08 生卵
…阿鼻叫喚、大部屋の第二夜が明けた。
根津は、寝不足だった。
もっとも、根津だけがそうなのではなかった。
A、Bクラスの男子で、寝不足でないのは、ほんの数えるほどだったことだろう。
…オーウェンが言うには、「記念館そのものにはそうそう好奇心のあるタイプはいないのだが、道ッパタからなんかついてきた」のだそうだ。
根津は久鹿が幽霊嫌いなことを実はまったくしらなかったのだが、もししっていたら、そのオーウェンのおびえっぷりが、まさに久鹿のそれだと感じたに違いなかった。
オーウェンはクラスでも「嫌われもの寸前」くらいの一匹狼なので、誰もその生態について、詳らかでなかった。中学時代どうだったのか、は、中学編入の根津はよく知らない。
だが二日続きの心霊騒動で、この男が無類の恐がりで、パニック癖があって、そのくせ「ちょっと見える」らしいことが、みんな薄々分かった。…本当に、気の毒なことだった。
多分、プライドも高くて、自分のそういう部分を恥じていて、人に知られたくなくて、他人とうまく付き合えないのだろう。だから一匹狼なのだ。
…みんななんとなく、そういうオーウェンに同情を寄せつつあった。
「ん、お早う、根津。どうした、せっかくの二枚目顔にクマつくって。寝ないともたんぞ。」
爽やかな寝起き、洗いたての美麗なカンバセで月島が話しかけてきて、それだけでなく、あろうことか「クマたーん」などといって根津の目の下を人さし指の背でこすこすした。根津は思いっきりその手を振払った。
「…おだてても藤原みてぇに木にはのぼらねーぞ、おれぁ。…つーか、お前、あの騒ぎのなか、よくあれだけぐっすり眠ってたよな、月島。みんなお前を頼りにしてたのに…起こしてもすぐ寝ちまいやがって。」
「やー、すまんすまん。なんだかもう、おそろしく眠くて。」
月島はテヘッと頭を掻いた。
「…まあでも、俺も起きてたからって、何かできるわけじゃないぞ。」
「…お前って、タッチのことだけは助けるけど、他のやつはほったらかしだよな、いつも。」
「そんなことはない。」
「おおありだよ。」
「まあ、そう怒らずに、昨日なにがあったのか、経緯をおしえてくれんか。」
「断る。しりたきゃ今度からしっかり起きてることだな。」
「…お前が優しいのも立川にだけだな、根津。」
「いっとくが、俺は久鹿さんにも優しいからな。」
寝起きの不機嫌でそう言い捨てると、いきなり月島の目に剣が籠った。あっ、しまった、イッテはいけないことをついうっかり…と根津は思ったが、もう、なにがどうでもよかったので、そのまま放っておいた。…昨日の騒ぎときたら、そのくらいひどかったのだ。
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「…昨日は、そうだな、曽我部の初体験話でえらくもりあがってな。」
「ああ、そのへんはまだ起きてたな。…女の子がなかなか濡れなくてあの手この手で…とかいう話だったろ。」
「…言うなよ、飯食ってるときに。…しかも生卵。」
「ああ、すまん。」
須藤と月島は向かい合って、そろって生卵をかしかしと小鉢で混ぜていた。
それを、まるでおそろしいものでも見るかのように、藤原がみつめている。…藤原は昨日も生卵を残している。気持ち悪くて飲めないらしい。
根津は一応、なんでもたべられるので、藤原の動向を興味深く観察していた。
「…そのあと勢いがついて、いろんなやつが某部活の先輩が、どのクラスのなにちゃんをどこどこでなになに…と…つぎつぎに。」
「ああ、たしか…弓道部の杉浦とかいうヤツがプールの裏でツーテールにゆってる子供っぽい女子にフェ…」
隣にいた関係上、根津がぱふっと口を塞いでやった。
「…月島、おまえどこまできいてたのか、先に自己申告しろ。」
根津が手を離すと、須藤と月島は揃って生卵に醤油と化学調味料を交換しつつ入れ、同じタイミングでぐいっと一息で飲み干した。…藤原が怖いものでも見たような顔で、ちょっと逃げたそうにした。…面白いから明日生卵が出たら写真を撮ろう、と思った。
「…そうだな、そのプールの裏、までは覚えてると思う。」
「…サッカー部のロッカーは?」
「あっ、きいたな。」
