蜘蛛の糸2
芥川龍之介先生が書かれた『蜘蛛の糸』の続きを、私なりに書いてみたものです。
芥川龍之介先生の書かれた蜘蛛の糸では、カンダタは最後に地獄に戻ってしまいます。この話は、その続きを私なりに想像した物です。
カンダタは目を覚ましました。
血のにおいがして、生臭い液体が口から鼻から流れ込んできました。ゴホゴホ咳き込みながら辺りを見回すと、あたりは薄暗く、生ぬるい液体の中になんとか浮かび上がろうと、もがいている自分の姿がありました。その目の前を、生前に自分が殺めたはずの人々が、悲しそうな顔をしたり、断末魔の時の形相を浮かべたり、恨みと憎しみで血走った顔をして、悲鳴や、命乞いや、罵倒の声を上げながら、流れていきました。
遠くでは、自分と同じような亡者が、うめき声を上げたり、血の海に噎せ返ってゴホゴホいう音が聞こえてきました。
「ああ、俺はまたここに落ちてしまったのか。」
ほんの数刻前、カンダタは細い細い蜘蛛の糸にしがみつき地獄の底から抜けようと必死に糸を手繰り寄せていました。
しかし、かなり上ったところで、下から数多の罪人どもが群れをなして登って来たせいで、その細い糸はぷっつりと切れ、カンダタ自身も元いた地獄に真っ逆さまに落ちてしまったのです。
「どのくらい、気を失っていたのだろう。」
口の中に生暖かい血が流れ込むのを必死で抑えながら、誰とも無しにつぶやきました。
「あの罪人ども、せっかく地獄から抜け出る機会だったのに、俺の綱を切っちまいやがって、恨んでも恨みきれないぜ。」
その罪人たちも、今は同じように、血の池で浮かび上がろうともがき苦しみ、針の山の責め苦に苦しみの声を上げていました。
「ざまあないぜ。」
カンダタは、わずかに溜飲が下がる思いがしました。
しばらくすると、薄暗い地獄のすすけた闇の向こうにぽつんと明るい物が出てきました。それは、実際はあまり明るくなく色も暗いのでしょうが、このような地獄の底では一際明るく輝くように見えるのでした。
「またアレが出やがったのか。」
カンダタはつぶやきました。
それは、何時とも何処とも知れず出てくるもので、血の池地獄に小島のように浮かびあがる砂山のようなものでした。
「初めて見たときには、無我夢中で駆け寄ったのだが…。」
その砂浜にはいつも一人先客がいました。そのくたびれた格好から、同じ地獄の亡者であることは見て取れるのですが、一着で島にあがれるのはとても運の良いやつだと皆が思うのでした。何せ、血の池地獄では寝ても覚めてもその血の中で掴まるところもなく浮いたり沈んだりしていつもおぼれ死ぬ苦しみを間断なく感じなければならず、唯一掴まるところがあるとしても剣の山か針の山しか無いありさまでした。なまじ、死ぬことも出来ないことが、さらにその苦しみに拍車を掛けているのでした。そのような中で、砂で出来た小島は、誰もが喉から手が出るように欲しいと思うのは当然でした。
カンダタも初めてそれを目にしたときに、天の助けとばかり駆け寄りました。小島に泳ぎ着いてみると、一人先客がおり、やせ細った体に、疲れ切った顔、ぼろぼろの着物で、地獄の亡者であることは間違いないのですが、そのような者が何処ともなしに虚空を眺めておりました。カンダタは生前体格が良く、力がありましたし、地獄に落ちてからもそれは変わらず、この地においても亡者同士の小競り合いでは負けることはありませんでした。すぐに、小島に這い上がると、先客を殴りつけ俺の場所だと言わんばかりにその者を掴んで血の池に放り込んでしまいました。そして、その小島にどっかりと座ると、これで過ごし易くなったぞとニヤリと笑ったものでした。
しかし、喜びもつかの間、すぐに、その小島が炎に包まれて端からぼろぼろに崩れだし、あっという間にすっかり小さくなってカンダタは最後の砂とともに血の池に沈んでしまいました。当の先客は何処に行ってしまい、そこには、ただ溺れてもがき苦しむカンダタだけが残されました。悪いことに、後で気付くとその炎で焼かれた所は深い火傷になっており、この地獄で負ったどんな傷よりも深く治りも悪いようでした。
不思議なことに、その小島に一番にたどり着いたものは、追い出されても、しばしば別の小島で見かけることが増え、最後にはこの地獄から姿を見かけなくなるのでした。
「どうせ、地獄だ。意地の悪い罰に決まっている。安息の地を得たと思っても炎に焼かれるのだから、消えるときは、もっとひどい地獄に連れて行かれるのだろうよ。」
カンダタはそう思いました。
