プロローグ
エリアに雨が降った。
とても珍しいことだ。
パネルと呼ばれる気象コントロールの電磁波層の下で、雨が降ることは滅多にない。
政府が雨を降らせるべきだと判断したときと…あとはパネルでは太刀打ちできない大雨のとき。
そのどちらか。
ドミの食堂の朝はレイニ-・ハイな高校生たちで賑やかだった。おかげ様で州立放送の朝のニュースは、根津の耳までほとんど届いてこなかった。聞こえたのは、断片的に、今回の雨が政府決定であることだけ…。こんなに急に、珍しいことだ。
人体は雨がふらない状態が続くと、気脈が乱れてくる場合があるそうで、…というか、気脈は普通にパネルの下でエリア人しているとあたりまえにぐいぐい狂うのだそうだが、雨はそれを修正する作用があるのだそうだ。だから政府は、ナントカ指数が上がると、意図的にときどき雨を降らすのだという。
…クソ面白いトンデモ本に書いてあったその奇説に、論拠があるのかどうか、根津は知らない。
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「…美しい人間て、濡れるといっそう美しいよな…。」
学校に行くと、そんな馬鹿を言って立川が月島にきゅーっと抱き着いていた。月島は30分歩いて通学しているので、びしょ濡れだった。エリア住人の多くは傘を持っていない。
「…立川、放せ。ジャージに着替えてくるから。…おお、根津じゃないか。お早う。」
「オハヨ。…先輩に車でおくってもらえば良かったのに。」
「いや、雨が嬉しくて。つい。」
月島は長い睫で瞬きして、ちょっと照れたように、笑った瞳を隠した。…立川が抱き着きたくなるわけがわからなくもない。だからクラス中が立川を放っておいている。…ただひとり、立川を宿敵とでも思っているらしい藤原を除いては。
「…月島が風邪をひく前にはなれろ、変態。」
藤原は後ろから近付いて、立川をべりっと月島から引き剥がした。
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放課後、根津がノートをケースにしまっていると、担任の小島がやってきた。
「根津、ちょっと。」
手招きされて廊下へついて行くと、小島が言った。
「親戚の熊道さんから電話が来たよ。…寮には電話したから、まっすぐ熊道さんの方に下校して、そのまま泊りなさいってさ。…修学旅行の準備のことで少し話がしたいんだって。」
「あ…はい、わかりましたー…。」
熊道夫妻は、エリアでの根津の保護者だ。母方の大伯父夫婦らしいが、詳しいことは根津自身もよくしらない。根津は中学の後半からS-23にいるが、実家は海の北だし、中学部には寮がない。中学時代をこの大伯父の家庭に預けられて育った根津だ。
老夫婦は根津をとても可愛がってくれた。今もときどき呼んで食事をしたり、小遣いをくれたりする。根津はこの老夫婦のおかげで、何不自由なくエリア暮しを謳歌しているのだった。
「あれ、根津ってこっちの路線だっけ?」
帰りに電車の駅のほうへ一緒に向かうのを不思議がって、立川は首をかしげた。
「そうだよ。」
「嘘でーっ。だってドミじゃんか。」
「中学んときの住いが、ショッピングセンターの近くにあんの。」
立川はちゃんと傘を持ち歩いていた。根津を傘に入れてくれて、「あいあいがさー!!」などと笑っていたが、ふと記憶をたどってまた逆に首をかしげた。
「…そうだよね??中学んときはそういえば、よく電車一緒だったよね??…とくに御縁もないから、話したりとかはしなかったけど。」
「うん。中学はドミがないでしょー。」
「親戚?」
「とおい親戚らしい。…老夫婦だよ。クマドーさんていうの。」
「ふーん。」
立川はあまったれで身勝手で評判の悪いやつだが、根津は別に嫌いではない。根津は才能のある人間が好きで、立川は絵がうまかった。それに、立川は月島のことが大好きで、月島に対してだけは、とても細やかで優しい一面を見せた。根津はそれを近くでみているのが好きだった。なんとなく、温かい気持ちになれるのだ。
立川は電車を先に下りた。根津がホームの立川に手を降ると、立川もニコニコ手をふった。
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根津は名前を薫というが、エリアで根津をカオルと呼ぶのは、今はこの熊道夫妻だけだ。
「カオル、来週は修学旅行だね。…どちらのほうへ行くんだ。」
「あ、北都へいってもしょうがないから、西にしました。州を西に移動して、ハノイへ渡るんです。」
「古都のほうからだね。わしらは行ったことがないよ。」
「ふみおじさんは、アメリカ方面専門ですもんね。」
「そうだねえ。アジアはどうもウマがあわない。」
「わざとチューブを使わないで、鉄道を使っていくんです。車窓からでも、フィールドを俺達に見せるのが大きな目的の一つなんだって。」
「おりるとあぶないから、気をつけるんだよ。」
「はい。」
婦人が封筒を差し出した。
