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花束  作者: 小佐内 美星
第二部 中学生になりました。
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第三話 なにも考えられない。


 部活終わりの夕暮れ時、みんなが帰ってしまったあとに、私は一人で竹刀を振っていた。学校の剣道場はもう夏も終わりかけなのに蒸し暑く、夕陽で橙色に染まっていた。竹刀が風を斬る乾いた音と、私の息だけがこだまする。うまくなればなるほど、比奈が喜んでくれる、褒めてくれる。それが嬉しかった。試合に出る回数ももっと増えて、日頃溜まる鬱憤のはけ口にもなる。勉強だけじゃないのだ。私ができることは。


「咲良ちゃん?」


 無心で振り続けていたら、結城比奈が入口のところに立っていた。まるで気付いていなかったので少し驚いたけれど、彼女の顔を見ると練習の緊張がほどけて、思わず頬が緩んだ。


「居残り練習してたの? えらいね」

「はい」

「『はい』だって! やだなあ、いつもは仕方ないけど。二人のときはいつも通りにしてよ」

「うん」

「……でも、咲良ちゃんがこんなに頑張ってたら、私が卒業したあとの剣道部も安泰だね」


 比奈の声が少し小さくなる。死にかけの蝉の声が、剣道場によく響いた。


「そうかも」


 私の声も萎んだのに気が付いたのか、比奈は小さく笑った。


「あは、寂しい?」

「……うん。寂しい」


 私が言うのに、比奈は目を丸くした。


「わ、素直だね。寂しくなんてないって、咲良ちゃんなら言うかと思ってた」

「聞かれたから、言っただけ。……比奈は高校どうするの?」


 私の問いに比奈はしばらく恥ずかしそうに俯き、頬を染めた。珍しく言いにくそうに、髪の毛先をいじって、私の顔色を伺うみたいだった。


「先生は無理だって言うんだけどね、私、南高に行きたくて」


 南高。私は正直、先生の言うのも理解できてしまった。比奈の学力はけして高いとはいえない。良くて平均の少し上くらいだったと思う。一方で南高はここらへんでも偏差値が高くて、難関大合格者も少なくない高校だった。


「でもあそこ、剣道部ないんじゃなかった?」

「うん。そうなの。剣道も続けたいんだけど、それ以外のことにも挑戦しようと思って」

「挑戦?」


 広い場内に、ぽつんと二人、少し声を大きくしなければ届かないような距離で、二人は向き合っている。


「そう、挑戦。いままで将来なんてあんまり考えてなかったんだけどね、段々そうもいかないなあって。勉強もしないとって」


 比奈はゆっくりと顔を上げて、私の目を見た。日差しが掛かって薄く光る茶色の瞳に、私は何も返せなくなった。


 将来のこと、私は考えたこともない。とにかく今を生きることに必死で、精一杯で、未来に目を向ける余裕が無い。恐らくは比奈もこうだった。けれど、私たちはもうそういうことを考えなければならないところに立っているのだろう。今までのように、誰かがなんとかしてくれる日々は、きっと気づかないうちに、いつの間にか、あっという間に終わる。


「まだ練習続ける?」


 比奈は私のほうに近づいてきて、そっと私の手を握った。


「ううん。もう帰る」

「じゃあ帰りながら話そうよ。着替えちゃおう」


 頷いて竹刀を片付け、更衣室へと入る。それで、私はこわごわ後ろを振り返った。


「……どうして入ってくるの」


 なぜか彼女まで一緒に入ってきていた。比奈はすでに制服に着替え終わっているのだから、外で待っていればいいのに、更衣室の扉を後ろ手で閉めながら、私のことをじっと見つめていた。


「えー、だめ?」

「だめっていうか……」


 着替えにくい。夕焼けと闇は混ざり合い、更衣室の上の窓から、ぼんやりとした明かりが私たちに届く。


「じゃ、手伝ってあげる」

「えっ」


 手伝うも何も。剣道の服装なんて、着る時は苦労するけど脱ぐのなんて一瞬で終わるのだ。断ろうとするや否や、その暇もなく彼女は私の袴の紐を解き、手を腰に回してそれをゆっくりと緩めていく。すとんと袴が落ちると、私は上の道着だけになってしまう。裾が長いおかげでショーツは見えていないけれど、彼女はその道着さえ解くようだった。


