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12 トップオブザワールド

 その日は選択コースに別れての市内観光だった。

 いわゆる名所旧跡の類いや博物館をまわり、ハノイの文化や歴史を学んだ。

 藤原はすべて、うわのそらだった。

 藤原は、…月島の立場は、よくわかっているつもりだった。

 月島はいわゆる囲われ者の立場で、もし、ご主人の怒りをかえば、エリアを出て行くしかないのだ。

 それに月島は、ご主人を愛していて…とても愛していて、今は幸せだということも、うすうす分かっていた。

 だから…たとえ、ふわっと遠慮がちな腕に抱かれても、いつもこっそり見つめている、少し開いた襟元に抱き寄せられても、ただ平静を装って、寝たふりをしなきゃならないことくらいは…わかって、いた。勿論できると、思って…いた。

 立川がやってのけたように、それはただの月島の就寝儀礼の一種なのだと割り切って…。立川が猫のように甘えたなら、自分は犬のようにじっと「待て」で耐えるべきなのだと…わかって…できると…思って…

「…フジ、そっちいくと、車にひかれるぞ。」

 須藤にいわれて、我にかえった。

 …車道に落ち掛かっていた。

 方向転換はしたが、須藤に愛想をふるのは忘れた。

 …恋をしている、とは、うすうす、以前から思っていた。

 なにか有り難い人生相談かなにかで、恋というのは、ある種の条件が重なって、血中タンパク質濃度があがる状態なのだと聞いた。

 …たまたま、そうなってしまっただけなのだろう、と藤原は思った。

 なにしろ、月島はあんな姿の男だし…、性格は鷹揚でのほほんとしているし、気もあうし、…なにより、月島は藤原が好きなことを、藤原は知っていたので。…だから、女子相手ならよくありがちなことだが、体が見切り発車したのだろうと…多分女と勘違いして…ナントカいうタンパク質が勝手に増えたのだと…その程度に思っていた。

 時期が来れば終わるし、単なる…ちょっとした…間違い、なんだと。

 隣のクラスのインチキ占師の占いも、悪意があっただけに、多分あたっているのだろう、と思っていた。

 月島は藤原の想像もつかないような生活をしているのは確かだったし…藤原には、あの月島が、年上の男にいいようにされている姿は想像ができなかった。だから…もし全て知ってしまったら、あの占師のいう通り、俺の価値観は粉々に崩壊するんだろうな、と…。そして勿論、この恋は、うまくいくはずがないのだと…。

 S-23に純粋培養された、その賢い脳味噌で、そう考えていた。

 けれども、実際に、すぐ耳もとで月島の安心したような寝息をきいていたら。

 なにかが胸のなかにこぼれでて、…そして、あふれ出してしまった。

 それを何といったらいいのか、藤原にはわからない。

 ただ、友人たちは勿論、寝たい女にも、恋した女にも、守りたい女にも、それは…感じたことのない何かで…。

 藤原自身にはどうしようもない、手の届かない次元で、それは止めようもなく起ってしまった。

 恐ろしいことに、月島はそれに気がついて、目をさましたのだ。

 月島は、何も聞かなかった。

 …日が登ったら全部忘れろよ、約束しろ。

 そう言った。

 藤原は、約束、…した。

「フジ、そっちに行くと、花壇につっこむぞ。」

 …藤原はまた我に返った。…目の前に、綺麗な南国の花が咲き乱れていた。…その後はずっと、須藤が袖をつまんで、少しひっぱってくれた。

 …目が覚めたときには、月島はシャワーを浴びていて…藤原は一人でベッドに起き上がり…

 部屋いっぱいの明るい朝日の中で途方に暮れた。

 自分は破滅に向って進んでいる。自分だけじゃなく、月島を巻き込んで。

 …そう思った。

「…藤原、それ買うの?」

 藤原は根津の声にはっとした。藤原は、どこかの売店で、TOP of the WORLDと大きく書かれたTシャツを手にとってじっとながめていた。なぜかわからないが、根津が別人みたいに見えて、一瞬だれかと思った。