それ以来、時たま小島が出てきても駆け寄ることはなくなりました。今回も泳げばすぐのところに出てきましたが、カンダタはただ眺めて近寄りませんでした。しばらく見ていると、そこには既に人が一人座っていて、目を凝らすと、地獄の新入りでしょうか、まだその恐ろしさを知らない別の亡者が必死になってその島に泳いで行く様子が見えました。
「馬鹿なやつよ。」
カンダタは必死になっている亡者を一瞥して、馬鹿にしたように笑いました。
「それにしても腹が減ったな。」
そう言って、懐からネズミの死骸や様々な虫の腐れて崩れたの食べ始めました。食べなくても死にはしませんが、食べていないと飢えて死ぬほどの苦しみが間断なく続くので仕方なしに食べるのでした。さらに、地獄では食べ物はそのような物しかなく、それすら無いときは、池の生臭い血を飲み、浮いている人骨を食べるのが常でした。人を食い物にした報いとはいえ、自分が苦しめたり殺めたりした人間の血を飲まされその骨肉を食べさせられることは、ほとんどの亡者にとって耐えがたいものでした。それら人間を食べるとき、カンダタはいつも嫌悪感とともに実際に五臓が焼けただれる苦しみを味わいました。
ところで、血の池に浮き沈みをしている苦しみに耐えかねた亡者の中には、所々に顔を出している剣の山や針の山に登って休息する者たちもいました。剣の山は血の池地獄の至る所にあり、鋭い抜き身の剣は近づく者の手足に深い傷を作りましたが、時にはそれでもましだと言わんばかりに掴まって休む者たちは決して少なくありませんでした。
ある日、カンダタは例に漏れず、ある剣の山に掴まっていると、近くで泣き声が聞こえてきました。
「えーん、えーん、怖いよ、痛いよ。」
やけに幼い声だなと、辺りを見回しましたが、その剣の小山にはカンダタ以外の亡者は誰も見当たらず、遠くの池で浮いたり沈んだりしている亡者たちだけが目に映りました。
「うるさいやつめ。」
カンダタは、小癪に障りながら、物憂い気に視線を落とすと、少し離れた左斜め下の方に一人の男の子が剣の一つに引っかかりながら血の池に浮いているのが目に入りました。
幼い子供がこんな地獄に居ることに訝しがりながら、よくよくその子を見て、あっと思いました。
その子は本当に幼く、まだ言葉が話せるようになったばかりと思われる年齢で、汚れのない顔をしており罪人にはとうてい思われませんでした。しかし今は、不安と痛みに顔を歪め、苦しそうに泣いているのでした。
「お母さーん。怖いよー。」
人を人とも思わないカンダタでしたが、その時はどうしてかその子のことが気になり、さらに可愛そうだという感情が生まれました。
「俺のような罪人が地獄に放り込まれるのは当然だが、こんな幼い子供がどんな罪を犯したってんで地獄で苦しまなければならねぇんだ。」
カンダタはそう思うと、剣の山をかき分けてその子供の側に寄りました。
「坊や、どうしたんだ。ここはお前のような者が来るところじゃないよ。」
その男の子は涙で濡れた顔を上げながら、カンダタに
「わからない、目が覚めたらいきなり、こんな所にいたんだ。ずーと床の上で熱くて熱くて、お母さんがずーと居てくれたんだけど、どこに居るのお母さんお母さん。」
と言って、男の子はまた不安そうに泣き出してしまいました。
「ははぁ、この子は病気で死んだに違いない。そういえば昔聞いたことがある。親より先に死んだ者は親不孝てんで、地獄に落とされるとな。」
しかし、その無垢な顔を眺めるうちに、
「閻魔も酷ぇ事しやがる。こんな子供にどんな罰と責め苦を与えて、何の償いをさせようてんだ。この子が死んだのは、この子のせいでは無いちゅうに。その母親だって哀れなもんだよ。」
と思い始めました。
そして、さらに近寄ると、
「坊主、大丈夫だ。お前のお母っさんは、ちょっと出かけているだけだ。帰ってくるまで、俺が一緒に居てやるから心配するな。」
と言い、その子の手を取りおんぶして、その子を剣の切っ先から守ろうとしました。
そうこうしているうちに、地獄では良くあることですが、血の池の血が潮のように満ち始めました。
「こりゃあ、少し登った方が良いか。」
カンダタは背中が血につかる前に、剣の山を登り始めました。
「おじちゃん、手から血が出てるよ。痛くないの。」
その子は心配そうに声を掛けました。
「何、心配いらねぇよ。ただ岩が少し鋭いだけだ。」