「何度も一緒にお風呂入ってるんだから、これくらい恥ずかしがらなくていいのに」

「……それとこれとは、違う」


 そういう私の顔を、一瞬上目遣いに見つめて、比奈はなおも手を動かし続けた。私は比奈の顔を見られず、彼女のなすがままにされながら、そっぽを向くことしかできなかった。道着の下だと蒸れるから、ブラは付けてない。それなのに、彼女は私から道着さえ取り去る。もはや私はショーツだけで、結城比奈の前に裸体を曝していた。


「いいな、おっきくて。私なかなか大きくならないから……」

「ねえ、もう服着たいんだけど……」


 彼女はどこか放心しているように、私の身体を眺めていた。すっと指が胸に触れる。


「比奈……?」


 つーっと、這うように、半紙を筆が撫でるような感覚に、高い声が漏れそうになった。静かで、広い剣道場の、狭い更衣室で、セーラー服の彼女は頬をほんのりと朱にして、それで、私の身体を、いやらしく触っている。


「比奈……!」


 ぐっと彼女の肩を押して、私は比奈から勢いよく離れた。


「へっ、あ、えっと……ごめんごめん」


 驚いた顔をした比奈はいまだ頬を染めながら、私が身体を隠すのを見ていた。とめどない恥ずかしさが私を覆う。比奈は慌てて手を振って、誤魔化すみたいに笑った。


「わ、私外で待ってるね。早く着替えちゃってね」


 そう言い残して、彼女は静寂が包む剣道場を、足音を響かせて、逃げるように出て行った。


 なんて勝手な人なんだろう。触れられた部分が熱を帯びて熱い。同じ場所を自分でなぞると、なにも感じなかった。比奈に触られたから熱いのだとその瞬間気付いて、顔まで熱くなった。


 それで、もし、と思う。


 もし、私があそこで止めていなかったら、彼女はいつまで、どこまで、私に触れ続けていたのだろう。


 * * * * *


「おまたせ」

「待ってた。さ、帰ろ」


 夕焼け空の下を、二人で歩き始める。比奈はさっきのことなどもう忘れ去ってしまったかのように振舞っていた。それなら私も考えていたって仕方ない。二人で同じ制服を着て、じわり暑い空の下を歩く。


 不意にランドセルを背負った小学生が目の前を駆けていって、あんな時代もあったものだと懐かしい気持ちが蘇った。そういう記憶も、結城比奈が持ってきたものだ。この人がいなければ、私はいまどんな灰色の生活を送っていただろう。


「南高に行ってやりたいことがあるって言ってたよね」

「うん」

「将来のこと、なんも思いつかなくて。比奈の話、聞きたい」


 比奈は上目遣いに私のことを見て、少しだけ微笑んだ。


「いい大学に行きたいの。できれば、都内の。いい大学に行って、いい仕事について、たくさんお給料貰って、はやくおばあちゃんを楽にしてあげたい。もうずいぶん歳をとってるのに、私がいるせいで全然休めてないから」


 そっか、と私はすぐに納得できた。おばあちゃんのことを考えて、進路を導いたんだ。


「……そっか、すごいね。うーん、すごいっていうのは、なんか変かな。誰かのためにがんばれるって、なかなかできないことだと思うから、羨ましい」


 彼女の強い眼差しを見て、切にそう思った。思えば、私には信念も目標も、何もないのだ。


「私には、咲良ちゃんのほうがずっとすごく映るよ」

「どういう意味?」


 問うと、比奈は顎に人差し指をやり、茜色の空を見上げた。向こうの方に、じっと動かない入道雲がある。その影と白が調和して浮いているのが、私には不思議なことのように思えて仕方がない。


「咲良ちゃんはなんでもできるでしょ。もちろん最初からできるんじゃなくて、誰に何言われるわけでもなく努力ができる。私には、こういう目標がなかったらできないもん。お勉強は小学生の頃からずっとできるし、剣道もがんばってて、今じゃすっごく強くなってる。すごいなあって。咲良ちゃん見てると、私がんばれるんだ。――ねえ」

「ん?」

「もし私が、本当に南高に行けたら、きっと咲良ちゃんも追いかけてきてくれる?」


 私は彼女の方も見ず、頷いた。もとより、そうするつもりなのだった。南高でなくても、どこでも。彼女が行くところに私は行く。


 比奈はさっき、何もなくても私が努力できると言ったけれど、そうではない。勉強をするのは、他になにもすることがなかった小学生の時からの習慣以上のなにものでもないし、剣道をするのは、比奈がいるからに他ならない。


 そうでなくてはならないのだ。今日から君は私の弟子だと、結城比奈が滑り台の上から言い放ったあの時から、私がそうするという運命は、決まりきっているのだから。

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