47.片翼のブテリュクスはダンザックを抱き締める。
ダンザックはマルマロスの背から投げ出され、落馬の衝撃に備えようと、咄嗟に体を丸めた。
しかし、あるはずの衝撃は無く、ダンザックの体は霧の中を下へ下へと落ちてゆくばかりだ。
落ちている間、ダンザックは死を覚悟した。これほど落ちていれば、地面に打付けられた時、体が無事に済むはずが無い。
そうして、いっそ気でも失った方が良いのかもしれないな、などとやけに冷静な考えを浮かべつつ霧を払い落下するダンザックは、ふいに宙ですくい上げられた。
バサバサという大きな羽音に、ダンザックは頭上を仰ぎ見て目を凝らしたが、その羽音の主は霧の中に霞んでいるせいで、よく見えない。
「鳥──? いや、まさか──お前はデュシスのアルブか!?」
ダンザックの問いかけに、翼を持つ影が笑い声をあげた。
「私がアルブだって? バカなことを言い出す奴だな。お前、ドラゴニュートを知らんのか」
霧は晴れ──というより、霧の立ちこめる上空から下へ抜け出ると、一筋の朝日がダンザックの顔に射した。
ダンザックが水の音だとばかり思っていたのは、流れ落ちる砂だった。
岩山の間から射した朝日に照らされて、砂の滝が金色に輝きながら深い谷に流れ落ちている。
そこは蒼い岩山がそそり立つ、深い深い渓谷だった。
「なんだお前、よく見ればダンザックじゃないか!」
ダンザックを救った翼を持つ男は、そう言って驚きの声を上げたが、ダンザックは男に全く見覚えが無かった。
谷底の草地には、野の花が咲き乱れ、両脇に聳える蒼い岩山の麓では桜や林檎、桃の花が薄紅色に咲き誇っている。岩山には赤や黄色に紅葉した楓が覆い、その遥か上空を、真っ白な濃霧が谷を包み込むようにして漂っていた。緑青色に苔むした大きな岩場の間を瑠璃色の川が滔々《とうとう》と流れ、川面には鮮やかな落葉と薄桃色の花びらが浮かんでいる。
「ここは? 君はいったい……」
2人は谷底に降り立った。
ダンザックは自分が落ちて来た砂の滝が流れる崖を振り仰いだ。
あのまま落ちていれば、体が無事で済まないどころか、粉々になっていただろうと思われる高さだ。その断崖によくよく目を凝らすと、紅葉した樹々の葉影に、幾つもの白い石造りの美しい屋敷が張付くようにして建っている。
ここは死んだ後に辿り着くという天の国だろうか。この翼の生えた人物は、いったい何者だろう──
「随分と他人行儀だな。ダンザック、お前ふざけてるのか? 私だよ、エイライムだ」
明るい空のような髪色をした大男は、ダンザックの肩を小突き、カラカラと笑った。
体は大きいが、年の頃は20代そこそこという頃だろうか。ダンザックよりもひと回りほど若く見える。
背中には大きな翼を生やし、白く艶やかな肌はアルブのそれと似ていたが、頬から耳にかけて髪や翼と同じ色の、羽毛のようなものが生えていた。
「すまない。私には本当に会った覚えが無いんだが」
ダンザックがそう告げると、エイライムと名乗る男の顔から笑いが消えた。
「本当に? 私を覚えていないと言うのか。お前、ダンザックだろう?」
「確かにそうだが。しかし君のことは本当に思い当たらないんだ」
「親は商人で、妹と弟がいたよな……エウネメスと……弟はなんていったかな」
エイライムは顎を指先で捻りつつ、記憶を辿るように夜空の色をした大きな瞳を宙に漂わせた。
「いや、私に弟はいないよ。確かに妹はエウネメスと言うが……」
「そうだおまえ、ブテリュクスのことならまさか忘れていないだろう?」
エイライムはそう言って有無をいわせず、ダンザックの腕をがっしりと掴み、宙を飛んで川の向こう岸へと渡った。
「ブテリュクス! ダンザックが来たぞ!」
「エイライム様、ダンザックって、本当ですか!?」
勢いよく白亜の屋敷の中から飛び出して来た男は、ダンザックを見付けて抱きついた。
ブテリュクスと呼ばれた男も背中に翼を生やしていたが、右側の翼は引きちぎられたかのように、羽毛で覆われたこぶし大の塊が残っているだけだ。
「それがなあ、ダンザックは私の事を知らんと言うんだ。お前の事なら判るかと思って連れてきたんだが」
エイライムは申し訳なさそうにそう告げると、ブテリュクスは顔を引き攣らせた。
「なんですって? 俺だよ、ブテリュクスだ。お前の親友でお前の妹の婚約者だ。俺の事、わかるだろう?」
ブテリュクスはダンザックの両肩を抑えて、瞳の中を覗き込んだ。