「…カオル、これ、少ないけど、おこづかい。なにかあったら困るから、鞄の底に、お財布とは別にして入れて行きなさい。夜中にお腹すいたりすると可哀相だからね。…お父さん、お母さんには内緒ね。ウルサイから、お前のうちの両親。」
「…でも…」
「いいから、とっておきなさい。…買い物は行ったの?」
「いいえ、別に…なにもいらないし…。」
「着替え、新しくしましょうね。それに靴も鞄も古いでしょう、中学のときのは、もうカオルには子供っぽいわ。もっと大人っぽくてかっこいいやつ、お茶を飲み終わったら、一緒に買いにいきましょうね。」
「…でも…あの…」
「年寄りの楽しみのうちだよ。亜弥の好きにさせてやってくれないかな、カオル。」
おじさんに言われて、根津は困った。
…だいたいこういうことのあと、実家の親はもれなくキレる。
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「あれっ、根津じゃん。」
土曜の午近く、熊道の夫妻とショッピングセンターのレストラン街にいた根津は、声をかけられた。振り返ると、なにやら不満そうな月島と、根津の所属する文芸部のOBの久鹿が二人でビアレストランの前にいた。
二人は事情あって今年の春から共同生活を始めたらしいが、今となってはすっかりただの「同棲する幸せな恋人同士」だ。
学校の友達は、薄々、月島の「家主さん」が「ハニ-」なのを知っているが、そのことに最初に気付いたのは根津だ。
「こんにちは。お食事ですか?」
「ああ、買い物のついで。」
月島が答えると、久鹿が言った。
「この週末は、雨がふって、びっくりだねえ。」
久鹿のいうとおり、まだ雨は続いていた。根津はうなづいた。
「ほんと。北都のドームはよく降らすけど、エリアはとばしてしまいますからね。たまに降ると驚きます。」
「驚くよなあ。…ええと、御両親?」
「親戚で、エリアでの俺の身元引き受け人なんです。熊道夫妻…。
ふみおじさん、あやおばさん、こちら、学校の、文芸部のOBで久鹿さん。
その後ろが、友達の、月島君。」
久鹿はいかにも育ちのいいおぼっちゃん、といった様子を装い(実際はそんなカワイイ男ではない、中学時代に補導歴もあるのを根津は知っている)、にこにこ挨拶した。
月島も簡単に挨拶したが、熊道夫妻はポカンと口をあけたまま無反応だった。
…月島と初対面の人間にはよくある反応なのを、久鹿も根津も月島本人も知っていたので、そのまま軽く流した。
「…来週の水曜から修学旅行だろ。準備は済んだ?」
久鹿がたずねた。根津はうなづき、昨日だいたい、と言った。
「そっか。うちは今日飯のあとこれから。…たまにいい服買ってやろうかと思ったのに、冴が無駄遣いだっていうんだ。」
「向うでは外出時、制服着用が義務ですからね。あまり私服は…宿でくらいですよ。」
「うーん、わかってるけどさー、…根津も自分ちに冴預かってると想像してごらん。…なにかれとなく理由つけて、むらむらと、服、買い与えたくなるから。」
「あはははは、なりそう。」
月島はそこいらの安っぽいモデルなど裸足で逃げ出しそうな、美しい友人だった。女優だって並なら大半は逃げ出すだろう。初対面の人間はたいていポカンと口をあけて黙り込む。根津だって最初は驚いたものだ。久鹿は、初対面のとき、ぼけーっと見とれて意識朦朧となり、月島にじーっと見つめ返されているのに、しばらく気付かなかったそうだ。
「だろ?」
久鹿はそろみろ、とばかりに月島を見た。月島は苦笑している。
根津は言った。
「…月島、少し久鹿さんに道楽させてやれば?」
「…実家のお袋に怒られる。」
「お袋さんのために地味にしとくなんて、お袋さん泣くぜ。口でとやかく言ってても、こんな美しい息子だもん、エリアに出した以上、覚悟はしてるって。…俺と違うんだから。」
「…俺のお袋は俺を美しいとは思ってないぞ。」
「…美形音痴か?」
「…肌は過敏で、性格は別れた男の若年版だと思っている。よく撲られるぞ、顔を。」
「…目がお悪いのかもしれんなー。」
「…これ、カオル、失礼な。」
亜弥おばさんがやっと口を挟んだ。久鹿が笑った。
「根津ありがとな。きっとこれで冴は俺に服を買わせてくれるだろう。」
「…先輩大丈夫なんですか、一週間一人で。飯作れないんでしょ。」
「最悪、朝は抜いて、昼夜2食、学食ですますって手もある。…まあ、夜は別に、店に食いにいってもいいし。」
なーんてこたないさ、という顔で久鹿はこたえた。
余計なお世話だ、という顔で月島は根津に言った。
「大丈夫だ、陽さんだってパンをトーストして、コーヒーいれるくらいはできる。冷蔵庫にチーズやハムを切って一食分ずつ分けて入れておけば、ちゃんと朝だって食べるさ。」
「…って、ずっと自分に言い聞かせてンだ、冴は。過保護だろーっ。俺だってツナやコンビーフの缶あけるくらいできるって。林檎の皮剥きも、じつはできる。」
久鹿はくすくす笑った。
…仲良さそうだ。根津はのほほんとした気分になって、微笑んだ。
恋人同士って、なんか、いいよな、と最近根津は思う。
男女のカップルを見てそう思ったことは、あまりない。
根津はセクシャリティはストレートなので、自分でも不思議に思う。