三度目
ご覧いただきありがとうございます。
今回は京子視点のお話です
私、杉山京子は現在三度目の小学六年生の真っ最中である。
今日、クラスメートの田村英樹君を家に呼んだ。田村君は六年生になってから、言動が急に大人びていて、更に数年先の総理大臣の名前を知っていて、まだ発売されていないビールの商品名を知っていた。
まさかとは思ったが、私と同じ転生方法で未来からやって来ているのではないかと思い、家に呼んで探りを入れてみた。
結果は私の予想通り、田村君もまた死んだ後に過去に転生して1986年に来ていたのだ。
田村君から聞いた話では、彼は42歳で交通事故に遭い亡くなったらしい。奥さんと息子さんを残して亡くなった田村君の無念さは計り知れないものがあるだろうと思った。
「田村君、私が自殺した世界の住人だったのね……」
家に来ていた田村君が帰ってから一時間、お風呂から上がり部屋を暗くしてベッドに入り、今日の事を思い出しながらいろいろ考えていた。
田村君が42歳まで生きた世界において、私は小学六年生の夏休みに自殺していた。つまり、最初の小学六年生の時である。私はベッドに寝転んでこれまでの人生を振り返っていた。
私は1974年福岡県北九州市八幡東区という所で生まれた。
母親は杉山光子、父親は……わからない。母は私が産まれた当時北九州市で夜の店で働いていた。夜の店といってもいろいろあるが、母が働いていたのは性的なサービスを売りとする店だった。
母には付き合いのあった男性が何人かいたようで、おそらく、その中の一人が私の父親ではないかと思われる。しかし、母と付き合いのあった男性達は、母が妊娠したと知ると急に母から離れて行ったようだ。
私を身籠った事で店を辞める事になり、出産後は工場勤めだった。私の幼少期は母が昼間の仕事だった事もあり、母子家庭で貧しかったのだが幸せな日々だったと記憶している。
しかし、お酒好きの母は夜に私が寝た後に街にお酒を飲みに出ていたようだ。行きつけの飲み屋で母はある常連の男性と意気投合したようだ。
しばらくすると、その男性は私たちが暮らすアパートに出入りするようになった。母はその男性にご執心のようで、男性もまた母を気に入っていたようだ。
その男性は多数の会社を経営する実業家を自称していたが、実際はソープランド等をいくつか経営していただけのようである。それでも、当時は珍しかった外車に乗り、見るからに高そうな腕時計を持つその男性は、母からすればたいそう輝いて見えたのだろう。
ほどなくして母はその男性と結婚した。男性は風俗店経営者とはいえ、家庭では普通の父親であり私にも優しく、他人がどう思うかは別として、私にとって一番良い時期だった。
しかし、幸せは長く続かなかった。
男性が経営していた風俗店が摘発され、男性は逮捕されてしまった。とはいえ、このような商売をしている以上、逮捕される事も想定内で、それ自体は問題なかったのだが、摘発以降売り上げが減って経営が行き詰まり始めたのである。
男性は店をさっさと売却し、別の場所で新たに商売を始める事にした。その新たに商売を始める場所というのが広島県福山市だったのである。
母と私、そして母が結婚した男性で福山市に越して来たのは1980年の事だった。
男性は福山市に来るとすぐに開業の準備を始めた。福山市には中四国有数の歓楽街があり、地価が安いのでテナント料が少なくて済む等、男性が福山市を新たな商売の地に選んだには理由があったようだ。
ちなみに、福山市ではソープランドの営業は禁止されているようで、男性は個室マッサージ店という形態の店を出す事にした。
なお、1980年当時はソープランドはトルコ風呂と呼ばれていたが、日本在住のトルコ人の抗議でソープランドと改称されたのはもう少し先の事である。
男性が出店した個室マッサージ店は経営も軌道に乗り、幸せな生活が戻ってきたのである。
しかし、母と結婚し私の父となった男性は翌1981年11月に突然亡くなった。まだ38歳の若さだったが、仕事を終えてマイカーを運転して帰宅中、疲れていたのだろうか、居眠り運転をしたようで、道路際の電柱に衝突して即死だったらしい。
母は男性が経営していた店を引き継いだ。元々、風俗嬢だった母は風俗店の運営のノウハウがあり、経営そのものに影響はなかったのだが、ようやく心を許せる男性を失った悲しみやストレスからかお酒に溺れるようになり、私に対してキツく当たるようになっていった。
1983年、私が小学三年生の頃、母が経営している店のマネージャーだという男性を自宅アパートに連れてきた。当時母は30歳、マネージャーは母とほぼ同じ年齢だった。私は母が再び素敵な男性と知り合い、幸せを掴めるのではないか、私自身にとっても父親となってくれる男性が来たと喜んだ。しかし、マネージャーはそのような男性ではなかった。数ヶ月して、マネージャーは店の売上金を持ち逃げして、二度と姿を見る事はなかったのである。
