グレンさんのとっておきバレンタインレシピ
「ねぇ、グレン?」
他の部屋よりもひんやりとした厨房に一人の女が入ってきた。茶色いショートヘア、左耳の辺りには特徴的な羽飾り。少し気の強そうな目尻は微笑むと少し幼くも見える。ジーンズ風のストレッチパンツとロングTシャツを着て、かなりラフな格好だ。
珍しい顔が入ってきた、と振り返った彼女は目を丸くしたが、直ぐに笑顔になった。
「どうしましたか、夕妃さん」
「あ、また“さん”とか言ってる」
「いやー、コレばっかりは直せそうもありません」
えへへ、と含羞んだのはメイド服の女性。栗色の髪に、同じ色の瞳。一目で北欧系だと分かる白い肌はきめ細やかで剥きたての卵のようだ。グレン=エドワード──それが彼女の名前である。
彼女に声を掛けたのは、ミュートロギアの仲間である本城夕妃。実の所、この二人は同い歳である。故に夕妃もこうして砕けた話し方をするのだが、誰にでも敬語を使うグレンにとってはそう簡単に合わせられない。
「どうしたんですか、夕妃さんが来るなんて珍しいですね。びっくりしちゃいましたよ」
「いやぁ、ほら。明日はバレンタインだし、職場にチョコばら撒こうと思うんだけどね?」
「そういう事なら、厨房お貸ししますよ!」
もう少しでお掃除も終わりますから、と止めていた手を動かし始めたグレン。
しかし、夕妃がその手に己の手を重ねた。
「そうじゃなくって、その……一緒に作ってくれない? 実はあんまり料理得意じゃなくって」
「そういう事でしたか! なら、一緒に作りましょう。私も今日作る予定だったんですよー」
あどけない笑顔を振り撒いたグレンは、善は急げと冷蔵庫を確認し始めた。
時刻は夜の23時。夕飯の片付けも全て終わっている。
「因みに、夕妃さんは何を?」
ホッと胸を撫で下ろしていた夕妃は「あー」と顎に手をやる。
「クッキー、とか」
「あら! それなら私も大助かりですよー」
「え?」
冷蔵庫から引っ張り出したのは大量の卵。不可解なグレンの一言に目をぱちくりさせる夕妃。
「私はシフォンケーキを焼くんですよー。その時、卵黄がどうしても余っちゃうんですけど、クッキーは卵黄が有れば出来ますから!」
「そ、そうなの?」
「はい! 早速準備を始めましょう!」
グレンはえいえいおー、と小さな拳を突き上げた。
「じゃあ、卵も常温に戻ったのでレッツクッキングです」
五分ほどで必要なモノはすっかり整った。そして更に十五分、夕妃は口頭でレシピのレクチャーを受けていた。
「はい、では夕妃さん! 一緒に卵を白身と黄身に分けましょうか」
「え、ええ」
グレンが笑顔の一方、顔色の優れない夕妃。卵を持つ手が震えている。
「どうかしましたか?」
「私ね、卵を割るとその瞬間から黄身と白身が混ざるのよ」
偶に殻も入ったり、と視線が明後日の方向に向いている。
「慣れればどうにかなりますよぅ、もしダメでも私がどうにかしますから、ね!」
「な、なら……やってみるわね」
夕妃は作業台にコンコンコンッと卵を打ち付け、ひび割れたところに細い親指を突き立てる。緊張の面持ちで指先に力を込めた。
「ぁあああああああああああああ」
絶叫を上げた夕妃。ボウルに落されたのは黄身が割れた白身との混合液。グレンはそれでも保母さんのような顔で慰めた。
「力を入れすぎですよ。もっと肩の力を抜いて、殻の弱点をフッとついてやるくらいでいいんですよぉ」
「うぅ」
それに、と指先でボウルの中身を啄く。すると、黄身の部分だけがひとりでに流動し、壁伝いに上へ上へと登っていく。そして、予め用意されていたもう一つのボウルの中へするりと滑り込んだ。
「あ、そう言えば……」
「はい、私、液体操作なのでこの位なら誤魔化せますよ!」
今度は少し悪戯っぽく笑いながら「さ、次も頑張りましょう!」と夕妃を急かした。
「ふぅ……どうにか、割れたわね」
「最後の方はお上手でしたよ、夕妃さん」
四パック分の卵が白身と黄身に分離された。
白身ばかりの大きなボウルが二つ、卵黄ばかりのが四つ並んでいる。
「じゃあ、先ずは夕妃さんのクッキーから」
そう言って、グレンは黄身のボウルのひとつに手を伸ばす。
「小麦使わなくて本当にクッキー出来るの?」
「まだ疑ってるんですねー? 卵黄一つに対して、お砂糖大さじ二杯にココアパウダーとサラダ油がそれぞれ大さじ一杯。これでクッキーができるんですよぅ」
既に軽量を済ませた粉類を前に眉間を寄せる夕妃を宥め、泡立て器を握らせた。
「さ、卵黄の所に砂糖をザザっと入れてゴリゴリ混ぜちゃってください!」
