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花束  作者: 小佐内 美星
花束
21/28

私、咲良ちゃんのこと。

「結城比奈、お世話になりました。願わくば、またみなさんに優しくしていただけたらと思います」


 彼女はそう言い残した。その言葉の硬質さに感じるのは、比奈はたぶん、この言葉を伝えることを、おそらくは考えて用意していたからだと思った。彼女は私の家に一ヶ月だけいたあと、去っていった。胸に残るわだかまりと虚無感が、結城比奈の置き土産だった。


『咲良ちゃん、私――』


 その後の言葉を、私は律儀にも聞かなかった。聞いたところで、聞かなかったところで、なにがどう変わったということは、きっとないだろう。どうせひどい別れの言葉が、口ずさまれたのだ。そんな重苦しいものを、あんな泣き腫らした夜に聞きたくはなかった。


 彼女がどうなったのかを知らぬまま、私は高校を卒業した。卒業式は、小学校や中学校のときとは違って、少し寂しかった。千秋は私と同じ大学に行きたいと必死で勉強していたけれど、あと一歩届かなかった。


「泣かないでってば、袖で鼻水拭かないでって、千秋。千秋の受かったところ、すごくいいところだよ。好きな英語活かせるし、私の行くところよりも千秋らしいって」


 そう本心から言ってあげても、千秋はしゃくりあげるのをやめなかった。


「みずみずと同じ大学に行きたかったの! いないなら意味ない……」

「また会えるからさ、ね」


 彼女の頭を撫でながらそう言ったけれど、私は、自分の言ったのがどうだろうと思っていた。どれだけ仲が良くても、進学すると疎遠になるということを知っている。なんなら、同じ高校に通ってさえ気まずくなる。だから千秋とはこれで最期なんだろうと思っていた。


 千秋のように明るくて可愛い子なら、どこにいたってきっとうまくやっていける。けれど、千秋の涙を見て、私がそれを全く貰わなかったかと言えば嘘になる。必ず距離が開くと分かっているからこそ、初めてできたこの友人と離れるのは侘しかった。




 近くの国立大学に通って、先輩の勧めで銀行に就職した。金融は厳しいと両親には言われたけれど、向いていないということはないようだった。そこそこの融資も任されるようになり、仕事仲間との関係も適度でよかった。休日を返上することもあるけれど、他に趣味もない私はかえって助かった。


「お金の使いみちがない」

「いやー、バンカーはさすが、贅沢な悩みをお持ちだなあ」


 疎遠になるものだと考えていたけれど、千秋はわりとしつこかった。悪い意味でなく。


 在学中もしきりに連絡を取り、こうして就職してからもよく会う。銀行に勤めていると急な連絡で遊びに行けなくなることが多いけれど、千秋はしっかりと理解してくれているので、誰よりも会いやすかった。彼女はどこからどこまでも私にとっての陽だまりだった。


「千秋はお金、なにに使ってるの?」

「ふむ。服とか? 会うのは咲良ばっかだから、遊びではそんなに使ってないかなあ」

「え、あれは? 前に彼氏できたって言ってなかった?」

「あー、あはは、いや、別れた」

「よくわかんないけど、破局ってそんなにはやいもの?」

「日常会話で破局なんて言葉使うの咲良だけだと思うよ。んー、そもそも男女って育ってきた環境とか違うし、価値観が一致するわけないじゃん? 色々めんどうくさくって、悪いとは思ったけど、別れちゃった。向こうは相当嫌がってたけどね、破局」


 破局のところを言いながら千秋は笑った。


「そっか、でもいつかいい人現れるよ。千秋いい子だし。英語できるし、可愛いし、両方名前みたいだし」


 少ない休みの中で千秋と会い、そこでするような中身のない会話は、忙しい仕事ですり減らされた身体や心を回復させるのに十分だった。


 そんなような日々をすごしていた。仕事、仕事、仕事、たまに千秋や誰かと会って、休んで。お金も貯まったしといって、家を出て一人暮らしを始めてみたりもした。とりわけた満足もなければ、不満もない。人生というのはそのくらいがちょうどいいんだよ、と上司が言っていたので、いまの私はちょうどいいのだろう。