「…月島は、学校祭のうちあげのあと、3-Jのクラスで回しがあったって噂のところまでは起きてたよ。けしからん、闇討ちに合わせてやる、とかいって怒ってたけど、そのあとすぐ寝た。…俺も、なんかイヤな話になってきたと思って、そのまま寝た。つーか、月島がねちゃうと身動きとれないし。あったかくてきもちーし。ゴロゴロニャーンだし。」
立川が代わりに答えた。
月島は昨日も立川をクマたんにして寝ていた。立川は昨日は別になにもなくて、枕許において寝たカステラのカケラを、今朝ひとりでもそもそ食べていた。おちついたものだった。勿論、事件も知らない。月島に抱かれて、気持ち良さそうに2人、すうすう眠っていた。あんまり起きないので、みんな、「母グマ子グマ、冬眠かこら」といって散々蹴っていた。
…クラスのみんな、凄いなあ、と根津は思う。立川が月島のクマたんになっていることに関して、クラスのみんなは丸一日で慣れたのだ。…立川本人も含めて。慣れてないやつがいるとすれば…
…チラッ、と見ると、藤原は不機嫌そうに、味付け海苔を御飯に載せて、箸で器用にくるんと小さなのり巻きをつくって食べていた。
「…そうか、そのあと、しばらくワタベの風俗体験記が延々続いて…、時刻的には1時くらいだったと思うが、ちょうど、振りそでの女を頂くとき、作法はどうするかという話をしてたときに、急に電気がパッパッ、と点滅し始めてな。最初はみんな電気系統のトラブルかと思って、ちょっと黙った程度で、たいして気にしていなかった。…裸の女は努力と運とでみられるが、着物の女は珍しいから着せたままでとかいう話になったときに、…空いてた立川の布団が、べろーっと自然にめくれてな。」
つまり、立川は月島のふとんに一緒に寝ていたので、布団が一組空いていたのだ。
「…オーウェンがギャ-ッて悲鳴あげて、布団差して…。そしたら今度はみんなが見ている前で、ぺろーっと布団が、元に戻った。」
月島は、幾分同情をこめつつも、おおかたは淡々とした調子で言った。
「…そうか。それは怖かっただろう、可哀相に。」
「怖かったというか…俺はむしろ、ただ信じられないといった感じで…。だれかがふざけてからかったんだろうと思った。…俺はな。」
須藤はそういって、向うのほうの端で、一人で黙々と飯を食べているオーウェンをちらっと見た。
「…だが、たえがたかったヤツも複数いたみたいでな。その段階でお前をなぐったり蹴ったりして起こそうとしたが、どうしたことか、もうまったく全然起きない。」
藤原は、昆布のつくだ煮を御飯にこんもり載せて、箸の先ッチョで味噌汁のグをひろって食べ、御飯をちまくま食べていた。なんだか拗ねてる様子で…それは多分、藤原がどんなに月島を起こそうとしても、月島が起きてくれなかったからなのだろう。
「…藤原、なんか聞こえたりしたか?」
月島が殊更に優しい声でたずねると、藤原は言った。
「俺は全然。別に怖くもなかったけど、…みんなが騒いで大変だったよ。」
藤原はそのとき何故か、自分の肩を自分で少しほぐすように揉んだ。
おもむろに立川が卵を手にとり、小鉢にてっぺんをぶつけてカーンと割った。
「…タッチ、そんなとこ割ってどおすんの?」
根津がたずねると、立川はケロッとして言った。
「こうする。」
みんなが注目する前で、上のほうの殻をぱりぱりと取り除くと、立川はそのまま卵の殻に口をつけて、かき混ぜもせずにずるずる飲み始めた。
「ぎゃあああああ!! 立川ーーー!! 蛇かおまえはーーー!!」
藤原が頭をかかえて突っ伏すと、言いにくそうに月島が言った。
「…いや、藤原、蛇は…一端丸のみして、あとでぺっといった感じで潰れた殻を吐き出す。」
「やめろってー!!」
「…かきまぜると、黄味の味がすんじゃん。俺、黄味の味きらいなんだよね。こうやって黄味をつぶさないで、ころんとのむと、おいしいよ?」
「やめてくれーーーーー!」
「…うまーく飲み下すと、ころんころんて、黄味の袋がそのまんま胃まで転がってくよ?」
藤原の悲鳴は声にならなくなった。立川はそれをニヤニヤ見守っている。
「…あー、その状態に醤油いれてもうまいよな。まあ、たいていは喉のとちゅうで潰れるけどな。」
根津が言うと、藤原はうらめしそうに、根津を見た。
須藤がコホン、と咳払いした。
「…おまえら、もう少し藤原に優しく。」
「こんだけ優しくされて何が不満だよ。」
立川が言ったその口に、月島が味付け海苔を突っ込んだ。
「…で、その布団事件のあと、どうなったんだ、須藤。」
