死の床
あの方は今、死の床にある。
そう思っても現実感が伴わない。ほぼ半生をともに過ごし、全身全霊を捧げた相手がいなくなるなど、考えられないし考えたこともなかった。
あの方の一番近くには、いつも私ではなく別の人間がいた。
初めて出会った時からそうだった。出会った時も、そして今も、あの方の一番近くにいるのは私ではない。
あの方が死ぬ。現実感が全くない。
あの方が死んだら私は、一体どうなるのだろうか。
「趙将軍。」
回廊の向こうから歩いてきた諸葛亮どのが、私を呼んだ。現在、あの方の一番近くにいる人間だ。
義兄弟だった張飛将軍、関羽将軍は今は亡い。幼馴染で親友だった簡雍どのも他界した。今、あの方の一番近くにいるべきは私のはずなのに、私ではない。
諸葛亮どのはひどく憔悴していた。自分ではそうは思っていないようだが、あの方が病に倒れてからの窶れ方は尋常ではない。決して多忙のせいだけではない。このままでは諸葛亮どのまで倒れてしまいそうである。
しかし諸葛亮どのが倒れようと倒れまいと、私にはどうでもよいことである。
「申し訳ないが、少し殿のおそばを離れます。殿をお願いできますか。」
諸葛亮どのは、殿が伏してから昼夜を問わず傍につききりである。いつ寝んでいるのか分からない。そして、成都で仕事が山積みになっているというのに、いまだ白帝城から帰国しようとしない。
先ほど諸葛亮どのを訪ねて成都から使者が来ていた。その対応に向かうのだろう。
さっさと帰ればいいのに。
私は頷き、諸葛亮どのに心配そうな表情を作って言った。
「丞相、お顔の色がすぐれませんね。お疲れなのではないですか。」
諸葛亮どのはふっと微笑んだ。やはり疲労の色が濃い。
「ご心配ありがとうございます。ですが、私なら大丈夫です。」
では、と美しい所作で立ち去る諸葛亮どのの後ろ姿を見送って、私は苦い息を吐いた。
諸葛亮どのは嫌いだ。
理屈ではない。本能的なものである。
理由は分かっている。あの方が選んだのが、諸葛亮どのだからだ。
諸葛亮どのに会う前も、あの方の心は別の人間が捉えていた。諸葛亮どのに会う前も会った後も、私の入る隙間はない。
何故、私ではないのだろう。
私は諸葛亮どのの出て来た室に足を向けた。城で一番日当たりのよいその室には、今、あの方が伏している。
私の唯一の主君、劉備玄徳どのが。