画の価値を守りたかったからよ。彼が篠井祐として役者で知名度をあげたとしたら、岬祥平はいったいどうなるの? それだけではないわ。これまで積み上げてきたすべての秘密が露呈してしまうかもしれない。低迷する映画界にあって、まさに至宝となりつつある岬祥平映画を汚すばかりか、大きなスキャンダルにもなりかねない。死んだはずの片岡昌平が実は岬祥平でしたなんて、まるでギャグだわ」
その通りだと思う。すべては悪ふざけから始まったのだ。それに付き合わされて自分の夢を否定された篠井は、要するにただの道化だったということだ。
しかし分からない。そのことと咲子のことがどう繋がるのだろう。咲子の妊娠はどうなるのだ。咲子のお腹の中にいる子は、いったい誰の子なのだ。
「咲子さんには本当に悪いことをしてしまった……」
北嶋の疑問が伝わったのだろうか、沈んだ声で岬が言った。
「どういうことですか」
「その責任はすべて私にあります。岬先生は関係ない。私から説明いたしますよ」
根上が明らかに緊張した面持ちで引き継ぐ。北嶋はいやな予感に襲われ、じっと座っているのが苦痛に思えてきた。自然と身体が前に乗り出していた。
「篠井祐の役者になりたいという意思は頑ななものでした。当初は我々も簡単に翻意させられると甘く見ていたのですが、想像以上に役者への思いが強かったようです。岬先生は……そんな祐の思いに寛容であられた。本人がやりたいと言うのですから、周りがそれを止める権利など最初からありはしないと主張された。でも映画会社の人間は違った。彼らにしてみれば、岬祥平の映画を売るために多くの投資をしてきたのですから、簡単に首を縦に振るわけにもいかない。そこで私に相談があったのです。なんとか祐に思いとどまらせることはできないだろうかと」
「なんとも無茶苦茶な話だ……」
北嶋は嘆息を禁じえなかった。
「まったくです。でもあの頃の私たちはみな必死だった。岬祥平が作る映画の価値と、それがもたらす何十億という金。それを守ることに必死だったのです。そんなときでした。咲子から妊娠の話を聞かされたのは」
ごくりと北嶋は唾を呑み込んだ。
「その妊娠ですが……。その相手とはいったい……」
ちらりと傍らで黙して話を聞く岬祥平こと片岡昌平を見る。その視線に気づき、根上は慌てて手を振った。
「相手は先生ではありません。篠井祐です。先生は現場に赴くことはありませんでしたから、笠原咲子さんと面識などあろうはずがないのです」
ほっと胸を撫で下ろす。なぜだか安堵の気持ちが大きかった。
「そうですよね……。しかしあなたの書いた記事では、相手は岬祥平だとありましたから。これまでの話を聞いていて、私もよく分からなくなってしまいまして……」
「それはそうですね。なんとも複雑な話ですから無理もありません。しかし我々も意外でした。これまで話してきたように、祐は単に岬祥平の代理として監督の立場を行っていたわけですから、これまでもそうでしたが、撮影の現場で特定の女優と深い関係になるような、そんな軽率ともいえる行動は取ったことがなかったのです。祐としても役者になりたいという目標がある以上、問題が明るみにでるのは望んでいないはずですし。そういう意味では安心していたのですが……。ですから咲子さんから妊娠の話を聞いたときは俄かには信じられなかったです」
「それは……我々も同様です。あなたの書いた記事を読んでも、すぐには信じられませんでした」
根上は深く頷き、そしてさらに表情を曇らせた。
「しかし妊娠は事実でした。しかも本人はそれを記事にして欲しいと言う……」
「そこが僕には符に落ちません。なぜ咲子は妊娠の事実を記事にして欲しいなどと言ったのでしょう」
「それはむろん、篠井祐と結婚したかったからでしょう。彼女はその時点ではまだ祐のことを岬祥平だと信じて疑っていなかったわけですし、祐にそんな複雑な事情があるなどと夢にも思っていなかった。しかし妊娠した事実を告げたとき、祐ははっきりと結婚の意志はないと言ったそうです。それどころか堕してほしいとまで言ったそうなんです。まあ二人の間に正確に何があったか、私も詳しくは知りません。ですがそういう経緯があったからこそ、彼女は最後の手段に打って出た」