カンダタは、その子が怖がらないように、努めて明るい声で言いました。剣はカンダタの足や手を無慈悲にも傷つけましたが、それを気にも留めず、子供をおぶって頂上まで登り詰めました。そしてわずかな隙間を見つけると、庇うようにその子を胸前に抱いて、背中を剣で傷つけられながらも腰を下ろし、あやし始めました。
「ほら、坊主。腹が減ったか。これを食え。」
それは、ここ数月かかってカンダタが集めていた、とっておきの食料でした。中身は鼠や蛙や蛇の死骸でしたが、この地獄ではご馳走で、どうしようも無いときの為にとっておいたものでした。
差しだそうとした刹那、その中身を改めてみて、
「よく考えたら、こんな代物、この子が食えるようなものじゃねえか。」
と思い引っ込めようとしましたが、その子はそれを受け取ると、
「ありがとう、おじちゃん。」
と言って、それを大切そうに抱えると、中身を半分に割ました。
「おじちゃんの分ね。」
そう言って中身の半分を差し出すと、大事そうに残りの半分を食べ始めました。
「こんなもんで、腹が一杯になるわけねぇのに。」
カンダタは、その包みの全てを集めても、その子に十分な量で無いことは知っていました。そのとき、ふと胸が熱くなり、目頭から何か熱い液体が流れ落ちました。
「涙なんて何年も流していなかったな。俺もヤキが回ったようだぜ。」
それからというもの、カンダタはその子をおぶって血の池を渡ったり、剣の山に登ったり、食料を分け合ったりして暮らし始めました。他の亡者たちは口々に囃し立てましたが、カンダタも気に留めなかったので、次第に興味が薄れた亡者たちも彼らに構わなくなりました。
それからしばらくたったある日、カンダタはいつものように子どもをお腹に抱えながら血の池に浮いていました。子供がぐっすり眠っていたので、カンダタは起こさないように静かに泳いでいました。カンダタは幸せな気持ちになりました。血の池に浮きながら幸せも何も無いはずですが、妙な気持ちになるものだと我ながら驚いたのでした。
その時、突然血の池の底の方から何かが突き上げてきました。それは、カンダタのお尻に当たり、彼らを上に持ち上げました。気がついてみると、それは小さな砂浜でした。人一人が横になれるくらい小さな砂浜でしたが、子供を抱いている彼を中心に丸く広がっていました。砂はきめが細かく美しく、キラキラと輝いていました。突縁の事に驚きましたが、血の池に浮いていた彼にとっては、とても安らぐ心地がしたので、前に別の砂浜で焼かれたこともすっかり忘れて座ってしまいました。
少し経ってから、いつ炎がでるかと心配になったのですが、いつまで経っても何も起こらず、砂浜はキラキラ輝き続けていました。カンダタは安心して子供を横たえ、自分もしばし休息を取りました。そしていつしか眠りに入ってしまいました。無理もありません。地獄に落ちてからというもの、寝ることはおろか休息すら満足にとれなかったのですから。
どれくらい眠っていたのでしょうか、子供はもう起きて、彼の横にちょこんと座っていました。あたりを見渡すと、驚くことに砂浜は小さくもならず相変わらずキラキラ輝いていました。
その周りでは幾人かの亡者が、うろうろと泳いでいるようでしたが、体格の良い砂浜の主が怖いのか手を出しては来ず、羨ましそうに眺めているのでした。
カンダタは、そんな亡者を疎ましく思い、近寄ってきたら追い払ってやるぞととばかり立ち上がって腕まくりをしました。彼が立ち上がったとき、その衝撃でしょうか、少し砂浜の端がぽろぽろと壊れたようですが、すぐに収り、島は崩れるのをやめました。
「腹が減ったな。」
いつものように、懐から包みを出し、その中身を子供に与えて、自分は浮いていた虫の死骸を食べ始めました。すると、程なくして、目の前にキラキラ光る物が見えました。それは、細い一筋の光で、どうやら上から垂れ下がった糸のように見えました。
はっとして、それを掴み、矯めつ眇めつ手に取ると、それは間違いなく糸のようなものでした。さらに彼はその光る細い糸のことを良く知っておりました。
以前、手に取り、手繰り寄せ、上へ上へ昇っていったあの細い糸。かなり昇ったと思ったところで、無残にも切れてしまったあの細い糸。
カンダタはしばらく呆けたように見つめていましたが、ハッとして、すぐさま横で寝ている子供を揺り起こしました。
「おい、坊や、すぐ起きなさい。」
子供は寝ぼけ眼をこすりながら、何事かと目を覚ましました。
「どうしたの、おじちゃん。」
