35.ログロッタのジェロは旅への同行を逡巡する。
バステトとルビニが家の裏手にある菜園からトウモロコシとトマトを摘んで戻って来た丁度その時、丘の方からエルトロが背の高い斑髪の青年と連れ立って、水汲みから帰って来るのが見えた。
エルトロの家の戸口の前でふざけながら、盛大に粉塵の煙をたてていたライナス達も、エルトロとジェロに気付いて、互いの服についた粉をはたく手を止めた。
バステトはジェロを一目見て、彼もプラグマ・クレイスの1人だと確信した。
斑の髪とは聞いていたが、染分けたようなジェロの髪は、実際に見ると確かに特別に見えた。
背丈はライナスと同じくらい。しかし、線の細いアルブとは違うがっしりとした体躯は、ジェロをひと回り大きく見せていた。両手にぶら下げた水桶が滑稽なほど、ジェロの体には小さく感じられる。意志の強そうな目は濃い睫に縁取られ、ハシバミ色の瞳には金色の虹彩が煌めいていた。
朝食を終えた後、ジェロとその両親へ改めて旅の経緯とその目的が話された。
「とても信じられない話でしょうけど……」
そう最後に呟くと、バステトはじっとジェロの答えを待った。
外からは軽やかな小鳥のさえずりが聞こえて来る。
バステトは、ジェロから信用されないことを覚悟していた。
ライナスの時はディオニーサスと、ネフリティス翁が以前から知合いであったため、旅へ連れ出すのは割に容易だった。そんなライナスでさえ、この旅の意義に疑問を持ち始めている。
オゾスとステルコスが助けてくれたのも、ライナスと2人が以前から懇意だったおかげだ。
ルビニが旅に付合ってくれたのは、ステルコスとオゾスを以前から客として知っていたのと、密かにオゾスへ好意を持っていたためだと、昨夜になってはっきりと判った。
エルトロとコキニーに至っては、未だに信じているのかどうかも疑わしい。
きっとただ、ジェロを心配して戻って来ただけだ。
バステトにはジェロがどんな力を持っているか、提示する事も出来ない。
ライナスと同じ真実の鍵だとしても、ホランコレーでなければバステトの真の姿は認識できないのだ。
この褐色の肌をした山羊使いの青年は、どんな答えを出すのだろう。
トルル族の老夫婦に育てられ、平和なテロス大地の端で暮らすセオの青年は、やはりエターダムの危機等知った事ではない、神など消えても自分には関係が無いと言うのだろうか。
バステトは自分の無力を思うと歯痒かった。
女神だというのに、守護すべき真の王がいないせいなのか、自分には何の力も感じられない。
みんなが言うように、今の自分はただ話せるだけの小さなケイトシーでしかない。
「……信じるよ。きっと俺が、そのログロッタってやつだ」
ジェロは顔を上げて真直ぐにバステトを見つめると、そう言って沈黙を破った。
「ジェロ!」
エルトロとパパルナが、同時に叫ぶ。
「俺、交易市へ一緒に行きたいって父さんと母さんに言っただろ? あの日の昼間に幻影を見たんだ。父さんと母さんが、メラース川に落ちるのを。けど、俺が交易市に行きたいって言ったから、心配して母さんは残った……」
ジェロはパパルナの手を握りしめて続けた。
「その幻影では、母さんがオストリスに引き摺られて落ちたんだ。それを助けようと父さんが足を滑らせた。父さんは翼のあるアルブの少年……そこにいるライナスに、助けられたのも見た。けど、母さんは誰にも助けられずに川の底へ……だから俺、母さんを助けなきゃって思って、どうしても一緒に行きたかったんだ。本当は2人を止めたかったけど、そんな事は無理だろう? 幻影を見たなんて言っても、きっと信じてもらえないと思ったんだ」
「真実を乗せる舌、か。先に起こることを見て、話す事ができる力。ってとこだな」
オゾスが感心したように呟く。
「じゃあ、すぐに出発──」
「それは、できない」ライナスの言葉を遮ってジェロはきっぱりと言った。
「なぜ? 信じてくれるんでしょう?」
バステトは気落ちした声で懇願するように言う。
「信じてる。それでも、一緒に行く事は出来ないと思う。とにかく、今日は絶対に無理だ」
「明日ならいいの? それなら待つよ」すかさずライナスが言う。
「それは俺だけじゃ決められない……決めるのは君たちのほうだ」
ジェロはそう言うと、もの悲し気な笑顔を浮かべた。