 生活に慣れてきて、色んなことを学んで、私は初めて、なんとなく、姉に連絡を取ってみようかと思い始めた。でもなかなか気が進まないでそれを引き伸ばしている。当面の悩みといえばそれくらいのものだった。


 けれど、そんな私のちょうどいい、平凡な日々は、たった一通の招待状でぶち壊しにされた。


 郵便受けから取り出したチラシの隙間に、小さな白い封筒が挟まっていて、その上には英語で「結婚式 招待状」とあった。


 その裏を見て、ふっと息が漏れるのを抑えられなかった。その封筒を持っているのがなんかの罪のような気がして、靴入れの上に置く。けれど、上を向いたのが私の名前が載っていない側だったので、かえって虫唾が走った。泥を掛けられた気分になる。どうしたものだろう。この不快感は。


 比奈の名前がそこにはあり、その横には、知らない男の人の名前があった。比奈はもはや結城比奈ではなかった。


 目の前が真っ白になるようで、乾いた笑いが床に落ちた。もう、彼女と別れて既に何年も経って、それでも私は、いまだに、なにもかも奪われてしまうような、そんな感覚に囚われるのだろうか。


 首を振る。いいことではないか、いいことだとも。向こうで、いい男の人を見つけて、幸せになったのだ。ここに残ったままだったら、そうはならなかったのかもしれないのだから、引っ越したおかげで、幸せになって、やっと不幸から逃れられたのだ。めでたいことじゃないか、本当に。でもそれを知らずに過ごせたら、どんなによかっただろう。


 虚無感なんて、彼女がいなくなってぽっかり空いた穴なんて、きっといつか消えてしまう。その時まで我慢していれば、私は彼女のことなんて忘れてしまえたのだ。もう、考えないようにしていたのに、そんな矢先に、こんな招待状を送りつけられて――私に一体どうしろと言うのだろう。


 ……私が、私が、彼女のことを、憂う間に、彼女は、幸せに、なっていたのだ。いいことだ、私はそう願ったではないか、幸せになってほしいと。その代わりに、私が不幸になってもいいから、と。本当に、その通りになった。この、幸せを象徴する封筒が、一瞬で、それら全てを叶えてくれた。


 けれど、こんなに、虚しい不幸があるんだろうか、他に。花は枯れたが、種が落ちる。そういう幸せと不幸の虚しさ。


 行く気にはならなかった。せっかく作ってくれた招待状ではあるけれど、どうせ他にもたくさんの人にも送られたコピーだ。シュレッダーで粉々にしようと思った瞬間、携帯電話が着信を知らせる。知らない番号。それを見て、お腹に突っかかるような嫌なものを感じた。融資先や会社の人であれば、登録していないということはない。けれど――。


「……はい、水橋です」

「もしもし、咲良ちゃん?」

「…………」

「あ、だめだよ。切ったら家まで押しかけるからね」


 私が押し黙ると、比奈もそうして何も言わなかった。ホワイトノイズが部屋の空気を重苦しくさせる。何年かぶりに聞く声は電話の向こうだからか、少し違っている。それなのに声の抑揚とか、話し方とかは、なにも変わらない。突然私の心に、守るすべを持たない私の心に、確かな重さを持って突っ込んでくるところも。


「招待状、届いたでしょ。咲良ちゃんのだけ追跡するやつしてたから、分かってるんだ。結婚式、そっちでやるの。咲良ちゃんのお母さんから連絡先と住所教えてもらって、本当は直接渡したかったんだけど、びっくりさせちゃうかなって」


 郵送であろうと、直接であろうと、きっと気持ちは変わらなかっただろう。


「ごめん比奈、この日は私、予定が――」

「それ、どうにかして空けられないかな」

「…………」

「これを最後にしてもいいから、来て欲しいの。一度だけでいいから。咲良ちゃんのおかげで私、幸せになれたんだよ。咲良ちゃんがずっと、私の道標でいてくれたから」


 私の道標だったと、彼女はそう言った。その言葉が気持ち悪いくらいにこびりつく。引っ掻いても取れない気味の悪い疑念。


 違う、私があなたを道標にしていたのだ。けれど、虚無感やわだかまりの正体が、その言葉にあるような気がした。


 式の期日は二ヶ月後だったけれど、仕事をしていたらすぐにその日は来た。結局、私はその式に行くことにしたのだった。何もお祝いする気などなかった。けれど、今日で最後にしてしまえば――私を道標にして得た幸せなどというものを知ることができたなら――やっと胸に残るわだかまりが取れるのかもしれないと、そう思ったから。