「ゴリゴリ……ね。なんだか奇妙な黄色い液体みたいだけど、これホントに白っぽくなる?」
「なりますよぉ。今回は力入れて頑張ってくださいね」
言われるがままに夕妃は材料を混ぜ始めた。その後ろで、グレンはオーブンの余熱に入っている。
「あ、白っぽくなってきた……!」
「うふふ、そうでしょう! それじゃあ、ココアパウダーもザザっと入れて軽く混ぜてあげてください。ある程度混ざったらサラダ油も一緒に! トロっとした生地になるはずです」
彼女の言う通りに事が進む。グレンは家事全般のプロなのだから当たり前といえば当たり前なのだが、夕妃はやけに感心した。
母親が亡くなってから、と言うもの。刑事という仕事柄家を空けることが多かった父は家庭のことを夕妃に一任していた。その時に軽い料理は作れるようになったが、弟の暁人の方が正直上手く作る。今の職場に就いてからは家計にも余裕が出来、買ってきた惣菜に頼る事も珍しいことではなくなった。
「よし、これをこの袋に入れるんだったわよね?」
「ですよー。金型は好きなの使ってくださいね!」
事前の監督の指示通り、出来上がったココア色の生地を星の金型を入れておいた絞り袋に入れた。そして、角を切り落とす。
「あら、上手ですね! 可愛いクッキーになりそうです」
クッキングシートの上に現れたそれは、タージ・マハルの屋根のような形。
かなりの量を作ったので時間はかかったが、漸く全てを絞り終えた。
「オーブンの加熱も終わってますから、ササッと焼き上げちゃいましょう! 170℃で10分間です!」
鍋つかみを装着した両手でトレーを持ち、大きなオーブンに入れる。あとは待つだけです、とグレンが夕妃に微笑みかけた。
「さて! 私はシフォンケーキを作りますっ」
「横で見てていいかしら」
「勿論ですよー。ちょっと、恥ずかしいですけどね」
へへへ、と含羞みながら作業台に戻る。
「夕妃さんはケーキとか作ったこと……」
「あるわよ、あるけど」
再び遠い目をする夕妃。
「弟に『風呂掃除のスポンジの方が柔らかい』って言われてから作ってないわ」
「それは酷いですねぇ」
微笑ましい姉弟喧嘩を垣間見た様な気がして、グレンはただ笑うしかなかった。
「よーし、もし良かったら一緒に作りましょう。沢山作るので」
「何が起きても知らないわよ?」
「大丈夫ですよぉ」
じゃあまずは、と卵黄の入ったボウルを手繰り寄せたグレン。さらにそこに砂糖とサラダ油と小麦粉を入れて手際よく混ぜた。夕妃もそれに倣う。
「卵黄三つに対してお砂糖は20g、サラダ油が30g、それから、薄力粉が75gです」
「卵の分量が多いのね」
シャカシャカとリズムよく混ぜる。夕妃も少しお喋りをする余裕が出来てきたらしい。
小麦粉のダマが無くなり、綺麗に混ざったところでグレンは手を止めた。
「ここからが肝ですよー、夕妃さん。たぶんですけど、以前作ったケーキはこれからの作業にミスがあったんだと思うんです」
白身のボウルを引き寄せ、更に、電動のホイッパーを取り出した。
「私もそれ買って作ったの。友達が『これなら失敗しない!』つて言うもんだから……」
「確かに、これの方が手早く楽にメレンゲを作れるのですが、大事なのは道具じゃなくて手順とスピードです」
電源コードに差し込んだホイッパーが正常に動くことを確かめる。
「卵白4つに対して、グラニュー糖は45g。これを泡立てながら三回くらいに分けて入れてくださいね」
「えっ、一度に入れちゃ……」
「だめだめ、バッテンですよ!」
指先でバッテンのジェスチャーをした瞬間、出入口付近で何かの音がした。頭をぶつけるか、派手に転ぶような。だが、覗いても誰も居なかった。女二人はハテ、と首を傾げたがすぐに作業へ戻った。
ウォオオオオオンとモーターの回る音。卵白がどんどん白く泡立ち、その泡が固くなり始める。
グレンの言った通りに三回に分けてグラニュー糖を投入しつつ、ツヤが出て角が立つまでしっかりと泡立てた。
「こんなに生クリームみたいになるのね……」
「きめ細かなメレンゲはシフォンケーキ、いや、全てのスポンジケーキの生命ですからね。それじゃ、コレをすこーしだけ初めに作った生地に混ぜて馴染ませたら、一思いにメレンゲに戻しちゃってください」
ただし! と人差し指を立て、夕妃の注意を引く。
「入れたらあまり混ぜ過ぎず、サクッと手早く混ぜるんですよ! これが言わば一番のポイントです!」
緊張する手元が狂わないように、慎重に、しかし、言われた通り迅速に手順を進める夕妃。白かったメレンゲに薄オレンジの色がつきやがて、ふわふわ、トロっとした生地になった。