「いいか、坊や、これは、この糸は天から降りてきた糸だ。きっと地獄の天井を超えて天まで続いているはずだ。いや、そうでなくても地上までは続いているだろう。この糸を手繰り寄せて、上へ上へと登っていけば、きっとこの地獄を抜けられる。お前は今すぐ上へ昇っていくんだ。」
以前のカンダタなら、一にも二にも無く、この糸を我先にと昇って行ったことでしょう。しかし、今のカンダには、不思議とそんな考えは全く起こりませんでした。ただ、地獄に落ちたこの子供が不憫でたまらず、なんとしてもこの苦しみに満ちた地獄から逃れて欲しいという思いだけでした。
「なんだか怖いよ。」
子供は尻込みしました。しかし、カンダタはやや声を荒げながら、
「早くしろ、早くしないと、糸が消えてしまうかもしれない、さあ早く昇るんだ。」
とせき立てました。
子供はその大声とその気迫に圧倒され、怖がりながらも、その糸を握り締め、ゆっくりと昇り始めました。
「おじちゃんも、後ろから付いてきてよ。」
子供は下を見ながら声を掛けました。
「解った解った、すぐ後から昇るから、お前は早く上まで行きなさい。」
しかし、カンダタは子供が昇るのを下でじっと見守るだけで、糸に手を掛けようとはしませんでした。
「こんな、細い糸、あの子がぶら下がるだけで精一杯だ。俺のような重いやつがぶら下がったら、一辺で切れちまう。それに、俺のようなやつが今更地獄を出ようなんて贅沢な話なのかも知れねぇ」
そう思っていたからでした。
その子が、かなり上まで昇ったとき、カンダタは目を細めてみていましたが、ふと人の気配がして振り返ると、島の周りに続々と亡者たちが群がる様子が目に入りました。
突然のことにぎょっとしましたが、よく考えれば当然のことでした。光る小島に、光る糸が天から降りてきて、それを昇る子供がいる。それだけで、周りにしてみれば、この地獄から逃れる手立てが目の前にあるというということを示しているようなものでした。
次々と亡者たちは、カンダタの小島に手を掛け、脚を掛け、揚がって来ました。おそらく目指すはあの光る糸でしょうか。あの光る、細い、細い糸。
カンダタは身震いをしました。ただでさえ細い糸であり、子供一人だから切れないでいるようなものの、これだけの亡者が一辺に引っ張ったりでもしたら、どんなことになるか、恐ろしくなりました。
「お前たち、この島に揚がれば、焼けただれる事ぐらいは知っているだろう。この島から出ていけ、そして、この糸には決して触れるんじゃねえ。」
彼は怒鳴り声をあげましたが、亡者たちは構わず次から次と揚がって来ました。中には炎に包まれ逃げ惑う者もいましたが、そのうち幾人かはその炎をくぐり抜け、島の中心まで這い寄ってきました。
カンダタは恐怖のあまり、初めに近寄ってきた者を殴りつけて、次の者を投げ飛ばし、糸に近寄ってくる者たちを次々と血の池の方に追い立てました。その格闘のせいでしょうか、島も激しく動揺し、端の方が少し崩れ出したようでした。それでも、カンダタは猛然と、糸に近寄ってくる亡者たちを島の外に追い出し、血の池にたたき込むのをやめませんでした。
「俺だって救われてぇんだ。」
血の池にたたき込まれた、亡者の一人が顔を歪めて泣きじゃくりながら叫びました。
そこで、カンダタはハッとして殴ろうと構えた手を止めました。
「そうか、こいつは俺だ。俺なんだ。皆、この地獄で苦しんで苦しんで、でも、どこかで救われてぇって心の中で叫んでいるんだ。」
そして、カンダタは、その場に呆けたように座りこんで、同じように泣きじゃくり始めました。泣いて泣いて、泣いて泣きました。声を上げて、涙が流れて、こんなに泣いたのは、どれほど久しぶりだったのでしょう。地獄ではもとより、地上にいたときもこれほど泣いたのはだいぶ前の事だったのでしょうか。
「解った。皆。この糸は確かに天までつながっている。ただ、お前らが一辺にぶら下がったら、勢いで切れちまうかも知れねえ。一人一人ゆっくり揚がって行ったら、もしかしてもっと保つかも知れねえ。さあ、順番に一人ずつ揚がるんだ。決して無茶をしちゃいけねぇ。」
彼はまず、泣きじゃくった亡者に手をさしのべました。しかし、その、すぐ横にいた者が、
「ふざけるな、この糸がお前のものだとでも言うのかよ、これは早い者勝ちだ。」
と言って、駆け出してしまいました。しかし、どうでしょう、島に揚がって数歩も行かないうちに、その全身が炎に包まれました。そして、火達磨になり悶え苦しみながら、血の池に頭から身を投げ、あれよ、あれよという間に、どこかへ流されてしまいました。