「ああ、…まあ、結局、それは所詮そこまでだったんで、みんな居心地悪そうにしながらも、…そうだ、戸田が『みんな、シーンとしてるのも大騒ぎすんのもコワイから、もっと普通に話そうぜ』かなんか言って…みんな、そうだということになって、しばらくカラ元気でいろんな笑い話をしたんだ。そのうち、見回りの教師が来て…みんなで事情話したんだが、菅原のやつ、『あーおもしろいおもしろい。さっ、寝ろ、馬鹿どもが。寝ないと明日きついぞ。』かなんか言って、勝手に電気消しちまって。」
菅原の名前が出ると、月島はピクッと眉をうごかした。…菅原はときどき月島に欲情する困った教師で…気配を感じている月島は、菅原を毛嫌いしている。…根津たちからみると、若い菅原は、麗人・月島の破壊的な美貌の気の毒な被害者と言ってもいいくらいだった。…思い募ってしばらく授業を休んでいたのだ、可哀相に。
「…みんなガクブルで布団被ってたわけだな。」
「…そう。それでも、菅原の言うことも一理あるから、みんなそのまま寝ようと努力した。」
「…。」
月島は立川の残した海苔の袋を開けながら、黙って先を促した。
「…10分もたってなかったと思う。あの部屋、大分広いだろう。布団敷いても周囲に畳の部分が露出していたじゃないか。…その畳の部分を、ずるずる、ずるずる、と何か、湿った重いものが這い回る音がして…。」
続きを、肩をもみながら藤原が言った。
「そんなにもりあげんなよ、須藤。要するに、何かが膝でにじってるような音だわな。Aのだれかが、『誰だ、ちゃんと歩けっ!!気持ちわりいんだよ!』って叫んだ。そしたら、なんか、返事しやがったんだよ。俺はよく聞こえなかったんだけど…須藤は何てきこえたって?」
「…俺は『ない、ない』と聞こえた。別の誰かが『何がないんだ』と思わず聞いた。それにオーウェンが答えたことには…」
根津、須藤、藤原は一斉にオーウェンの口真似で言った。
「ばっかやろーだれか電気つけろ!! 口きいてる場合かよ!!」
向う端の席から、オーウェンがじろーっとこっちを睨んだ。
根津は「ごめんごめん」と軽く笑って坊主頭を掻いてみせた。オーウェンは、ふん、とあっちを向くと、生卵を残したまま、席をたち、行ってしまった。
「…探し物か。」
「…らしい。」
そのあと部屋には、朝まで電気がつけっぱなしにされ、多くのいたいけな男子はショックで眠りそこねたのだった。根津も例外ではない。あの恐ろしさを何に例えたらいいのか…。
「…電気がついてたから、明け方もっかいセンセイがきて…今度は小島。小島にみんなでガクブルで泣きついたら、…箝口令よ。まあ、話はきいてくれたし、おちつかせてはくれたけど…。」
「…どうしようもないだろうからな、小島先生としても。」
菅原に見せた拒絶反応とは対照的な鷹揚さを小島には発揮して、月島はのりをぱりぱりと食べた。…どうやら、月島は味付け海苔が好きらしい。
「…それって、タッチーのアレとはまた別口ってことなんだろ?」
須藤が聞くと、月島はうーん、と悩んだ。
「別に俺もはっきり見えるわけじゃないからな。」
「オーウェンにきいてみようよ、どう見えたのか。もしかしたら、ただなにか探してただけなのかもしれないし。」
「なにかって、なにを?」
「…俺、とか。」
立川が言うと、全員考え込んだ。
月島が言った。
「…吹雪に貸してるお守りは、ある種の感覚を遮断するものなんだ。まあ、霊がみえなくなるサングラスみたいなもの、とでも思ってもらえれば…ただし吹雪も見えるわけじゃないから、視覚に例えていってるだけなんだけれども…。…詳しくは俺もわからんが、もしかしたら、向こうからも、みえなくなっているのかもしれん。吹雪にしろ、吹雪を抱いてた俺にしろ、その事件のことは一切知らんのは、そのお守りのせいかもしれないからな。」
「…俺にもなんかお守り貸してヨ、月島。」
藤原が少し含みのある口調で言った。
月島はちょっと困ったような顔をして、藤原に言った。
「…普通、エロ話しているところには、出ないもんなんだがな。」
「…?…そうなの?」
「ああ。エロ話している場というのは、生命の息吹きに満ちているから。若い男の性欲に、幽霊ごときは勝てないのが普通だ。」
…ちょっと変わり者だな、と月島は言った。
「…かまうことはない。部屋に置いて行こう。…午後には、ハノイだ、俺達は。」
…月島は慣れているのか、全然気にしていない様子だった。