「あ、いや、みてただけ。」

「…だよね。…着替え、たりなくなったの?」

「いや、別に…足りてるし…洗濯も頼んで来たし。」

 ふと見ると、根津はお菓子を異常な量買い込んでいた。

「…そんなに食うの。」

 藤原が聞くと、根津はため息をついた。

「…くいものがないと、タッチの憑物、どうなるかわかんないから、念のため。でもどっちにしろ多分、奈良に戻るころにはなくなってるよ。」 

 …明日はハノイを発つ。

 今夜、もう一晩…あの部屋で…

 藤原は首を振った。

 …何もかも、奇妙に、濃密な現実味があって、かえって夢をみているようだった。空気の色や音までちがっている気がするし、何もかもが、美しくはっきりと見える。…空気がなにかを自分に囁いている気すらした。

 …気が狂ってるって、こういう感じか?と思った。

 …切なくて、苦しくて、我慢していた辛い時間が終わって、まったく嘘のように去ってしまっていた。

 状況などまるで無視しているかのように、藤原は、あたたかく、幸せで、満たされて…満ちあふれていて…あふれたものが、あたりを優しくつつんでいて…ふわふわして、それでいて強い弾力があって…。

 世界が輝いている。

 何でもできそうな気がした。今なら。

 …そんなもの、いちいち名前をつけなくても、何と言うのかくらい、たとえお勉強漬けのS-23育ちの藤原だって…

 …知ってた。  


+++


「…月島、フジがおかしいから、少し近くにいるとき、見てやってくれないか。」

「でたっ、すどうくんの保父さん発言!」

「…タッチもいつもお世話になってるでしょー?」

 外野に苦笑しながら、月島は須藤に言った。

「…おかしいか?べつに、俺の前では普通だぞ。…疲れてるのかちょっと大人しいけどな。」

「…車道にはおちそうになる、花壇にはつっこみそうになる、…自販機があるたびにココアばかり買ってるぞ。あのスカッと爽やか炭酸好きのフジが。」

「…昨日の夜中に冴とデートできたのがよほど嬉しかったんじゃないの?駄目だよ冴、飼い犬ほっといちゃ。かわいそうじゃん。」 

「…誰のせいで放っといてるんだ。猫はいいコにしてな。」根津が刺した。

 吹雪はげらげら笑った。

 須藤は、まだ移動まで少し間があるな、と言って、移動中に飲む飲み物を買いに行った。

 …そのあと、どうやら少し反省したらしい様子で、吹雪は慎ましやかに鼻歌で古い歌を歌い出した。…月島はその歌を聞いたことがある。しかも鼻歌で、だ。「俺と同じとの誉れも高いあの糞親父の美声」で、だった。…さんざんのろけたあとに出たので、よーーーーくおぼえていた。

「…吹雪、その歌、なんて歌だ?」

「『有頂天なわたし』って歌。…アナタが私を山のてっぺんにポンと置くの~下界をみてたら思ったわ~アナタのせいなのこの感じ♪とかいう歌詞だけど、わすれちゃった。」

 …聞かなきゃ良かったと思った。

 一応、見てみると、藤原は向うのほうで、別の男子の集団の中にいて、朗らかに笑っていた。そして、誰かの話にうけこたえするとき、なんとも言えない優しい顔になった。

「…なるほど、ますますモテそうで結構なことだ。」

「…水があふれたんだと思うよ。」

 根津は冷やかす様子でなく言った。

 …そんなこと、言われなくてもわかっている。

 その洪水に巻き込まれて目がさめたのだから。冴はそういう事態に、よく巻き込まれる。そういうタイプなのだ。

 …くそっ、吹雪が大丈夫だったから、藤原も大丈夫だと思ったのに…と思ったが、思えばそれは根拠のない推測でしかなかったし、いずれにせよ、今となってはなにもかも後の祭りだった。冴は自分の寝癖の悪さの責任をとるしかなかった。ああなったら、人間の力ではどうしようもないのだ。藤原をそのまま独り、水浸しにしておくことは、冴にはできなかった。

