山海に遊ぶ
二ノ姫の病状も漸く回復に向かい、体調の良い時は庭で遊んだりしていた。祖父は二ノ姫を外に出す事を心配するが、元医博士は病弱だからと言って、部屋に籠りがちなのは良くないと諭す。適度な運動は大切であると。そのうち屋敷の外にも出るようになる。二ノ母の入れ知恵かわからぬが、最初は壺装束を着るとか面倒臭いことを言っていたが、毎日外に出ることを知ると、軽装になる。初めは元医博士が同行したが、問題がないことがわかると、二人で出掛けるようになった。
二人で外で遊び行くようになると、同年代の村落の子供とも会う機会が増える。村落の子供達にとっては、二人の姫は京から来たやんごとなき貴族と見ている様で、好奇心も手伝ってか積極的に話し掛けてくる。初めは物怖じしていた二ノ姫であったが、馴れると積極的に言葉を交わすようになる。この頃より友好さの片鱗を見せ始めていた。
鄙の海と言う名の通り、この集落は漁師の村である。昼ばかり海に出ていたので気づかなかったが、夜の海では漁が竹縄だ。魚はすぐに腐ってしまうため、京で生の魚は食せない。だが、鄙の海では漁師の手ずから採ったばかりの魚をその場で解体し、生のまま食せるのだ。魚を切り身にするところで耐え切れずに離れに戻ってしまっていた二人の姫であったが、魚の刺身を口に入れた途端、あまりの甘さに先程の解体ショーは頭から抜け落ちてしまった。今では祖父母と同じ様に、大漁の時は、お零れを漁師から頂戴するのが楽しみの一つとなった。無論、焼いても煮ても美味ではあった。漁火を見ながら浜辺で焼いた魚を食するのは一興であった。真っ暗で何も見えない海に火が灯っている風景は幻想的で絵物語の一節にでもあるようだ。
「風流ですな」
「ほんに」
漁火を見ながら、祖父母が言葉を交わす。一ノ姫も同じ思いを抱く。
「姉様、あの光の見える海で魚を釣っているのね」
「そうみたい」
「祭りの夜見たい」
京に居た時、一度だけ両親に連れられ、祭りに行った事があった。幻想的で囃子の音も雅で華やかだった。鄙の海では、ゆらゆらと船と共に揺れる漁の灯を見ながら波の音を聞き、魚に舌鼓を打つ。京では味わえない経験であった。
祖父母は近くの空き地に菜園を持っている。平地の少ない鄙の海では、自給自足をしないと野菜や雑穀を食せない。米は租税として納められてしまい、一般庶民の元には残らない。当然、祖父母にも手に入らない。
野菜の収穫期、祖父母と一緒に二人の姫は手伝いに行く。大根の収穫は楽しく、一ノ姫も二ノ姫も尻餅をつきながらどちらが大きい大根を採れるか競っていた。畑仕事をすると、手は傷だらけになる。殆ど手作業をした事がない二人の姫の手は土にまみれ、傷だらけだった。屋敷に戻ると、祖父は元医博士に二人の姫を託す。元医博士は二人の姫に井戸水でしっかりと手を洗わせ、指に薬草を塗り付ける。薬草は刺激が強いのか、手に染みた。二ノ姫はあまりの刺激に嫌がった。
「なりませぬ。しっかりと薬草を塗らねば病に臥せるどころか命に係わります」
畑の土には様々な病原菌が潜んでいる。感染すれば、当時の医療では完治は困難だ。元医博士は二人の姫に強く言い、しっかりと薬草を塗った後、麻の手袋を嵌めさせられ、夕餉までは寝ているか休んでいるしかなかった(手が使えないため、物語を読めなかった)。
「豊光は大袈裟なのよ」
二ノ姫は手を使えず、元医博士の名を口にし、八つ当たり気味に言う。
「でも、豊光の言った事に今まで間違った事はないわ」
一ノ姫に正論を言われ、二ノ姫は何も言えなくなった。
