16.山羊使いのジェロはハシバミ色の瞳に幸福を映す。
「よう寝坊助! そろそろ行くぞ!」
翌朝ライナスがクラニアに起されて屋敷の裏手へ出ると、アンシュノの背に乗ったオゾスとステルコスが声を揃えた。
「お前が乗る分のアンシュノも、ちゃんと用意してあるぞ」
オゾスが指差した方を見ると、オゾスとステルコスが騎乗しているのとは別に、一頭のアンシュノが厩の横に繋がれている。
「行くってどこへ?」
ライナスは突然のことに驚いて、間の抜けた声を出した。
「決まってるじゃない。南へ行くの! お2人が交易市へ行くついでに、わたし達を案内して下さるって」
いつの間に決めたのだろう。
バステトは訳知り顔で、繋がれたアンシュノの腹を撫でながら言う。
腹を撫でられたアンシュノは、不満そうに鼻息荒く体を揺すった。
バステトはそんなアンシュノの態度を全く気にしていない様子だ。
「私ら南門のアルブは、交易もしているからね。知った道だ。途中までお伴するよ」
ステルコスが任せろというように胸を拳で叩く。
「それに、ログロッタが空を飛ぶとは限らないじゃない? 森を出ればわたし達、どうしても地面を歩かなくっちゃ。南には狼が出るらしいから、旅慣れた人の案内があったほうがいいと思ってお願いしたの」
バステトは自分の思いつきに満足したように瞳を輝かせている。
「いいんですか? お願いして。冬支度の忙しいこんな時期に」
「なに、これも冬支度のひとつだよ。アルブの織物と薬草を交易市で売って、トルルの育てた穀物やラ・ガと交換するのさ。いつものことだ」
オゾスはそう言ってアンシュノの背に括り付けた荷を指差す。
そこへ家の中から出て来たクラニアが、ライナスに焼きたてのチャムを手渡してくれた。
「これ、持って行って途中で食べてね。……あと、これも」
ライナスはクラニアにマントを手渡されて首を傾げた。
「ええと、これは?」
「見た所、厚手の物しか持って来てなかったようだから。
他の土地に行けば、アルブの容姿はただでさえ人目を惹くものよ。……きっと翼を持つアルブは、尚更の事でしょう。テロスではこれを着るといいわ」
「いろいろと……何から何までありがとうございます」
クラニアに見送られて、4人はデュシスの南門を後にした。
その頃、エターダム南に位置するテロス大地では、斑な髪の青年が1人丘の上に立っていた。
「明日あたりは雨になるか」
青く広がる空一面に、白く薄い鱗のような雲が漂っている。
ジェロはダプネの葉の間から落ちる柔らかな木漏れ日の中、空を見上げて呟いた。
アイルーロスの丘では、一対のダプネの雄樹と雌樹が1本の大樹のように寄り添って、さわさわと香りの良い葉を揺らしていた。
今年で17、8になるだろうかというジェロは、13年前にテロスの東にあるノトス坑道の近くでエルトロに拾われた。
血塗れになって倒れていたジェロが手にしていたのは、一振りの長剣だけだったという。
その時のショックからか、ジェロはそれまでのことを何一つ思い出せない。
エルトロとパパルナはノトス坑道近くで農業を営んでいる、トルル族の年老いた夫婦だった。
夫婦は傷が治っても記憶が戻らないジェロを、息子のように育ててくれた。
ジェロの厄介な体質にも、根気づよく対処してくれている。
こんな風に思っていると他人行儀だと叱られそうだが、ジェロはどこの何者ともわからない自分を大切に育ててくれた2人に、一生かかっても返しきれない恩を感じていた。
例え記憶が戻っても、ジェロは2人を今と変わらず親として愛し敬うだろう。
ジェロの周りでは小柄な山羊達が、草を食んだり、じゃれ合ったり、昼寝を決め込んだりと思い思いに過ごしていた。
草をよく食むか。水をちゃんと飲んでいるか。毛艶はいいか。糞におかしなところはないか。
3年前から、こうした山羊たちの世話と健康管理をジェロは仕事にしていた。
1年目は本格的に親方について山羊の放牧や除角、山羊の分娩と離乳等を手伝いながら基本を学んだ。
2年目になると山羊の病気への対処や良い草場と有害な植物の見分けかた等を学んだ。
今年になって、ジェロの覚えの良さと働きを認めた親方は、エルトロとパパルナが暮らす東の外れでも、ジェロがひとりで山羊使いの仕事が出来るようにと、お客との渡りをつけてくれた。
こうして3年目にして放牧頭の1人となれたことに、ジェロはやりがいと誇りを感じていた。
自分で飼っている山羊の数は、お客から預かっている山羊と比べればまだまだ少ないが、この調子だと預かり賃と乳を売った金を元手に、来年は2頭くらい増やしてもいい。エルトロとパパルナに、上等なアルブ織りの着物も買ってやろう。
今年は雨にも晴天にも恵まれ、丘の草木がよく育ったおかげで、山羊たちの体調は万全だった。よい乳が出て、パパルナのチーズも良い出来となった。交易市で高く売れるだろう。
エルトロの麦も、つい先日収穫したばかりだ。ぎっしりと詰まった麦穂が黄金色に輝いて、風に波打っていた風景が瞼の裏にまだ焼き付いている。
その時ジェロのハシバミ色の瞳は、穏やかで豊かなテロスの大地と幸福な将来を映すばかりで、忍び寄る危険など微塵も感じていなかった。