29.猫の女神と翼を持つアルブは川辺の町で罵り合う。
エルトロが部屋を出て行った後、ライナスはしばらく手のひらを見つめていた。
思いのほか強く握りしめていたのか、小さな三日月型の跡が残っている。
「すっかり警戒されちゃったな」オゾスは溜息まじりにつぶやく。
「でも、何か隠してるみたいね。本人に会ってみなくちゃ。親の許しは、必ずしも必要ってわけじゃないわ」
そう言うバステトも、苦々し気に小さな溜息を漏らした。
「エルトロさん、どうかしたんですか?」
部屋に戻ったばかりのルビニとコキニーは、身の置き所が無い様子で、扉の前に立ったままオロオロしている。
「俺たちに関わると、ろくな事にならないって思われちまっただけさ」
オゾスはそう言って、ルビニへ笑ってみせた。
「そんな……私、ちょっと行って来ます」
「女性がこんな遅くに1人で外へ出るものじゃないよ。どうしても行くなら、僕も行く」
ルビニとコキニーはエルトロを追って部屋を出ていった。
「こういうの、親父ならうまくやれるんだろうけど……連れてくりゃ良かったぜ」
オゾスは寝台の上に身体を投げ出して天井を見上げた。
「……ライナス? どうかしたの?」
ライナスは身じろぎもせずに口をきつく引き結んでいた。
少し間を置いてゆっくりと顔を上げたライナスは、どこか虚ろな目でバステトを見つめる。
「ねえ、バステト。ぼくは本当にホランコレーなのかな? どうしてぼくはセオの兵士に追われているの? 13年前の記憶は、どうしても思い出さなくちゃ、いけない?」
ライナスの抑揚の無い声には、はっきりと不安が滲んでいた。
「何を言い出すのよ……決まってるじゃない」
「だって、13年以上前のことなんて、今のぼく達に何か関係がある!? ホランコレーって言ったって、ぼくにだけバステトが女の子に見えるから、それがなんなの? セオの兵士なんて、ぼくは知らない! ずっとぼくがデュシスに居れば、皆が安全に暮らせてたんじゃないの?」
ライナスは声を尖らせて、感情的に喚いた。
「私が悪いって言いたいの? 私にも、ディオみたいに消えろって!? そうよね、あなたには全部どうでもいいことなんだわ!」
バステトも声を張り上げる。猛烈な怒りに体が震えて、目には涙が滲んでいた。
「そんなこと言ってないだろ!?」
「もう2人とも、いい加減にしろよ!」オゾスは立ち上がって、足を大きく踏み鳴らした。
エルトロは宿屋の外へ出ると、広場に置かれた岩の縁台に腰掛けて、夜空を見上げた。
少しだけ西へ傾いた小望月が、薄い雲に見え隠れしている。
「ジェロ……」
エルトロは息子の名を呟いた。
初めて息子を抱き上げた時のことを、エルトロは思い出していた。
傷だらけで、浅い息の、小さなセオの子供を見付けた時のことを。
あの時はただ、今にも消え入りそうな命を見捨てられなかっただけだった。
パパルナが、自分達の息子として育てようと言い出した時には反対さえした。
それが今、自分にとって、どれだけ大きな意味をもたらす存在となったことだろう。
「エルトロさん」後を追って来たルビニが、心配げに声をかける。
「ルビニ、コキニー」エルトロは振り返ると、力無く笑った。
ルビニはエルトロの隣に腰掛ける。
「ジェロのこと、私があの人達に話したんです」
薄い雲が風に流されて、ルビニの顔に月明かりがさした。
「特別な力が、あの子にあるって?」エルトロは首を横に振る。
「それは判りませんけど。あの人達、王都メソンの兵士に追われてるんです」
それを聞いて、エルトロはぎょっとして目を見開いた。
「そんな危険な人間にあの子のことを──!」
「待って下さい。エルトロさんも見たでしょう? 翼があるアルブの少年。あなたを川から引き上げた……追われているのは彼なんです。兵士に追われるような、悪い人に見えます? 私にはどうしても、そうは見えません。あなたのように、命を助けられたわけではないですけど」
ルビニはエルトロへ、諭すような優しい笑顔を向ける。
穏やかなその表情に、迷いや怯えは無い。
その名前が示すように、月明かりに照らされたルビニの赤い瞳は、宝石のように澄んだ輝きをたたえていた。
「彼らは、私が知らせるまで、兵士に追われるとは夢にも思っていない様子でした」
「どうして、彼らは追われているんだ?」エルトロが尋ねる。
「さあ。それは想像するしかないですけど。あの言葉を話す妖精猫……バステトさんは、メソンの真の王を守る女神様だって言っていました。彼等が探しているのはその真の王である可能性を持つ人だとか。あの翼があるアルブの少年も、その1人だと聞いています。それで、女王が追手を差し向けたんじゃないかって」
「そんな話を、わしにも信じろと? そんなのは子供達の戯言じゃないのか?」
「そんな子供達を、大人の兵士達が追っているんですよ? 武器を持って、隊商の扮装をしてまでです。私には少なくとも、彼等が兵士に追われるような悪人には見えません。彼等が言ってることが事実で、彼等が探しているのが、本当にジェロくんだったら……?」
「ジェロだったら……彼等はジェロを連れて行くんだろう?」
「本当にジェロだったら、ジェロも兵士に捕らえられるかもしれないってこと?」
じっと話を聞いていたコキニーがおずおずと口をはさんだ。
それを聞いて、エルトロの膝の上で組まれた指に力がこもる。
「まだ、そうだと決まったわけでは無いんです。危険が無いかどうか、確かめるために……会わせるだけ会わせてみてはどうでしょう?」
そう言ったルビニは励ますように、エルトロの手へ自分の手をそっと重ねた。