鄙の海では様々な果物が自生している。楊梅子、椎子、花橘子、蔔子、覆盆子、瓜と数えればきりがない。特に井戸水で冷やした瓜は別格で、二人の姫は先を争うように食べた。京でも栽培できると聞き、一ノ姫は密かに京の屋敷内に菜園を作り育てようと心に決める。
二ノ姫の身体も順調に回復し、ある日、祖父と共に近くの小高い丘に行くことになる。小高い丘と言っても、畑や水田として切り拓いていない場所は殆ど人の手が入っていないため、叢になっている。祖父は鉈で草を薙ぎ払いながら、進んでいく。二人の姫も小さな鎌を手に持ち、祖父が刈り損ねた草を払いながら祖父の後に続く。祖父は通い慣れているのか、足取りに迷いがない。祖父はもう齢は45を超えており、この当時は老齢の域に達していたが、足の衰え等微塵も感じられず、むしろ健脚であった。一方の二人の姫は草の株や木を避けながらのため、蛇行しながら歩く。小一時間もかけて目的の場所に辿り着く。そこは小高い丘になっており、眼下に小さな集落と果てしない海が広がり、二人の姫はしばし圧倒時な景色を見入っていた。また、ここは花橘子の自生地になっており、少し酸っぱいが、ひと汗掻いた後の体には程好かった。祖父は背負った籠に入るだけの花橘子を入れ、来た道を戻っていく。花橘子は夕餉の際の食後のデザートになった。京で作る果物がまた一つ増えた。
一ノ姫は浜辺に寝転がりながら、回想している。姫一人で海にいるのはあまりにも無防備だと言うことで、祖父が衛士をつけたが、その衛士も手持ち無沙汰で海から流れ着いたと思われる木の太い幹に座り大欠伸をしている。京から一歩も出たことがない、それも屋敷の部屋に籠り切りの生活から、遠く離れた鄙の海に行くことになった時はどうなることか一ノ姫も予想がつかなかった。それでも・・・来た当初は京との生活の違いや気候に戸惑いもしたし村人たちとの会話にも腰が引けていたけれど、今となっては懐かしい記憶だった。それだけこの生活に馴れた証拠であり、寧ろ京での生活より鄙の海の生活の方が一ノ姫は生を感じていた。それは二ノ姫も同じだろう。京では病弱で表情にもあまり変化がなかったニノ姫は、今では笑顔が絶えない。
(知っていたなら、もっと早く来ればよかった)
食べ物も美味しいし、外に出て好きな場所に行ける喜びは何にも代え難がった。元々知識欲が旺盛だった一ノ姫は、外にいるだけで様々な知識が身についていくこの環境は最高であった。物語や書物を読むのも知識欲を刺激するが、実地とは比べ物にならないと。ただ、最初は一ノ姫が外出することを好ましいと思っていたが、陽射しで肌が小麦色になったり、髪が赤茶けた色になると祖父は渋い表情になった。この当時の美の基準は長い黒髪と白い肌であったから、年若い姫がその基準から懸け離れていくのは孫を預かっている立場からすれば、必ずしも好ましい状況でもなかったのだろう。
でも、今の一ノ姫にしてみたら、浜辺に寝そべっている方がとても楽しかった。海風は心地好く、さざ波の音は子守唄になる。村の子供がたまにちょっかいを掛けてきたりするが、浜辺で瞑想している時は一人で居たかったので、適当にあしらっていた。海の上で海鳥が啼いている。餌場なのだろうか。春の砂浜は昼間は熱くて通れないが、陽射しが翳ればひんやりとして歩きやすい。風も冷える。
一ノ姫は肩を叩かれる。衛士がもう帰る時間だと言う。何時の間にか眠ってしまったらしい。
「くしゅん」
一ノ姫はくしゃみをする。風邪かしらと思う。
(豊光に小言を言われるわね)
口煩い元医博士の顔を思い浮かべ、一ノ姫は内心苦笑した。