主の願い
室内は静かで、清潔で、今まで侍していた諸葛亮どのの気配を濃厚に残していた。
夷陵の大敗以来、全てを拒絶するように劉備どのは病の床についた。
無謀で、無用な戦だったとご自分を責めておられるのかもしれない。確かに無謀で、無用な戦だった。孫呉との友好は決裂し、多くの兵が死んだ。
でも私にはどうでもよかった。殿が生きていればそれでいい。
劉備どのは眠っておられた。
顔色は白い。もともと色の白い方だが、病のせいか血の気が失せてさらに青白くなってしまっている。
冷涼な幽州の出身だから肌の色素が薄いのだと、冗談交じりに聞いたことがある。私の生地、常山も、寒冷な土地柄であった。私も色素は薄い方かもしれない。
私は劉備どのを間近でじっと観察した。
――生気が、命の源が消えていく。
以前はもっと溌剌としていた。穏やかそうに見えて内に熱い激情を秘めた方であった。血の気が多いと言われた張飛将軍や関羽将軍よりも、本当は血気盛んなお方だったと私は思っている。若いころは無茶なところもたくさん見せてくれた。
意思の力でそれを抑え、泰然と振舞うようになられたのは、いつの頃からだっただろう。
ずいぶん無理をされていたのではないかと思う。
病床にある今も、どこが痛むとかどこが苦しいとか仰るのを聞いたことがない。
私は劉備どのの閉じた瞳の上に指を滑らせた。先ほど会った諸葛亮どのよりも、劉備どのの方がずっと疲れて見えた。
「子龍か。」
不意に字を呼ばれ、私は驚いて指を離した。劉備どのが、黒目がちの瞳をうっすらとひらいて、私を見ていた。
「申し訳ありません。起こしてしまいました。」
「いや、眠ってはいない。」
劉備どのは室内を確かめるように瞳を動かした。誰かを探している。
胸に浮かんだかすかな失望を押し殺し、私は穏やかな笑みを浮かべた。
「孔明どのなら少し席を外されているだけです。すぐに戻られますよ。」
劉備どのは首を振った。そうではない、と言っているようだった。
黒目がちの瞳をひたと当てて、劉備どのは私の顔を見つめた。瞳の深い色に吸い込まれそうでくらりとする。
若い頃からそうだった。劉備どのの瞳には、魔性がある。
「子龍に、頼みがある。」
水分を失って乾いた唇が、衝撃的な言葉を紡ぐのを私は聞いた。
「私を殺してくれ。」
嘘や冗談ではなかった。劉備どのはよく嘘をつく方だが、私にはそれが嘘かどうかすぐ分かった。今の言葉は嘘ではない。
戦慄が走った。
「できません。」
「孔明がいない今しかない。私の剣はどこだ。」
劉備どのは身を起こそうとしたが、肉の落ちた腕では支えきれない。私は慌てて劉備どのの体を支えた。これが諸葛亮どのならもっと手際よくお世話ができるのだろうが、私には無理だ。
「子龍にしか頼めぬ。早く。」
「できません!」
相手が病人だということも忘れ、私は怒鳴ってしまった。
劉備どのは一瞬怯んだが、瞳の強い光は消えていなかった。
「義弟たちとの約束だ。守らなければならぬ。」
同じ日に死ぬと誓った桃園の誓いのことを言っているのだと、すぐに分かった。いつも羨ましくてならなかったものだ。
とっさに、嫌だ、と思った。
ずっと胸に押し殺してきた嫉妬が胸中に溢れ、私は必死に阻止の言葉を探した。
「殿を待つ、漢の民はどうなるのです。」
しかし私の口から出たのは無味乾燥な理屈だった。
「夷陵で死んだ者たちにもまだ詫びていません。殿は、生きて成都に戻り国を立て直さなくてはなりません。」
知らず語調がきつくなった。義兄弟のもとに劉備どのを渡すくらいなら、諫言で憎まれた方がいい。怒らせるほど強く言わなければ、死を翻意させることなどできない。
怒るかと思ったが、劉備どのは怒らなかった。
「…孔明と同じことを言うな。」
劉備どのは諦めたように視線を下に落とした。
諸葛亮どのと同じと言われ、私は頭がすっと冷えていくのを感じた。諸葛亮どのも、私と同じことを言ったのだ。
――ああ、あの方も、羨ましいのだな。
私は初めて、諸葛亮どのに、同じ気持ちを持つ者の親しみを覚えた。ほんのわずかなものだったけれど。