「上出来ですよ!」
「よかった……これを、この型に?」
「そうですよー。六分目くらいまでで十分です。結構膨らみますから」
作業台にならんだシフォンケーキ型は全部で12個。それら全てに作った生地を流し込み、仕上げにトントン、と少し上から型ごと落として無駄な空気を抜いた。
背後にふたつある大型のオーブンのひとつが、ピーッと音を立てる。
「夕妃さんのクッキーが焼けたようですね。夕妃さんはそっちを出してあげてください。こっちももう余熱が終わるので」
「はぁい」
既に厨房には芳しい匂いが立ち込めていた。甘く、幸せな香り。
再び鍋つかみをはめ、オーブンの前に立つ。匂いが更に濃くなった。そっと開けると、たくさんのタージ・マハルの屋根が焼きあがっているようだった。
「いい匂いですねー」
「うん。今すぐ食べたいくらいだわ」
「お口の中火傷しますよぅ。少しコンロの上にでも置いて冷ましておきましょう」
シフォンケーキをオーブンに入れ終えたグレンが手をパンパン、と叩きながら立ち上がった。
「そっちは?」
「180℃に余熱したオーブンで10分間、その後、160℃で更に10分間です!」
へぇ、と感嘆を漏らす夕妃。シフォンケーキはこんなにも手早く作れるものだとは知らなかった。
焼いている間に二人で調理器具を洗い、更に余った時間でクッキーの味見をする。
「やだ、美味しい!」
「夕妃さんが作ったんですよー? これで職場の皆さんも喜んで下さること間違いなしですね!」
砂糖の甘さと、ココアの芳醇な香りに満たされる。と、その時。オーブンが彼女達を呼んだ。
窓から見えたのは、大きく膨らんで型いっぱいにまでせり上がった美しい焼き色。竹串を刺し、何もついてこないのを確認した。
「じゃ、これを出しますが、ここもポイント!」
ピッ、と立てた指。
「必ず逆さにして冷ましてくださいね、じゃないと、せっかくのシフォンケーキが萎んでしまいます」
「し、知らなかった……」
常識ですよぉ、と苦笑いをしつつ鍋つかみを装着したグレン。二人がかりで作業台に置いた金網の上に乗せていく。もちろん、上下を逆さにして。
こちらからも、上品な甘い香りが舞い上がる。
「これ、ミュートロギアの皆に?」
「はい! メルデスさんやレンさんは勿論、高校生のダイキさんとかにも」
「岸野も鼻血垂らして喜ぶでしょうねぇ……」
「何かおっしゃいました?」
「ううん、何も」
頭の中で思っていたことがつい口に出てしまった。夕妃は慌てて取り繕う。
「それと、ひとつは自分用なんです」
全て出し終えたグレンはポツリと呟いた。
「自分用?」
「私、誕生日が2月14日なんですー」
本日、三度目の含羞み。
「そうだったの? それならそうと早く言ってよ!」
「一応、私はメイドですから別にお祝いとかは要らないんです。でも、今日だけは自分へのご褒美に、と思って」
「ダメよダメダメ。ぱあっと御祝いしましょ! 明日、シャンパンでも買ってくるわ」
「あ、ありがとうございます。もう、今日ですけどね?」
何処までも謙虚で淑やかな彼女の肩を勢いよく掴む夕妃。
時計を見ると、成程。もう日付が変わっている。
「取り敢えずこれで寝ましょうか。明日の朝、また此処に来て袋詰めとかして下さい」
「そうね。夜遅くまで付き合わせちゃってゴメンね?」
「構いませんよー。私も楽しかったので」
手を洗い、エプロンを外したグレン。厨房を出ようとしたその時、夕妃の足がなにかに当たった。
「ん?」
「なんでしょう?」
袋に入った小さな箱がひとつ、出入口の床に転がっていた。いや、そうではない。恐らく誰かが置いたのだった。
赤い箱。そして、一緒に包装されているのはピンク色のピン留めだった。さらに、箱にはそれなりに整った字で【グレンさんへ】とある。
「あら、逆チョコかしら? それとも……」
傍らから覗き込む夕妃。拾い上げたグレンの顔は少し困って居るようだった。
「貰って、良いんでしょうか。誰からなのかも分かりませんし……」
「なぁに言ってるの。良いに決まってるじゃない?」
夕妃は差出人に心当たりがあったが、本人の為に言わないでおく事にした。
夜更けのミュートロギアに二人の女の足音がコツコツと響く。
2月14日、聖バレンタイン──そして、ミュートロギアのメイド、グレン=エドワードの誕生日。
翌朝、彼女の前髪にはピンク色の髪留めがあった。
数分後、鼻血が止まらないと医務室に駆け込んだ男が居たとか居なかったとか……。
レシピ提供:こだま@のい(同シリーズ『黙示録』スペシャルサポーター)