26.メラース川に架かる橋は群衆の歓声に包まれる。
「具合はどう?」
ジェロは暗闇の中にじっと身体を横たえていた。そうしていると、衣擦れの音と荒い呼吸の音が、いやに響く。
パパルナの声がする方へ首を傾けると、仄かに揺らぐオレンジ色の小さな光が、土と岩の壁をちろちろと照らしているのが見える。
パパルナの影がジェロの傍らまで伸びて、山羊の毛で織られた敷物の上をゆらゆらと揺れていた。
血がどくどくと滾るように脈打ち、ジェロの身体中を駆け巡る。
熱に浮かされたジェロには、自分の存在が強風に煽られた小さな木の葉のごとく、ひどく頼りないものに感じられた。
「……父さんは、もう出発した?」
「ええ。昨日の朝にね」
「そうか……母さんは行かなかったんだ」
ジェロの朦朧とする意識の中で、先日浮かんだ幻影が、再び閃いて消えていった。
「あなたが交易市に行きたいなんて言うから、父さんに置いていかれちゃったわ。ジェロを頼むって」
パパルナの声が戒めるような言葉とは裏腹に、優しく響く。
「……言って良かったよ。母さんが残ってくれて……本当に良かった」
「ジェロったら、小さな子供みたいなことを言って──」
そう言ったパパルナの声が壁に反響するのを聞きながら、ジェロの意識は暗闇の中へと呑込まれていった。
ルビニは御者台の上で、メラース川に架かる石橋の向こうから、こちらへ渡って来る人達の顔を、ひとりひとり確かめている。
先日の雨で水嵩を増した川は濁流となって、のたうち蠢く蛇のように、禍々《まがまが》しいその身をくねらせていた。
夜通しで東へ向っていたライナス達は、日が傾き始めた頃、メラース川へ架けられた大きな石橋の袂に差し掛かった。
アンシュノには、カロス農園で譲ってもらった幌付きの荷車が繋いである。
距離を稼ぐため、夜の間はライナスが御者をつとめて、他の3人は荷車の中で休んだ。
夜が明けるとオゾスが交替して、今はライナスが荷車の中で寝息をたてている。
「追手は来てないみたい。そっちは?」
バステトは空から舞降りると、御者台に座るルビニへ声をかけた。
ルビニが答えようと口を開きかけたその時、橋の中ほどから悲鳴が上がった。
一瞬にして欄干の縁へ群がるように、大きな人集りが出来る。
「何が起きたんだ?」オゾスは荷車を止めて、集まった人達へ声をかけた。
バステトは再度上空へ舞上がると、慌てた様子で戻って来た。
「オゾス大変よ! ライナスも起きて! 人が川に流されてるのよ!」
オゾスは幌の中で眠っていたライナスを揺り起こす。
ルビニは御者台から滑り降りると、群がった人の間を縫って、欄干から首を出し、はるか下をながれる川に目を走らせた。
川上から流されて来た木の板に、小さな男が必死でしがみついているのが見える。
ルビニは目を細めて、流されて来る男の顔に目を凝らした。
「あの人──エルトロさんだわ!」
「あなたの知ってる人!?」ルビニの後を追って来たバステトが叫ぶ。
「そうよ、わたし達が探してた人! どうしよう、助けなきゃ!」
途中岩にぶつかって、エルトロがしがみついていた木の板は、木っ端微塵に打ち砕かれた。
エルトロは黒い水に翻弄され、呑まれそうになりながらも、なんとか橋脚に掴まる。
しかし濁流に揉まれて、今にも下流へ押し流されそうになっていた。
欄干に集まった人達は、叫ぶばかりで、どうすることも出来ない。
縄を降ろして助けようとする人もいたが、縄は風に吹き流されて、橋脚まではとても届きそうになかった。
「ぼく、行って来るよ!」
マントを脱いで欄干によじ登ったライナスは、両足をばねに弾みをつけて飛び上がると、大きな翼を拡げて滑空した。
力尽きて橋脚から手を離したエルトロは、川の底に引きずり込まれるかというあわやのところで、ライナスの腕に引き上げられる。
欄干の縁で息を詰めていた群衆からは、弾けるような歓声と拍手が沸き起こった。
ライナスが橋の上にエルトロを横たえると、見物人の山をかき分けて、ルビニが駆寄って来た。
ルビニは涙でぐちゃぐちゃになりながら、必死でエルトロへ呼び掛ける。
「エルトロさん! エルトロさん! しっかりして下さい!」
エルトロは息をしようとしたが、口と鼻の中に詰まった泥水に咽せて、咳き込んだ。
泥水を吐き出し、ぜいぜいと胸で呼吸をすると、エルトロは両手で目を塞ぐ泥を拭って、自分を呼ぶ声の主を確かめた。
「……ルビニじゃないか、大丈夫。大丈夫だよ、ありがとう」
そう言って、覆いかぶさるように顔を覗き込んでいた、ルビニの赤い髪を撫でる。
「良かった……本当に良かった! ありがとうライナス! 本当に良かった……!」
ルビニはエルトロの胸に顔を俯せて、声をあげて泣いた。