「つまり妊娠の事実を公表することで、彼に……篠井祐さんに対して結婚を迫ったわけですか」
「そうです。私は初め、記事にすることには賛成しなかった。ですが……魔が差したとしか言いようがないのですが……これを記事にすることで祐に役者になることを諦めさせることができるのではないかという打算が浮かんだのです」
「どうしてですか。どうしてそれが役者を諦めさせることになるのですか」
「考えてもみてください。笠原咲子さんは、いまや女優としてトップアイドルといえる存在です。その女性を妊娠させた男が、この先どうして役者になどなれるというのです」
なるほど――。北嶋は得心した。これほどのスキャンダルだ。篠井祐は身動きできない状況に追い込まれた。下手に動けば、自分が岬祥平の身代わりとして世間を欺いていた事実も明るみにでてしまう可能性がある。ダブルのスキャンダルに見舞われた男が、役者という桧舞台に上がるチャンスなど、金輪際めぐってはこないだろう。
しかし、だとすれば分からない。なぜ記者会見のとき、咲子ははっきりと「結婚はしない」と言ったのか。北嶋はその疑問を口にしてみた。根上はしばし間を置いてから言った。
「きっとそのときには祐から事実を聞かされていたのでしょう。どこまでを聞かされていたのかは私も分かりませんが、祐の重荷にはなりたくないと思ったのかもしれない」
ふふふ……と含み笑いが部屋の隅から聞こえた。橘香織だった。三人の男はいっせいに香織を見た。香織はやや軽蔑した目を男たちに向けていた。
「何がおかしいんだ」
根上が咎める声を発した。
「男ってどうしてこう愚かなのかしら……」
「どういう意味だ」
「笠原咲子さんが、記者会見でああいう言動をした理由です。祐の重荷になりたくなかったからですって? お笑いだわ」
橘香織は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。
「あれは復讐よ。すべてに対してのね」
「復讐……?」
ガタン――。北嶋が香織の言葉に腰を浮かしかけた瞬間、頭上の天井で何か物が落ちるような音が響いた。全員の目が天井へ向く。
「なんでしょう」
北嶋は全員に向けて訊いた。だが誰も答える者はいなかった。しばらく待つ。と、再び、ガタガタ――という大きな音が降ってきた。
「上に誰かいる」
北嶋は咄嗟に周りを見た。しかし他の三人は動じた様子もなく、ただそのままで佇んでいる。北嶋は立ち上がった。
「この上に部屋があるのですか」
根上も、そして岬も答えない。橘香織がため息混じりに言った。
「もう隠すつもりもないんでしょ。愚かな嘘をつき続けた結末がいなかるものか、そろそろ北嶋さんに見せてあげればいいわ」
「なんですか。いったい何があるんですか」
香織が歩き出しながら、北嶋を見た。
「北嶋さん、すべてを見せてあげます。ついて来てください」
北嶋は二人を見た。岬の表情は相変わらずの無表情で何も感じることはできなかったが、根上の目には同意の色が浮かんでいるのが分かった。北嶋は唾を飲み込み、香織のあとに従った。
香織は廊下へ出ると、向かいにあるドアを開けて中へ入っていった。北嶋も続く。そこは六畳ほどの広さの空間で、見たところ何もない部屋だった。家具の類も何もない。
香織が奥の壁に近寄る。そこに不自然な形で、二十センチほどの棒が、壁から斜めに突き出していた。香織はその棒を掴むと、斜め下に向けて動かした。すると、天井に持ち上げられていた階段が、ゆっくりと降りてきた。電動で動く仕掛けなのか、ゆるゆると静かに降りてくる。その階段の先にはぽっかりと四角い穴が空いていた。
「この上には屋根裏部屋があるんです」
香織の説明に、北嶋はぽかんと口を空けたまま、ただ天井に開いている四角い穴を見つめていた。
やがて階段が床に着いて動きが止まった。