それを見た亡者たちは恐れをなし、これは島の主の言うとおりにした方が得策だと判断したのでしょうか、おとなしく彼の提案に従うと言いました。
「さあ、一人一人、ゆっくり揚がっていけ。切れやすい糸だから慎重に。決して、他人を押しのけちゃいけねぇ。ちょっとした小競り合いで切れちまうからな。」
亡者たちは従順に、一人一人ゆっくくりと糸に手を掛けて、昇って行きました。カンダタは心の中で「切れねぇでくれよ、切れねぇでくれよ」と祈りました。その祈りが通じたのでしょうか、細い糸が心なしか太くなったように見えました。
「こいつは、もしかすると仏の慈悲とか言うやつに違いねぇ。ありがてぇことだ。こんな地獄にも、こんな俺のような罪人にも手を貸してくれるんだ。」
彼はしばらく下から指図をしながら亡者たちが昇って行くのを眺めていましたが、ふと彼らにも肢体が不満足な者たちがいることに気がつきました。目が見えない者、鼻がそげ落ちた者、耳が萎れた者、口がひん曲がった者、腕が片方ない者、脚を引きずっている者、老いた者、若い者と、実に様々でありました。
「おい、お前ら、少し体がましなやつは、体の不自由な奴らの手足になってやれ。お前らも、体が不自由な所ぐれぇあるだろう。」
そう言うと、カンダタは、近くにいた片腕がない一人を背中に背負い、糸を昇り初めました。そして、数尺ほど昇ると、その所にいた亡者に後一緒に昇ってやってくれと頼みました。
「なんで俺がこんなやつの世話をしなければならねぇんだ。」
その亡者は鬱陶しそうに言いました。
「こいつの腕を放すなよ、俺は他の亡者を見捨てたせいで地獄に戻っちまったんだ。お前ぇもこいつを見捨てたら地獄に戻っちまうぜ。」
その亡者は、折角の機会を不意にしたら大変だと、渋々、片腕のない亡者を引っ張り上げました。
「おい、もたもたすんじゃねえぜ。俺だって自分持ち上げるのに精一杯なんだからな。」
ぶつぶつ言いながらも付きそうのを見て、カンダタは安心し、また地面に戻って、次の力の無い亡者たちを背負い、また昇っては少しでも丈夫そうな亡者に頼むのを繰り返しました。
皆、渋々、半ば嫌々ながらも他人の手助けをして黙々と昇っていきました。
初めに昇り始めた亡者が目に見えないほど小さくなり、その下を数珠のように点々と亡者たちが連なるようになったとき、下の方でなにやら騒がしい声が聞こえてきました。
カンダタは背負っていた亡者をすぐに別な亡者に預け、地面に舞い戻って見てみると、騒ぎは島の端の方から起こっているようでした。何事かと側によると、そこには、一人の体格の良い亡者とその取り巻きが何やら拳を振り上げて怒鳴り声を上げているようでした。
「おい、お前たち、この島は今から俺たちの物だ。それから、あの糸も俺たちの物だから勝手に触れるな、昇っているやつは皆降りろ。俺たちだけが昇れるんだ。全員振り落としてやる。」
そう言いながら、その亡者は近くにいた亡者を殴りつけ、周りのをなぎ倒しながら、島の中心に向かってきました。
カンダタは猛然と駆け寄り、その亡者に立ちふさがりながら、
「何の権利があって、お前ぇがそんなでけぇ口をきけるんでぇ。少なくとも、この島はお前ぇの物じゃねぇ。お前ぇこそ今すぐ何処かへ行っちまいな。」
と言いました。
「なんだと、この野郎。」
「お前は、見たことねえ面だが、地獄の新入りだな、悪いことは言わねぇ。早く島から降りるか、穏やかに昇るかにした方がいいぜ。」
「ふざけやがって。」
その亡者はいきなりカンダタに殴りかかりました。見ると、そっちの方は自分よりも体格がよく力も強そうでした。カンダタも力は強い方でしたが、上には上がいると言うことでしょうか。いずれにしても取り巻きが付いているだけ、分が少々悪いようでした。
取っ組み合いの殴り合いになり、カンダタも懸命に闘いました。その衝撃でしょうか、島のあちこちに亀裂が入り始め、ぐらぐらと揺れたかと思うと、至る所が崩れ始めました。そんな事は些細なことかと、彼らは組つ離れつ、お互いにこれ以上無いというくらいの憎しみの顔で、相手を打ち負かそうとしていました。
ついに、相手の拳が左頬を捉え、カンダタは後ろにひっくり返ってしまいました。目が回ってしばらくカンダタの頭がぐらぐらしている隙に、その亡者は一目散に糸の所へ駆け寄りました。
カンダタは、もうろうとした意識の中で地面を転がりながらも、拳をめちゃくちゃに振り上げ、
「やめてくれ、その糸だけは乱暴に扱わないでくれ。」
と叫びました。