「こういう仕事をしている以上、こんな事は珍しい事じゃないわ。それを見抜けなかった私が悪いのよ」
さぞかし、母は落ち込んでいるかと思いきや、豪快に笑い飛ばし、売上金持ち逃げ事件は母には表面上は影響が皆無に見えた。
母は経営者としてはこんな事は平気だったのだが、一人の女としては少なからずショックを受けたようで、新たな男性を見つけなければと焦るようになっていたのである。
母が経営している風俗店は、経営そのものは順調で生活そのものに苦労はなかったが、お金では母の心は満たされなかったようだ。
1985年頃になると、母は店の常連客だという40歳くらいの男性と付き合うようになった。この男性はバツイチで建設作業員だった。
このバツイチさんは子供の私から見ても、母のお金目当てにしか見えなかったのだが、母はそれでも構わずバツイチさんを自宅アパートに連れ込むようになっていた。
バツイチさんは母の喜ぶ事を言って母の機嫌がいい時に小遣いを無心していたが、母はこのバツイチさんがお金目当てだとわかっていたのだが「いい男性と付き合うにはお金がかかるのは当然」と言って、バツイチさんにどんどん貢いでいたのである。
このバツイチさんは母に小遣いをせびるのはまだいいとして、困った性癖の持ち主だった。彼は所謂ロリコンという部類の人間であり、私にとっては大きな問題だった。
バツイチさんは早朝から夕方まで仕事をしている。当時は私の自宅アパートで母と同棲していたので、母が仕事に出ている夜から翌朝まで、私はこのロリコンバツイチさんと二人きりで過ごす事になる。
そのバツイチさん、最初のうちはやたら話しかけて来るだけだったのが、やがて一緒にお風呂に入りたがったりするようになり、最終的には挨拶変わりにキスをしたり、抱き締められたりするようになった。そして、お尻や胸、陰部を触られるようになってしまい、私は家に居る事が不快になってしまったのである。
しかしながら、私はどう対処したかと言われると、返答に困る。何も対処しなかったからだ。母に全てを話してもよかったのだが、母がバツイチさんと一緒にいる時の幸せそうな顔を見ると、それを壊す勇気を私は持ち合わせてはいなかったのだ。
私が母に告げ口しないとわかっていたためか、バツイチさんによる性的嫌がらせは六年生になってからも続いた。私の体も徐々に大人に近付いていたので、彼が幼児に欲情するタイプなら性的嫌がらせをやめるのではとかすかな期待を抱いていたが、肉付きのよくなりつつある私の体に以前にも増して興味を示すようになっていた。
当時の私にとって、学校に居る時間こそ安らげる時間であり、学校ではリラックス出来ていたので周囲には私の家庭における問題に気付く者はいなかったはずである。
私自身も、家庭外でそのような虐待を受けているというそぶりも見せないように注意していた。それは、仮にそのような事が明るみになれば母に非難が集中するだろうし、風俗店をやってるような親だからそんな事になるのだと言われるのは悔しかったからである。
よく誤解されるが、風俗嬢上がりで風俗店を経営する母は、親としてロクでもない人間なのだろうと言われるが、決してそのような事はない。私にとっては良い母親だったし、母と一時期結婚していた男性も良い父親だったと思っている。たまたま職業が風俗の仕事だったというだけで、人間性まで否定されるのは私にとっても本意ではない。そのような私の考えが、私に対する性的虐待を周囲に絶対漏らさなかった要因にもなっていたが、今思えばそれは間違っていたと思う。
1986年、小学六年生の夏休みがやって来た。夏休みなので、たまにある登校日以外は家に居る。つまり、それは私が性的な嫌がらせを受ける時間が長くなる事を意味する。
夏休みも8月に入ったあたりになると、私は極度のストレスで正常な思考を失っていた。しかし、それでも私は自分で出来る範囲での抵抗を試みた。
私は小遣いやお年玉を数万円貯めていた。そのお金を使い家出を試みてみたのである。
1986年8月11日、私が計画していた家出の決行日だ。なぜこの日を決行日にしたかというと特に理由はなかった。強いて言うなら、前日8月10日に仲良しの山岸徳子さんと市営プールに行く約束をしていたからである。友達との約束をすっぽかしたくなかったし、友達と遊ぶ事は私にとってとても楽しい事だったからである。
家出の決行日の朝、私は朝6時前に起床して、6時過ぎには家を出た。よそ行きの服を着て、財布には貯金全部を詰め込み、それをポシェットに入れていた。
歩いて福山駅に向かい、えきに着いたのは6時半頃だった。私は福山駅から電車に乗りどこかに行くつもりだった。
どこに行こうかと考えていたが、どうせどこかに行くならなかなか行けない場所に行きたくなった。新幹線の時刻表を前に、行き先を考えているうちに、新幹線の行き先で一番遠い東京に行ってみたくなった。みどりの窓口に向かい、東京までの切符を買い、改札口からホームへと向かった。
