遠い記憶
不思議と私の心は平静だった。何故だろうと考えて、ああ、と思い当った。
――劉備どのが生きるなら生きる。死ぬなら死ぬ。
とっくに私の心は決まっていたのだ。劉備どののいない未来は私には来ない。だからどちらでもよい。
劉備どのの体を支えながらゆっくりと歩く。風は染み透るような冷たさだが、触れている身から伝わる温かさは熱いほどに感じられた。二人でこうして身を寄せて歩くなど、初めてではないだろうか。
日差しがあるうちはそれでも幾分暖かかったが、歩いているうちに陰ってしまった。
何でもない風を装っていたが、劉備どのの息は細く苦しさを増してゆく。本当はもう限界なのだろう。
「座りましょうか。」
池のほとりにある縁台に私たちは腰を下ろした。中央に朱塗りの橋のかかる、小さいが風情ある月見の池である。窪地になっているためここならば風も幾分遮られる。柳が風を受けて揺れていた。
「子龍。」
劉備どのは崩れるように私の肩にもたれかかり、私の名を呼んだ。
「そなたと二人で話がしたかった。こんなところまで、すまぬ。」
私は首を振った。劉備どのは私に謝る必要など少しもない。私が劉備どのと一緒にいたいのだ。
劉備どのは目を閉じ、苦しい息を吐いた。
「私の子を…阿斗を頼む。」
「あと?」
鸚鵡返しに聞き返して、それが嫡子、劉禅さまの幼名だと思い出した。長坂で私がお救いした劉備どのの大事な御子だ。今年で二十五歳になられる。
あの時劉備どのは阿斗さまを投げ捨て、私が死ななかったことが嬉しいと泣いてくれた。
私は子供が嫌いだ。赤子も嫌いだ。だが阿斗さまだけは可愛いと思えた。常に優越感を持てるからだ。劉備どのは私の本心に気づいているのだろうか。
「だから、死んではならぬ。」
「!」
予想外の言葉に、私は思わず劉備どのの顔を見返した。黒目がちの瞳が透明な光を湛えて私を見ていた。
何と残酷な方なのだ。この方は。
「…嫌です。」
劉備どのの唇が震えている。
「私も一緒に行きます。」
吸い寄せられるように、私はその唇に自分の唇を重ねた。
予想した抵抗はなかった。
全身の力を抜いて私に身を預けてくる劉備どのの体は熱く、頼りなく、全くの無抵抗だった。
不意に身の内から熱いものがこみ上げて来た。長らく押し殺していた衝動だった。
私は手を伸ばし、劉備どのの頬を挟んだ。最初は羽のように軽く合わせ、もう一度、今度は深く口づけた。
抱きしめた劉備どのの体はひどく熱かった。
遠い記憶が蘇った。以前にも同じようなことがあった。あの時は…。
公孫瓉の陣に劉備どのが現れた時のことを、私は今でもはっきりと覚えている。
あの頃は切ない願望に身を焦がしていた。叶わないものと知っていたら、もっと早く思い切れたのだろうか。
私は公孫瓉に助力はしていたが、自分の力を過信し、主などいつでも乗り換えられると思っていた。その過信を打ち砕いたのが、張飛どのと関羽どのだった。そして彼らを従える劉備どのに会った時、私は、主とするのはこの方しかいないと悟った。理屈ではなかった。
しかしその願いはかなわなかった。
「子龍どのは広い世をいまだご存知ない。私だけでなく、もっと多くの人物に会うべきです。」
劉備どのはそう言ってやんわりと私を拒絶した。私は多くの人物になど会う気はなかった。劉備どのでなければ駄目だと迫った。もう既に、この方に恋をしていたのだ。
劉備どのは困った顔をされたが意思を曲げてはくれなかった。
「明朝ここを発ちます。申し訳ないが、今の私に子龍どのを連れて行く力はありません。」
ではせめて今晩だけでもおそばにいさせて頂けませんか。そんな無理を言って私はその晩劉備どのと同じ幕舎で休んだ。
月の明るい晩だった。
ほんのりと明るい幕舎の中で、私たちは寝ながら他愛ない話をした。劉備どのが転戦した数々の戦の話、天下万民の話、互いの故郷の話…。何故か劉備どのは自分の家族の話はしなかった。郡雄の話も、例えば世に頭角を現し始めていた曹操の話などもしなかった。
話し疲れて、少し眠っていたのかもしれない。
ふっと意識が覚醒すると、劉備どのの長い睫毛が目の前にあった。
ほどけた黒髪がひとすじ形のよい額にかかっている。濡れた唇が半開きになって規則正しい寝息を紡いでいるのを見ると、もう衝動は抑えられなかった。
息を潜めて顔を近づけ、私は唇を合わせた。
初めて交わした口づけはどこまでも甘く、ほのかに毒の香りがした。
黒目がちの瞳がひらいた。
はっとして離れようとすると、劉備どのの手が伸びてきて私の頬に触れた。
たしなめるように濡れた唇が動き――ふわりと微笑んだ。
その瞬間、心臓を素手で掴まれた気がした。もう駄目だ、この方に捕まってしまった、そう思った。
翌朝、言葉通り劉備どのは去った。私の長い放浪の始まりでもあった。
前触れもなく、目の前に影が差した。
見上げると、諸葛亮どのが、上着も着ない道服のままで私たちの前に立っていた。
「どういうおつもりですか。」
あちこち探し回ったのだろう。普段はあまり感情を表に出すお方ではないのだが、抑えた声に震えるほどの怒りが満ちているのが分かった。当然である。
諸葛亮どのは私を見ようとしなかった。意図的にいないものとみなしているようだった。
「孔明、私が子龍に無理を言ったのだ。悪いのは私だ。」
劉備どのには答えず、諸葛亮どのは私から奪い取るように劉備どのの体を抱え上げた。手出しできぬほどの剣幕だった。一緒に支えようとするとぴしゃりとはねつけられた。
「一刻も早くお戻りください。話はその後で。」
諸葛亮どのの腕に抱かれたとたん、緊張の糸が切れたように劉備どのは気を失ってしまった。
諸葛亮どのが足早に去っていく。呆気なく、劉備どのは私の手から離れてしまった。
ふと、いつから諸葛亮どのはいたのだろうかと私は思った。先ほど触れた諸葛亮どのの体も、氷のように冷え切っていた。薄着のせいだけだろうか。もっと前から見ていたのでは…。
私は頭を振った。諸葛亮どのが劉備どのを見つけてすぐに声をかけないわけがない。
私は空っぽになった腕を眺めた。たった今まであった温もりは、あっという間に寒空に溶けていった。