「どうぞ」
北嶋の手のひらは汗が滲んでいた。この上に何があるのか。恐怖を覚えながらも、この目で見なければいけないという思いが北嶋に一歩を踏み出させていた。
※
ぐるぐるととぐろを巻いた蛇が、じっと俺を見つめている。ちろりと舌をときおり出し、俺を飲み込もうとしているのか。
「やめろ。来るな!」
やがてその口が大きく裂け、ひゃひゃひゃ……という奇妙な笑い声を発する。俺は手元にある何かを手当たり次第に投げた。しかし蛇には当たらず、手前で霧散し消えてゆく。
「やめろお!」
俺は一目散に逃げようとする。が、脚がもつれて力が入らない。必死に脚を動かそうとするのだが、脚に鉛でもついているかのように重い。ふと見ると、真っ白な手が俺の両足首を掴んでいた。
「うわあああ!」
喉が裂けるかと思えるほどの絶叫が迸る。足を動かして振りほどこうとするが、手の力は凄まじく、もがけばもがくほど足首に食い込んでいく。
――祐。
耳の奥であいつの声が響く。俺を呼んでいる。俺を道ずれにするつもりか。
「来るな……、来ないでくれ……」
俺はうずくまり、両耳を手で押さえる。それでも俺の名を呼ぶ声は消えない。
そっと後ろを振り返る。俺の足首をがっしりと掴んだ蛇の顔が間近にあった。と、その顔が崩れた肉の塊となった咲子の顔になった。咲子は笑いながら俺にすがりつこうとしている。
――祐ちゃん
咲子の目がどろりと飛び出し、垂れ下がる。あいた眼窩から芋虫のような白い幼虫が、いっぱい湧き出してきた。
「ごめん、ごめん、ごめん……」
俺はひたすら謝る。泣きながら謝り、地べたに額をこすりつけた。
「ごめん、ごめん、俺が悪かったんだ。だから許してくれ、頼む、許してくれ……」
咲子の顔が元の美しい顔に戻っていた。人懐っこい笑みで俺を見つめている。
「咲子……」
――祐ちゃん。私と一緒に行こう。
「どこへ行くんだ」
――いいところよ。ここは何にも縛られずに自由でいられるの。祐ちゃん、自由になりたいっていつも言ってたでしょ。
「自由か……、それはいいな……」
俺の意識が薄れてゆく。いつもと同じ感覚だ。この感覚が訪れたときだけ、俺は悪夢から解き放たれて安静でいられる……。
※
「何をしたんだ」
目の前で見た光景を、北嶋はこの世のものとはすぐには認識できなかった。涎を撒き散らし、意味不明の声を張り上げる男。何かを投げつけているのか、手だけが空を切り続け、まるで子供がいやいやをするように暴れていた。北嶋が前に立っても、視点は虚空を彷徨い、そしてうずくまってしまった。ぶつぶつと何事かを呟いたかと思うと、だらりと涎を垂れ流したままへらへらと笑い出す。
呆気にとられ、立ち尽くした北嶋の脇をすり抜けて、橘香織が男に近づいて何かを注射したところだった。
「鎮静剤を打ったの。これでまたしばらくは眠っているわ」
男はだらりと力が抜け、香織の支えでベッドに横たわった。
「そいつは誰なんだ」
「よく見て。見覚えがあるでしょう」
北嶋は恐る恐るベッドに近づいた。また暴れだすのではないかと不安が襲う。男がすうすうと穏やかな寝息を立てていることを確認し、顔がよく見えるように覗き込んだ。
「こいつ……岬祥平か?」
何度か面識がある顔。咲子が主演した映画で、監督として現場を仕切っていた男。岬祥平の名で、何度かテレビで見た顔。
「そう。正確には篠井祐です」
呆然としながら、北嶋は篠井の顔を見下ろした。
「どうしたっていうんです。まるで気が触れてしまったようじゃないですか」
「おそらく幻覚を見ているんでしょう。典型的な麻薬の中毒症状です」
「麻薬?」
「ええ。私たちの誰も気づかなかったのですが……、祐はだいぶ以前から覚醒剤を常用していたようなんです。おそらく岬祥平として映画監督役を演じるプレッシャーと、そうし続けることを強要されたストレスから逃れたかったのでしょう」
「そんな……」
「そして祐を襲った最大のストレスが咲子さんの妊娠でした。祐が覚醒剤を使用していることを知っていたら、私たちもこうなる前に対処できたと悔やんでいます……」
