故郷の風
もう劉備どのは死を望む言葉を口にしなかった。
諦めたわけではないのかもしれないが、私では駄目だと思われたのかもしれない。
劉備どのの願いならどんなことでも叶えて差し上げたい。しかしこの願いだけは別だった。
沈黙に耐えかね、私は窓辺に足を向けた。丸い木枠の窓を開けると、思ったよりも冷たい空気が吹き込んできた。
この時期は寒暖の差が激しい。数日ほどは春めいた日が続いていたのに、今朝はずいぶん冷えると宿直の兵が言っていた。季節が冬に戻ったような寒さが室内に満ち、私は慌てて窓を閉めた。
「よい。開けてくれ。」
劉備どのは寝台から身を起こしたまま、私に声をかけた。
「いえ、今日は冷えますから。」
体力の落ちた体を冷やすのは毒である。軽い冷えから命を落とした者を私は何人も知っている。
劉備どのは半ば目を閉じていた。心配したほど寒がってはおられない。
「開けてくれ。久しぶりに故郷の風に触れた気がする。」
幽州の冷涼な風を懐かしんでおられるのだと私は悟った。成都の気候は湿潤である。気候も風土も私たちの故郷とはまるで違う。
「孔明は、体に障ると言って開けてくれぬのだ。」
劉備どのの何気ない一言が、私の心をかすかに刺した。私は再び窓を開けた。
冷たくて気持ちがよい、と劉備どのは目を閉じたまま呟いた。
「しかし幽州とは比べ物にならぬな。」
「彼の地の風は、切れるほどの鋭さでございますからな。」
劉備どのの故郷と私の故郷は気候が似ている。劉備どのは懐かしそうに頷いた。故郷の風を知る者も、今は誰も残っていない。張飛どのも関羽どのも簡雍どのも。
私一人だ。
ずいぶん遠くへ来てしまった。劉備どのも。私も。
「子龍、外に出たい。」
「は?」
「今まで外出する気力がなかった。だが子龍となら出られる気がする。」
劉備どのは黒目がちの瞳をひらき、私をまっすぐに見た。
やはり魔性の瞳だ。この瞳に抗う術を私は知らない。
「今日は体調がよいのだ。外へ行こう、子龍。」
諸葛亮どのはまだ戻ってこない。
こんな寒い日に劉備どのを外にお出ししたと知れたら、諸葛亮どのに何と言われるか。
しかし私はその言葉に心が浮き立つのを感じた。病の劉備どのに諸葛亮どのが侍している今、二人で出かけられる機会などそうない。
「では、少しだけですよ。」
表面上は苦笑いを浮かべ、私は仕方なく劉備どのの命に従うふりをした。冷えぬよう入念に身仕度をしてさしあげれば、少しの間なら大丈夫だろう。
劉備どのの体を全身で支えながら、私は回廊に出た。
久しく歩いておられなかったから、足腰がだいぶ弱ってしまっている。体重も以前より確実に軽くなっている。諸葛亮どのはよく気のつくお方だが、やや過保護に過ぎるのではないか。もっとも、私が諸葛亮どのの立場でも同じことをするだろう。
やわらかな日差しに満ちた回廊をゆっくりと抜け、中庭に出た。
外はやはり寒い。昨日までとはまるで違う風の冷たさに私は後悔した。しかし歩みを止めた私の袖を、劉備どのは促すように引いた。
「大丈夫だ。今日は調子がよいと言っただろう。」
私は劉備どのの顔を見た。穏やかに笑っている。
しかし体調がよいというのは嘘だ。顔色は良くないし、隠そうとしているが時折痛みをこらえるような苦しい呼吸をなさる。昔から痛みを上手に隠してしまえるお方だった。
お見通しですよ、とは言えなかった。何より私自身が、劉備どのと二人でいられる時間を望んでいる。
諸葛亮どのが羨ましい。
私は胸に浮かんだ黒い想いを笑顔の中に沈め、そのようですね、と答えた。今日は体調がおよろしいようなので、もう少し歩いてみましょうか。
劉備どのは安心したように頷いた。
死期が近いことを、この方はもうとっくにご存じなのだろう。
この寒さに、ご自分の身が耐えられないことが分からぬお方ではない。以前は何よりも、生きることに執着しておられた方だったのに。それが眩しくて仕方なかったのに。
唐突に私は悟った。もう描くことはできないのだ。劉備どのとの未来を。