その亡者は、糸のすぐ側に駆け寄ると、歓喜の表情を上げて、それを両手で握ろうとしました。
しかし、どうしたことでしょう、その手が糸に触れた瞬間に、その糸が物凄い光を発し、その亡者は叫び声を上げました。その光は、どうもその亡者に苦痛を与えているようで、手を離せないまま、次第にその体がぼろぼろと崩れ始めました。亡者は悲鳴をあげながらも、何も出来ず、ついに、絶叫と共に体ごと消し飛んでしまいました。
カンダタは、それをグルグル回る意識の中で、ぼんやりと見ていましたが、崩れ落ちる島を見て、慌ててその一辺にしがみつきました。見ると、大分、島は崩れ、ほとんど幾つかの塊が浮いているだけになってしまっていました。しかも、その塊も後どれくらい保つのでしょうか、時と供に小さく崩れていく様子でした。さらに、悪いことに、肝心の糸の下には塊が無く、件の糸は血の池の水面の一尺くらい上に頼りなさそうにフラリフラリと揺れていました。
カンダタはあたりを見渡しました。先ほどの取り巻きたちは周りに見当たりませんでした。思うに、血の池に深く沈んだか、若しくは流れの速いところに掴まってどこか遠くに流されたのでしょうか。しかしながら、まだ他のたくさんの亡者たちが、あちらこちらで悲痛な声を上げながら浮いたり沈んだり藻掻いているようでした。
彼はすぐさま、糸の側まで泳いで行くと、その近くにいる亡者の手を引きながら、その手に糸をしっかりと握らせました。そして、その亡者が昇るのを見届けると、また再び血の池をかき分けて、次の者、次の者を糸の側へと引き連れていきました。
カンダタ自身、先ほどの闘いで体はあちこち痛み、さらには水とは勝手が違う血の海の中を泳ぎ回るために疲労が募り、何度も沈み掛けながらも、必死になって、他人を背負い、担ぎ上げて、糸の側へ側へと導くのでした。時には、肢体が欠けている者もあり、支えるには何倍もの労力も入りましたが、一心不乱にその手を体を糸の側へ側へと近づけるのでした。
既にかなりの所まで昇っていた亡者たちはその姿を見て、何か不思議な感覚に襲われました。そして幾人かはその糸を手放し、自ら血の池に飛び込み、カンダタを真似るように自分より弱い立場にある者たちの手を取り始めました。ある者は手を引き、ある者は背負い、それぞれがそれぞれのやり方で他の者と一緒に糸を昇り始めたのです。そうしている内に、上の方でも人々は他人の助けるようになりました。ある者は、老人や子供を先に行かせ、ある者は弱い者を背負って昇り始めるようになりました。
カンダタは初めは沢山の人が糸にぶら下がる事を心配しましたが、不思議なことに、その糸は全く切れる気配はありませんでした。彼自身、自分の時にはあんなに脆かったのに、おかしな事もあるものだと訝しく思いましたが、これもきっと仏の御力だと心の中で感謝をしました。
それどころか、カンダタが、必死になって血の池を泳ぎ、近く遠くと人を担いで糸の側へ連れてくる内に、仏の手助けでしょうか、糸がだんだん太くなり、次第にしっかりした綱のようになり始めました。
あらかた近くの者を掬い上げましたが、遠くの方では、まだ無数の亡者がうめき声を上げているのが耳に入りました。血の池は所々が激流になっていて、うっかり掴まりでもしたら、どこか遠くへ流される恐れもありましたが、カンダタは、お腹に力を込めながら、激流をかき分け、遠くで呻いている亡者たちの側まで泳ぎ寄りました。そして、また激流をかき分けて戻り、綱の側へ連れ、それを繰り返すようになりました。
幾人かは、目の前で激流に飲まれたり、担いでいた者が流されたり、激しい激流を越えきれなくて一時戻ることもありました。カンダタも人の子であり、全員を連れてこられたわけではなかったのでした。
カンダタの疲労は極に達していました。それでも、ほとんど無意識に手を動かし、脚を動かし、沢山の亡者を、綱の側まで導きました。
ついに目に見える範囲、耳に届く範囲に、うめき声を上げる亡者がいなくなると、今度は手伝ってくれていた人たちに綱を昇るように促し、彼自身は下の方で彼らの尻を支えて昇らせました。
「カンダタさん、あんたも早く揚がりなさい。」
亡者であった人の一人が声を掛けました。
「いや、俺は大丈夫だから、お前たちが先に揚がりな。俺は後からすぐ行くから。」
既に昇っていた者たちは、心底申し訳なさそうな顔をしながら、
「すまねぇ、カンダタさん、本当にすまねぇ。」
と言いながら、拝むように、上へ上へと昇って行きました。
