逝去
劉備どのは諸葛亮どのに支えられて半身を起こしていた。
「今、何と仰いましたか。」
「何度も言わせるな。私が死んだら、そなたが皇帝となり蜀を守れと言ったのだ。」
私は驚いて足を止めた。聞き違いかと思った。聞き捨てならない、不穏極まりない言葉だ。
「馬鹿なことを!」
諸葛亮どのが劉備どのに声を荒らげるのを初めて聞いた。
「殿は死にません。蜀は殿の国で、皇帝は殿しかいません。二度とそのようなことを口にしないで下さい。」
「私ではなくそなたの国だ、孔明。」
病人とは思えぬ強い口調が返ってきた。
「私の国ではない。皆そなたが殺したではないか。私が愛した者たちを、皆。」
細い息を絞り出すように劉備どのは言った。
責める調子はなかった。悲しみだけが満ちていた。私は息をすることも忘れて劉備どのを見つめた。
劉備どのは知っておられたのだ。
自分の愛する者が次々と殺されていくのを見ながら、この方は、諸葛亮どのを傍に置いておられたのだ。
諸葛亮どのは蒼白な顔をしていた。劉備どのがそこまでご存じだとは思わなかったようだ。
人好きのする仮面に惑わされがちだが劉備どのは鋭い方である。皮膚感覚が鋭いというのか、動物的な勘で何度も死地を脱してきた。気性も烈しい。
「言い訳しないのか。」
「言い訳など…事実ですから。悪いとは思っていません。」
諸葛亮どのは蒼白な顔を上げた。怜悧な瞳には強い意志が見える。劉備どのは呆れたように深い息をついた。
「少しは悪いと思え。」
もっと怒りを見せるかと思ったが、劉備どのはそれ以上追及しなかった。以前から思っていたが劉備どのは諸葛亮どのに甘い。寵愛した臣を何人も殺されているのに、結局は許してしまうほど。
これがお二人の絆だというなら、私は…。
「間違っても、後を追おうなど考えるな。」
諸葛亮どのははっとしたように目を見開いた。
やはり鋭いお方だ。そして残酷な。ご自分のいない未来を、私にも、諸葛亮どのにも、生きろと言うのだから。
諸葛亮どのは俯き、唇を噛みしめた。
「…何年ですか。」
長い沈黙の後、諸葛亮どのがようやく口を開いた。
「何年生きればいいですか。殿のいない世を何年生きれば、おそばに行かせていただけますか。」
有無を言わさぬ口調だった。諸葛亮どのの静かな気迫に気圧されたように、劉備どのは答えた。
「…十年。」
十年、と諸葛亮どのは繰り返した。
「十年たったら、おそばに参ります。逃げないで下さいね。」
諸葛亮どのの声に安堵が混じったような気がした。期限を切ったことで安心したのかもしれない。
気持ちに余裕が生まれたのか、諸葛亮どのの声にやわらかさが戻った。
「ですが私に皇帝とは、無茶を言いますね。」
劉備どのは少し考えてから答えた。
「…では禅に才徳があれば補佐せよ。なければそなたが皇帝になれ。」
この答えに譲歩の意味はない。劉禅さまを傀儡にせよと言っているようなもので、諸葛亮どのに全権を委譲する意味合いは変わらない。
しかし諸葛亮どのは深く頷いた。
「死ぬまで臣として節義を尽くします。」
諸葛亮どのは劉備どのの手を握りしめ、透明な涙を流した。
「約束します。我が君も、約束して下さい。」
私は一言も声をかけることができず立ち尽くしていた。入り込む隙などあるはずがなかった。
私は無言で室を出た。
「趙将軍。」
回廊の窓からぼんやりと外を見ていた私のもとへ、諸葛亮どのがやってきた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。私も殿も、少し気が立っていたようで。」
諸葛亮どのは頭を下げた。
「今は殿も落ち着いておられます。どうぞ中へ。」
「丞相。」
私は外の庭園に顔を向けたまま、諸葛亮どのの顔は見ないで言った。
「私は若いころから殿にお仕えしてきました。」
「…趙将軍?」
「張飛将軍と関羽将軍を敬愛していましたが、本当は嫉妬していました。ずっとあのお二人に勝つ方法を考えていた気がします。」
頬に諸葛亮どのの視線を強く感じたが、あえて無視した。
「お二人に勝つ唯一の方法が、お二人よりも長生きすることでした。一日でも長く、殿のおそばにいられますから。」
私は諸葛亮どのに顔を向けた。無意識に微笑が浮かんだ。他人からよく爽やかだと言われる微笑だ。
「私のささやかな勝利です。」
戦略は正しかった。最後に残ったのは私だった。先に逝かれてしまうことになっても。
「いろいろなものを捨てたら楽になりました。いろいろなものを捨てないと、殿のそばにはいられないんです。」
諸葛亮どのの顔に何ともいえない色が浮かんだ。同じことを考えていたのかもしれない。
「あなたもお捨てになってきたのですね。」
人としての良心や節義や罪悪感や。
この方はどんな思いでご自分の手を汚してこられたのだろう。
諸葛亮どのはしばらく黙って私の顔を見つめていたが、やがて瞑目した。
「そうかもしれません。でも、私にはどうでもよいことです。」
「そうですね。」
私は劉備どのの室には行かないことを告げた。もう十分だと思った。
諸葛亮どのはそれ以上勧めず、劉備どのの待つ室に戻って行った。
四月の庭園は明るく、木々の緑はやわらかな春の日差しにあふれ、以前劉備どのと歩いた寒空が嘘のように暖かい光に満ちていた。
四月癸巳、劉備どのは逝去された。