 地図を片手に式場を探す。都内の、比較的新しくできた式場。そうであれば、結婚式には大層な金がかかるらしいし、けしてひもじい思いはしていないということなのだろう。比奈が私の前からいなくなったことをあっさりと受け入れることは適わないし、それで得た幸せを祝福する気にはならないけれど、充足した生活が送れているということ自体は、私に安堵をもたらしてくれた。


 特に迷うこともなくそれを見つけ、中に入る。知らない人も、顔だけ知っている人もいる。学生時代、比奈と共通の友人はいなかった。共通の知り合いもいないから、一人なのは私だけだ。和気藹々とした雰囲気の中にある疎外感。友達もなにもいなくって、ぽつんとクラスに座っていた私のあの頃を、こんなところで思い出すとは思わなかった。私のために立てられた名札のある席に座る。私のことを考えてくれたのが分かる位置だった。目立たない場所。でも新郎と新婦の座るであろう席からは、視線が通る席。


 始まるのをじっと待つ。やがて司会進行がわっと宣言すると、喧騒を破るようにして新郎新婦がともに、腕を組んで現れた。知らない弦楽の音が会場に静かに響く。


 そっちを見て、息を呑むと同時に、ずっと固く抱き続けてきた、重い感情が揺さぶられるのを感じた。割れるような拍手。頭が割れるような。私はただ座ったまま、動けず、拍手もせず、目を逸らしたいのに、それもできなかった。彼女に注がれる私の視線がどうなっているのか、自分では分からなかった。


 大雨のような拍手を受けて、彼女は照れ隠しに唇を噛んでいた。私はあの表情を知っている。知っているとも。二人でお風呂に入っている時とか、更衣室に二人でいるときとか、布団の中でする顔だ。拍手がやんで一礼すると、比奈がきょろきょろとする。何を探しているのかは分かる。私だ。それを証明するように、目があった瞬間彼女は固まって、しばらくそうしたあと、私に向って小さく手を振った。それに、どう答えればいいのか分からなかった。


 式は進行していく。挨拶とか、紹介とか、主賓による一言とか。つまらない映画を観るときのように無感情に、ただその光景を眺めていた。余興の趣向もよく分からない。ああいうので笑う感性を私は大人まで得てこられなかった。でも、つまらないものを淡々と見ることには慣れている。私はずっとそうして生きてきたのだ。ここに来れば――ここに来たら、虚無感が拭えるかもと、そう思っていた。


 だが間違いだった。これは単なる表面的な催しで、実際の結婚は署名捺印提出の数分で済むのだから、ここに意味はない。私の問題を解決してくれるような場所ではない。でも、そんなこと、最初から分かっていた。分かっていたはずなのに、なにを期待してきたのだろう。馬鹿だった。


 やがて式は一段落がつく。ほとんどの行程が終了し、あとはほんの少しの余興だけ。この合間の時間に、スタッフは食事を片付け、同窓会のようにみんなで懐かしがり、新郎新婦はお色直し。私は立ち上がった。ここには、私のやることはなく、懐かしがる相手もいなければ、求めるものもない。でも職場に行けばやることがあり、顧客がいる。そのほうがよっぽどよかった。千秋を呼んでもいい。さっと荷物をまとめて外に出る。会場の出口を抜けようとした瞬間に、腕が掴まれた。


「やっぱり。帰ろうとするんじゃないかって思ってたの」


 彼女だった。結城比奈。色を抜かれた桜色みたいなウェディングドレスを着て、こんなところで私を待っていた。


「……もう帰ります。呼んでくださってありがとうございました」


「あはは……なんで敬語なの?」憂うような上目遣いが、彼女の白い肌の奥で揺れる。私の腕を掴む力が強くなる。「控室空いてるから、話してこうよ。少しだけでいいから」


「他にも比奈と話したい人、いっぱいいると思うよ」

「いいの。咲良ちゃんの前では、どうでもいいから」


 大人びた彼女。薄く施されたメイクの中に映える茶色の瞳、それがまっすぐに、私を見つめていた。

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