そして最後の一人が、綱の上の方で点のように成ったとき、カンダタは自分もその綱に両手を掛けました。不思議なことに、その時、その綱は、既に締め縄かもしくは一人前の巨木と見間違えるほど太く太くなっておりました。
そのがっしりとした綱に、カンダタは手を掛けて昇ろうとしましたが、疲労が限界を超したのでしょうか、昇る手に脚にまったく力が入りません。何度も血でぬるぬると滑り、血の池に落ちてしまうのでした。
カンダタは何度か試みた後、ついに諦めたように手を離してしまいました。
「ああ、俺もついに年貢の納め時だ。今更、地獄から出ようなんて分に過ぎた事なのかも知れねぇ。既に揚がった奴らは、きっと仏様たちがなんとかしてくれるに違いねぇ。それに、ここに、この綱があればあとから来たやつも、きっと自分の力で昇れるだろうさ。ああ、俺はそれだけで満足だ。」
極度の疲労で意識が薄れる中で、カンダタは、心の中でぼんやりとそう思いました。
そして、力を失ったカンダタの体は血の池に沈み始めました。血の池の下の方に、底へ底へと…
「血の池に深く沈み込んだら、この後どうなるんだろう…。」
最後の意識の中でそんなことを思い巡らしながら…
カンダタは目を覚ましました。
体は仰向けになっているようでしたが、特に血の匂いもなく、静かで、背中は何か柔らかい物が当たっているようでした。柔らかい光が差し込んでいて、カンダタは少し眩しいなと思いました。はっきりしない頭で辺りを見渡すと、そこは一面の草原でした。所々に花が咲き乱れ、木々が生い茂り、鳥が囀りながら飛び交い、動物でしょうか、ゆったり歩いているのが見えました。その草原は地平線までずっと続き、場所によっては池や湖もあるようでした。空は青く澄み渡り、白い雲が地表をなでるように流れていきました。
「ここは何処だろう。俺は確かに血の池の奥底に沈んだはずだが…。」
カンダタは訝しく思っていると、誰か人の声のようなものが聞こえました。
「カンダタ、カンダタ。」
声の主の方に体を向けると、誰か人が自分の方に歩いてくるのが目に入りました。その人を見て、カンダタはあっと思いました。とても美しい人でした。すらりとした体に、りりしい眉、黒い髪は丁寧に結い上げられ、細面の顔にぴったりと収まっていました。黒い瞳は柔和で優しく、しかし同時に、真剣さと憂いを帯びているような光も宿していました。その額の真ん中には白い巻き毛が収まっており、顔全体が明るく、一枚の布で出来た片肩を出した衣を纏ってはいましたが、その体からは光を放っているようでした。
カンダタは思わずその場に平伏し、声の主が近づいても、顔を表に上げませんでした。
「カンダタ、よくここまで来たね。私は君がここに来るのを片時も願わなかったことはなかったよ。」
その声の主は、優しく、笛のような澄んだ声で話しかけました。
「勿体ないお言葉です。恐れながら、あなた様は釈迦族の王にして、目覚められた人、仏陀様ではございませんか。」
震える声でそう答えると、その主はその問いには答えずに、
「私に付いてきなさい。」
とだけいいました。
カンダタはその方の2、3歩後ろを控えるように歩きながら、何処へ連れて行かれるだろうと思いました。しばらく歩いている内に、色々な疑問がその胸に去来し始めました。初めは我慢していましたが、ついに抑えきれなくなり、思い切って口を開きました。
「仏陀様、あの子は無事なのでしょうか。そして、これは一体どういうことなのでしょうか。私は確かに血の池の奥に沈んだはずなのに。それから、綱を昇って行ったあの者たちは一体どうなったのですか。」
その方は振り返ると心配と困惑で複雑な表情をしたカンダタに優しく、
「あの子は無事だよ。既にこの地に着いていて、今、少し先の寺院で休んでいる。すぐに会うことが出来るだろう。それから、カンダタ、君は、あの人たちを追い抜いたのだよ。そしてその人たちは、まだ、昇っている最中だ。」
と答えました。
突然の答えに全く分けが解らないという表情をしたのでしょうか、その人はさらに
「さあ、こちらへ、それを見せてあげよう。」
と言いました。
連れてこられたところには少し大きな池がありました。それには蓮の花が咲き乱れ、沢山の生き物や、虫たちが、それぞれの生き物を邪魔しないように静かに動いていました。
その方はカンダタに池を覗くように言いました。
言われた通り、池の縁から、底の方をのぞき込むと、初めはただの水面でしたが、目を凝らす内に別な景色が浮かんできました。
