政変の京
これはフィクションです。
時代考証・文語・口語・登場人物等、一部史実に基づいているかも知れませんが、作者の都合よく改変している部分が殆どですので、ご了承ください。
本来は中編小説ですが、連載小説の設定を覚えるため、種別を変更しています。
平安時代-
平安京の右京西部に高階家の屋敷がある。右京は桂川の湿地帯にあり、住むのに適していなかったのであろう。平安京の遷都から歳月を経るとすっかり寂れてしまう。下級貴族である高階家がこの地に屋敷を構えたのは現当主・持国の父であった。貴族の殆どは大内裏の東半分にあたる左京に屋敷を構えていた。大内裏に程近い左京の北部には有力貴族が住み、東、南に下がる程位の低い貴族が住んでいた。この頃既に右京は廃れ、大内裏と左京が中心になり、平安京は東に偏っていた。持国の父がこの右京西部に屋敷を構えたのは、近くが湿地帯で人の出入り、住む者が少なかったことが理由であった。大内裏への出仕を考えれば、左京の方が距離的にも、環境的にも良いはずであった。しかし、ここ数十年の間に政変が繰り返し起き、その度に有力貴族の屋敷や別邸が焼かれた。当時は木造建築であるから、政変の焼き討ちの巻き添えを食って、政変とは関係のない屋敷が焼失することも少なくなかった。有力貴族であれば屋敷を再建することも可能であったが、下級貴族である高階家にそんな余裕はない。元々小さな屋敷が左京の一角にあるに過ぎなかった持国の父は、なけなしの財を使って右京西部に移住した。それ以来、高階家はここに屋敷を構えている。
右京西部には高階家とは知己のあった右兵衛少志の屋敷があった。高階家は右兵衛少志の屋敷の隣りに居を構えていたため、今まで以上に右兵衛少志と交流を深めた。ところが、数年後に右兵衛少志が病で没すると、跡継ぎの男君がいなかった右兵衛少志の屋敷は荒れ始めた。元々、右兵衛少志とその妻、姫二人の家族構成であった。右兵衛少志が病死し、後を追うように妻が死ぬと、幼い二人の姫が残された。右兵衛少志が病死すると仕えていた小者や女房が一人また一人と辞めていき、最後は二人の姫の乳母であった式部何某だけになった。持国の父は憐れに思い、二人の姫は高階家に引き取られた。高階家には姫が居なかったので長子・持国と同様に実の娘同然に育てられた。
とは言え、高階家は下級貴族であり、元居た家族だけでもその日の食い扶持に困るような有様であったから、姫二人を抱えて赤貧の日々を過ごしていた。
それでも、持国の父が受領の部下として地方に赴任するようになると、高階家も幾らか持ち直し、位も僅かながら上がり、中央からの俸給と赴任先からの仕送りで何とかやっていた。しかし、二人の姫が裳着の儀式も済ませ、大人として扱われる様になっても、婿を迎える余裕などなかった。逆に高階家に恩義を持っていた二人の姫は、健気にも宮仕えをして高階家を支えたいと言い出す。持国の父は赴任先から文で「無用である」と諭す。元々、貧しいながらも姫として育てられた二人に宮仕えが出来るとは思っていなかった。
そんな時、元服した持国が父に進言した。
「どうせ、今のままでは婿を迎えることも儘なりませぬ。それなら一層の事、二人を私の妻に迎え、高階家の為に尽くしてもらってはいかがか?」
持国は赴任先の父に文を送った。持国の父は暫時考えた後、それしかあるまいと思った。無理に他家に嫁に出しても、下級貴族の娘では碌な扱いを受けないことが分かっていたからだ。そうなるくらいなら、筒井筒の仲である息子と結婚させた方が余程益しかと。
持国と二人の姫は父の許しをもらい喜ぶ。実は、3人は既に出来ていたのだ。
持国の父が赴任先から戻るのを待ち、露顕が行われ、内々でささやかな祝宴が執り行われた。これを機に、持国の父は家督を息子に譲り、妻と共に、畿内にある鄙の海に隠居する。隠居所は、二人の姫の実家の別邸であったものを貰い受けることになる。二人の姫も喜んで唯諾した。
高階家を継いだ持国は散位ながら少初位上に叙せられる。持国は二人の妻を分け隔てなく慈しみ、数年後二人の妻は同時に懐妊する。高階家の屋敷は湿地帯にあり、出産には向かないことから、大事を取り、二人の妻を父の隠居所に送る。何かあれば、馬を駆って1日の距離だ。
数か月後、一ノ妻が姫を出産し、3ケ月後に二ノ妻がやはり姫を出産した。父となった持国は京と鄙の海を往復し、大童であった。
先の姫を一ノ姫、次の姫を二ノ姫とした。
二人の妻の産後の肥立ちと二人の姫の生育を慮り、数か月後に漸く4人を高階家に迎え入れた。
久しく中央で権勢を誇っていた摂関家。流行り病や内紛により衰退してしまう。それによって台頭して来たのが、摂関家の傍流や摂関家との抗争に敗れ没落していた貴族達であった。初めは摂関家の傍流であった。摂関家の内紛に乗じて直系の一族を追い出し、新たな帝を立て、中央を掌握した。これに反発したのが摂関家によって没落していた貴族達であった。連衡し、元の系統であった皇子を擁立し、傍流摂関家に対抗したのだ。睨み合いは数年続き、連衡状態にあった貴族側から傍流摂関家に寝返りがあり、連衡貴族側は京を捨て、奈良に退く。そのまま、傍流摂関家の繁栄が続くと思えたが、傍流摂関家の当主であった者が落馬の怪我が元で没すると、忽ちの内にその均衡は崩れ去る。後ろ盾を失った現帝は、連衡貴族の報復を懼れ、近江に退いたのだ。連衡貴族側は何の障害もなく京に返り咲く。
繰り返し起こった政変により、京の治安は悪化の一途を辿っていた。この混乱に乗じ、京では賊が暗躍し、多くの貴族が被害を被った。高階家とて例外ではなかった。