「どういう意味ですか」
香織の視線が、部屋の隅へと流れた。北嶋もその視線を追う。雑然とした屋根裏部屋。おそらくは物置としても使っているのだろう。篠井祐が眠っているベッドが置かれた辺りは片付けられているが、部屋の奥にはさまざまなものが散らばっている。その中に一際大きい、長方形の箱があった。そう、まるで棺のような……。
「あ、あれは……」
胸が詰まるような恐怖心が襲う。橘香織は俯き、唇を噛んだ。
「祐がおかしくなっていることに気づいていたら、二人きりにさせることなどしませんでした。まさか……こんなことになるなんて」
夢遊病のような気分だった。ふらふらと足取りが覚束なくなっているのが自分でも分かる。それでも北嶋は足を止めなかった。ゆっくりと確実に、その長方形の箱へ近寄る。
箱の上部は蓋になっていた。蓋と箱の隙間から白い煙がうっすらと出ていることに気づいた。ステージなどでよく嗅ぐ煙の臭いがした。ドライアイスだとすぐに分かった。
蓋に手をかけた。ずっしりとした重さがある。鼓動が早くなっていた。口の中がからからに乾いている。北嶋は歯を食いしばり、ゆっくりと蓋を持ち上げていった。
橘香織の声が聞こえる。「衝動的に首を絞めてしまったのだと思います。慌てて森の中に埋めたのでしょう。しかし正気を失っていた祐は、完全に彼女を土の中に埋めることはできなかった。私たちが異変に気づいたのは、カラスの群れが一箇所の地面に群がっていたからです。近づいてみたら、カラスに啄ばまれ、変わり果てた咲子さんの遺体がありました」
がたりと音を立てて蓋が持ち上がる。箱の中身を正視した瞬間、北嶋は猛烈な吐き気に襲われ、その場に蹲った。胃の中身をぶちまける。涙が止まらなかった。
※※
タバコに火をつけた。タバコを吸うのはいつ以来だろう。立ち上る煙を見る。その煙の先に、煙突から上る煙がダブって見えた。あの煙は咲子だった。煙とともに天へ登り、そして咲子の魂は成仏されるのだろうか。
「大丈夫か」
寺岡誠二が心配そうな顔で近寄ってきた。あの日以来、家に閉じこもり、一人で悲しみに泣き咽び続けていたのだ。事情を知る寺岡が自分を心配するのも無理のないことだった。
「ああ大丈夫だ」
そう答え、再び煙突を見つめる。橘香織の言った言葉が脳裏に翻った。「あれは復讐よ。すべてに対しての……」
果たしてその意味するものは何なのだろう。北嶋には分からない。咲子の復讐とはいったい何なのか。その対象に自分も含まれていたのだろうか。
アイドル女優としてのがんじがらめの日々。恋をしたくてもできない。ようやく恋ができても、さまざまな障害が取り囲んでくる。何かに復讐したくなる気持ちも、分からないでもない。だが、それがいったいどうだというのだ。女優としての成功。それに勝る価値など、他にあるというのか。
いや違う――。
北嶋は呆然とした。芸能の世界に身を置く者の傲慢。咲子は分かっていたのだ。そして憎んだ。笠原咲子を生み出した自分自身を。
あれは確かに復讐だった。騒動を大きくすることで、笠原咲子という一人の女優を殺そうとした。すべてを終わりにするために。あれは自分の作り出した、笠原咲子という人格に対する復讐――。
「それにしても奴ら、いったいどんな罪に問われるんだろうな」
寺岡の言葉に、北嶋は我に返った。奴らとは岬祥平と名乗り、世間を欺き続けた連中のことだ。警察の捜査が入ったとは聞いたが、詳細についてはもはや興味はなかった。
葬儀場から華やかな一団が出てきた。多くのカメラやマイクに囲まれ、その中心を歩くのは峰山美夏。紅プロダクションが特に力を入れている新進の若手女優だ。ポスト笠原咲子の呼び声が高いが、北嶋はどうでもよかった。あまりにキャラクターが違いすぎる。咲子が絵に描いたような清純派なら、美夏は毒舌で茶の間を笑わせるバラエティ女優だ。咲子と一緒にしないでくれ――。
タバコを踏み消した。秋を思わせる涼しい風が吹き渡った。長かった残暑ももうすぐ終わりを告げる。
了