それは薄暗い穴を上から覗いているようで、真ん中には何か薄ら光るものが一直線に底の方まで続いており、それに無数の人たちがしがみついていて、必死に上へ上へと昇っているようでした。
「ああ、これは、あの糸で、この人影はあの地獄の人たちではありませんか。」
「そうだよ。カンダタ。これはあの糸で、あの人影は君が導いた地獄の人たちだよ。」
カンダタは驚きのあまりしばらく声を発せられませんでした。
「私はあの糸を昇りませんでした。それなのに、どうして、彼らより先に私がここにいるのですか。それに、今すぐ、彼らをここに連れてくることは出来ないのですか。」
カンダタは、しばし、混乱して、すぐさま池に飛び込もうとしました。
「カンダタ、それは無理な相談だ。君がこの池に飛び飛んでも、彼らをここにすぐに連れてくることはできない。私もそれは出来ないのだ。彼らを無理矢理連れてくることは出来ないし、仮令それが出来たとしても、彼らは依然として地獄にいるように感じるだろう。そう実際に地獄に居続けるのだよ。ここへは、法や縁を頼りにしても、結局は自分の力で来るしかないのだ。」
「これはどういうことなのでしょう。私には、訳がわかりません。」
「ここでしばらく生活して、君にとっても兄姉であるこの地の人たちに教えを受けたり、一緒に勉強したりすれば、それくらいすぐに解るようになるよ。そして、君は、自分の力でここに来たこともね。」
カンダタはすっきりしないという表情でしたが、その方がそう言うのであればと、深く問う事はしませんでした。
そして、その方は池から体を違う方に向けると、
「さあ、カンダタ、お待ちかねの人が来たようだよ。」
と言いました。
カンダタはその方を見ると、小さな人影が歩いてくるのが見えました。側には若い女性のような人が付き添っていました。
その影が近づいてくるに従って、あっと思いました。紛れもなくあの子に間違いありませんでした。汚れのない顔はそのままでしたが、表情はとても明るくなっておりました。
「坊や、無事だったのか。」
カンダタは思わず、駆け寄って、その子を抱きしめようとしました。その子も、
「おじちゃん、おじちゃん。」
と言って、駆け寄ってきました。
二人は涙を流しながら、お互いの無事を喜び合ったようでした。
「坊や、本当に良かった。心配していたんだ。それから、おっかさんに会えたようだね。」
カンダタは、その女性の方に向くと、
「この子のお母さんですか。」
と尋ねました。
しかし、その女性は微笑みながら、
「いいえ、違います、私はこの子の世話を任された者です。この子のお母さんはまだ、地上にいて、この子の事をずっと気に掛けております。」
と言いました。
カンダタはびっくりして、女性を見、あの方を見て、坊やを見て言いました。
「坊や、寂しくないのかい。」
「ううん、寂しいけど、永久に会えないわけじゃないし、僕の事をいつも気に掛けていてくれるから、側にいるように感じるよ。それに、ここには親切なお姉さんやお兄さんもいるし、おじさんも来てくれた、僕はちっとも寂しくないよ。」
坊やは一瞬母親恋しそうな表情はしましたが、すぐにキラキラした瞳に戻りながらそう言いました。
「さあ、おじさん向こうに面白い物があるよ。一緒に見に行こうよ。」
その子は、カンダタの手を引きつつそう言いました。
カンダタは、手を引かれつつ、最後に、あの方のほうを向いて尋ねました。
「最後にこれだけは知りたいのですが、どうしてこんな無垢な子が地獄に落ちなければ成らなかったのですか。それから、あの綱に触れて消し飛んでしまった亡者は何処へ行ったのですか。」
その方は特に驚きもせず、答えました。
「縁と因は奇しきもの。法と如来の心を持って、あまねく世界に染み渡る。そのうち君もこれがどうして起こったのかと言うことが解るようになるよ。そして、その綱に無理矢理触れた人はさらに深いところへ行くことになったのだ。」
カンダタは、また解ったような解らないような困惑した表情を浮かべて、ともかくその子に手を引かれて行きました。
そして、池にはまたその方だけになりました。その方は一人になると、再び池を覗いて、憂いを帯びた瞳で底の方を眺めながら、こうつぶやきました。
「先達たちの加護あれど、自分の脚で来ねば成らん。自分の脚で来られねば、菩薩の慈悲は勝れども、心に平和は訪れぬ。法を頼りに、その脚で、自分を頼りに来ねば成らん。」
最後まで読んでいただければ幸いです。




