45.バアルは霧の中で怯えるライナスを追いつめる。
バステトはオゾスとルビニを連れて、ノトス坑道の奥へと入って行った。
オゾスからクロススの花を受取ると、バステトは薄布が垂らされた分岐の手前で2人を待たせ、1人ジェロの入っている鉄格子へと近付いた。
格子の中にクロススの花を投げ入れると、やはりジェロは苦しそうに呻いたが、それが治まると目を開けて、バステトへ静かな眼差しを向けた。
「大丈夫?」
バステトが小声でたずねると、ジェロは敷物の上に座って無言で頷いてみせた。
「オゾス! ちょっとこっちへ来て!」
「──なんだ? 狼じゃないか! どうしてこんな所に……!」
オゾスは鉄格子の中にいる服を着た狼を見て、少し後退りした。
「大丈夫。この狼はジェロが飼ってるの。人に慣れているから危険は無いわ。そこの鍵を開けて」
バステトが鉄格子の鍵を開けるように言うと、オゾスは戸惑いながらも従った。
「それとクロススの花をこの狼に、しっかりと落ちないように結わえ付けてくれる?」
「狼除けを狼に?」
「悪いけど、説明してる時間は無いの。お願い」
オゾスは言われた通りにクロススの花をジェロの首へ、自分の腰帯を使ってしっかりと結わえ付けた。
鉄格子から出たジェロは長剣を口にくわえて鞘から抜き出すと、バステトに付いて来るよう目で合図して、坑道の石段を駆け上って行った。
「あなた達はアイルーロスの丘で待ってて!」
呆気にとられるオゾスとルビニへそう言い残し、バステトはジェロの後を追って行った。
ライナスはバアルを見た途端、一瞬にして背筋が凍り付く思いがした。
遠目にはセオと変わりがないようにライナスにも見えたが、近付いてみるとどこがどうとは説明し難いが、異様さをはっきりと感じる。
肌や瞳の色の違いや姿形とは関係無く、何かもっと別の目に見えない大きな隔たりがあるのだ。
身の毛もよだつというのはこういうことだと、ライナスは身をもって感じていた。
菜園の中から飛び出した時には、ライナスはセオの兵士を撒いた後、すぐにアイルーロスの丘へ戻るつもりだった。しかし兵士達の前に躍り出た時、話はそう簡単ではなかったことをライナスは悟った。
辺りに濃い霧が立ちこめてもなお、その異様な雰囲気を持つ兵士が、ぴったりとライナスの後を追っている気配が感じられる。
ライナスにはドクドクと脈打つ自分の鼓動が、けたたましい警鐘のように響き渡っているような気がした。
(鎮まれ! きっとあの男は、ぼくの鼓動を追って来ているんだ──!)
ライナスは怯え、もがくように霧の中をただ無我夢中で逃げた。自分が空を飛べる事など、何の強みでも無い気がしてくる。
(そうだ、初めからやつらは“翼を持つアルブ”を追っていたんじゃないか……!)
ライナスの脳裏に不安や恐怖や絶望が過る度、湿り気を帯びた翼が鉛のように重く感じられるようになっていった。
「──もう逃げるのは諦めたのか?」
ライナスのすぐ背後で、男の嗄れた声がした。
驚いて振り向くとライナスの肩口で、薄気味の悪い兵士がぬっと霧の中から顔を出した。
兵士の薄い唇が、嘲るように歪んで笑いかける。男は翼も無いのに、宙に浮かんでいたのだ。
ライナスは恐怖に体を強張らせ、翼を動かすことも忘れた。
バキバキと音をたてて林の中へ落ちてゆくライナスの後について、兵士もゆっくりと地面へ降り立つ。
どさりと下草の上へ尻餅をついたライナスに、兵士は覆いかぶさるようにして顔を覗き込んだ。
「私が怖いか? ライナス。そうだ。お前は私から逃げられない」
「なぜぼくの名を? お前は何者だ?」
「私はバアルだ。よく覚えておけよ? お前を救う者の名だ」
バアルは優しく諭すような調子でライナスの頬に指を這わせた。
バアルの指先からは蒼白い光が発せられ、ただ触れられただけなのに、頬がヒリヒリと痛む。
「このまま私とメソンに帰れば、その命を救ってやると言っているのだ。どうだ、お前もさぞ、命は惜しかろう?」
そう言いながらバアルの細長い指はゆっくりと、ライナスの頬から喉元へ滑っていった。