「…人生、一度や二度は洪水にならなくてどうする。」

 自分自身に開き直るよう叱咤するがごとく、冴がそう言うと、根津はわざとらしく肩を竦めた。

「…まあね。…だからフォローしてやればいいのにって言ってんの。」

「…フォローって…別になんでもないだろ。ちょっと幸せになってるだけだ。」

「ちょっと幸せになってるのはいいけど、トップオブザワールドなんて書いたTシャツじーっと見てて、なんかかわいそう。…お前、死んでも久鹿さんにばらすなよ。」

「…それは藤原にいっといてくれ。」

「藤原は言わないよ、多分。」

「なんで。」

「…お前が好きだから。…でもお前は、いざとなったら藤原のこと売りそう。」

「…売るわけなかろう。藤原を売ったら破滅するのは俺だぞ。」

「どうだか。」

 根津は冷たく言って、時計をみた。

 須藤がもどってきたので、バスに乗った。


+++


 次の休憩のとき、藤原は隣のクラスの女子に呼ばれた。行ってみると、大弓がいた。周囲のお取り巻きは、2人を残して別のところに移動した。藤原は「これは…」と思った。

 大弓が言った。

「藤原くん、前…占いのこと、いろいろありがとうね。…お礼いってなかったから。」 

「えっ、なんだっけ。」

「…夜道の街灯。」

「…ああ。」

 藤原は頭を掻いた。すっかりそんな御立派な説教のことは忘れていた。

「…まあ、最近は、通り魔、やめたんだろ。」

「うん。」

「…なによりだ。」

 大弓はニコッと笑った。…かわいいな、と思ったが、何しろ周りじゅうが美しく見えているので、さもありなん、程度にしか思わなかった。

「…藤原くん…立川くんのことなんだけど…友達だよね。」

 藤原はまったくこだわりなくにっこりした。

「ああ。」

 大弓はほっとした顔で言った。

「…あれ、大騒ぎになってるでしょ?…古都の交差点で拾ったの。子供がついて来ちゃって、それを、お母さんが探しているの。あの親子は、ずっと昔から、古都のあちこちを走っているの。」

 藤原はびっくりした。

「えっ…そうなのか。」

「そうなの。…多分、食べ物のないときがあって…そういうとき、どうやら、風葬された遺体の持ち物をとってきて、売ったのか交換か…そうやって、食い繋いでたらしいの。」

「…へえ…」

 藤原はただ驚くばかりだった。

「…お母さん少し目が悪くて…その作業は子供がやっていたみたいなの。」

「…」

「…ある日子供が、その仕事をしに行ったとき…ご同業の大人とかち合って、争いになって…子供が亡くなったらしいの。…お母さんはトリベノで子供を探したけれど、死体だらけだし…目もあまり見えなくて…」

「…」

「…その日から、お母さんは、ずっと子供を探してるの、送り出してしまったことを…後悔しながら…。」

 普段の藤原なら、きっとなにかおぞましい気持ちがしたことだろう。

 だが、今は、ただ、とても悲しい話だと思っただけだった。

「…藤原クン、…その人たちは、藤原クンの名字には、軽く反応するの。古い名字だからね、それに、昔は藤原さんといったら、そりゃもう…すごい名前だったし…。だから、もし、藤原クンのところに来たら、お菓子を持たせて、言ってあげて。…お母さんは大丈夫だし、子供も大丈夫だから、まず、各々自分が、明るいほうへ行きなさいって。お願い。」

「…わかった。」

 大弓はそれを聞くと、にっこりした。

「ありがとう、藤原クン。…あと、これは限り無くついでなんだけど、…わたし、藤原クンのこと、好きになったの。」

 藤原は、そりゃまた随分とついでな話だわなと思い、にっこりして言った。

「…おまえ、いつもひとに説教してるから、たまに説教されて新鮮だったのかもな。…有り難いし、申し訳ないんだけど、俺、一線こえちゃったわ。例の相手。」

 すると、大弓は悲しそうな顔になった。

「…藤原クン、気持ちが粉々に砕けても、魂は傷付かない。…だから、藤原クンらしく、勇気を持って進んでね。…わたし、応援するよ。私程度じゃ、多分、向うの守護者にはたちうちできないけど、でも、夜道の街灯ならできるよ…。」

 藤原は苦笑した。

「ありがとう。でも、いいよ。うまく行くわけないから。お前が以前、いったとおりだと思う。」

「…うまくいかないだけならいいけど、藤原クン。…でも、まあ、今はわたし、何もいわない。でも藤原クン、困ったら、…もしかしたら、わたしでも、見えたものを話すくらいはできるかも、だから…来て。」

「…わかった。」

 藤原がそういうと、大弓は辛そうに、にっこりした。

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