7時過ぎのひかり号の自由席に乗り東京に向かう。東京までは6時間近くかかるのだが、車内で私は自分がとてつもない冒険をしているようで精神的に高揚していた。
東京に着いたのはお昼過ぎ、東京駅から一度外に出て街を歩いてみるが、東京駅の周辺には目を惹くような建物はなく、当時の女子児童の憧れの街だった原宿に行ってみようと考えた。
原宿へ移動した私は夕方まで散策した後、どこで夜を過ごすか考えた。小学生だけでホテルに泊まれるわけがなく、かといって街中をウロウロしていたら補導される可能性もある。そうなると、どこか静かな場所で一夜を過ごそうと考えた。
どこかの公園で夜を明かすつもりだったが、都心部だと公園は深夜でも人の出入りがありそうだ。そこで、どこか郊外の公園にでも移動しようと考えた。
私は原宿駅から新宿駅へ移動し、新宿駅の駅ビルのハンバーガーショップで夕食を済ませて駅へ戻った。
移動する場所は繁華街より住宅地の方がいい、商店が立ち並ぶ場所よりも住宅地の方が公園がありそうだからである。
新宿駅に戻った私は、切符売り場で運賃表を見ながら住宅地らしい名前の駅を探した。しばらく探していて『つつじヶ丘』という駅名が目に入った。名前からすると、丘に住宅地が広がっているような感じである。そこで、つつじヶ丘までの切符を買い列車に乗る事にした。その時は何も考えていなかったが、今思えばその時乗ったのは京王線だった。
特急、急行などいろいろな種類があるが、つつじヶ丘に停まるかどうかわからないので、私は各駅停車に乗る事にした。30分くらい乗ってつつじヶ丘に着いた私は、駅を出て落ち着けそうな公園を探してみた。
つつじヶ丘駅周辺は今はどうなっているのか知らないが、当時は静かな住宅地で店はあまり多くなかった。しかし、あちこち歩き回ったが公園が見つからない。私の探し方が悪かったのかもしれないが、人目を避けて眠れそうな場所が無い。時刻も腕時計を見ると、夜9時を過ぎている。小学生が出歩いていると補導される可能性のある時間帯である。とにかく、何かないかと住宅地を歩き回っていると、ようやく夜は静かな場所を見つけた。
見つけた場所というのは墓地だった。深夜の墓地にわざわざやって来るような人はいないだろうし、その墓地は周囲をブロック塀に囲われており、道路を行き交う人の視線を避けられそうなのは好都合であった。
墓地に入った私は比較的広い区画を見つけた。まずは墓石前にひざまづき、手を合わせて今夜一夜を過ごさせていただく事のお詫びをした。
それから、列車内で拾った新聞紙を広げてその上に寝転んだ。夜の墓地は不気味とも言うが、死体がゾンビになって地中から出て来るわけでもないし、静かで虫の声が私にとっては心地よいBGMだった。そして、空一面の星を見るうちに眠ってしまっていた。結局、この墓地には私が死ぬ8月15日まで寝泊まりを続けた。当然、昼間はどこかへ出掛け、夜に墓地へ帰る生活だった。
翌8月12日から私の一度目の人生を終える8月15日までは東京のあちこちに出掛けた。原宿の次は銀座、六本木だと繁華街へ繰り出したり、東京タワーの展望台に上がってみたり、新宿駅近くの小さな映画館で映画を観たり、家出中とはいえとても満ち足りた時間を過ごす事が出来た。
しかし、そのような楽しい日々が続くはずもなく、8月15日になると所持金が底をついてしまった。福山まで帰る切符を買うお金を除くと、残りは1000円もないくらいだった。
この日は夜明け前に墓地を出て、つつじヶ丘駅周辺で時間を潰していた。なぜ夜明け前に墓地を出るのかというと、早朝になると朝の早いお年寄りが散歩がてらにお墓参りに来るかもと考えたからである。墓地に寝泊まりしていた時はずっとそうしていた。
人通りが多くなる時間になってから電車に乗り都心へと向かった。所持金の残りから判断して、この日が東京で過ごせる最終日になると考えていた。
私は東京に来てからは繁華街ばかりをウロウロしていたので、趣向を変えて上野に向かってみた。上野公園を散策し、上野動物園でパンダを見たりしているうちにお昼を過ぎていた。
動物園を出た私は、こちらで使える最後の1000円札を使い、上野駅の売店でパンとジュースを買って、駅のベンチでそれを食べて昼食とした。
それからどうするか、しかし、私に残された選択肢は福山に帰るというものだけである。
数日間、東京で楽しい日々を過ごしたためか、福山での日々に戻る事を考えると、帰りたくないという気持ちが頭の中に広がって行った。
私はどうしたらよいか考えながらフラフラと上野駅を出て、街中を歩きながら何時間も考え続けた。
『帰らなければ』『いや、帰りたくない』この二つの考えが頭の中を行ったり来たりしていた。
何時間歩いただろうか、そろそろ夕方になりつつある時間帯になった。福山へ帰るならそろそろ東京駅に戻らなければならない。東京駅に戻るにはどうしたらよいかわからないが、とりあえず手近な電車に乗れば山手線のどこかの駅に行けるはずだと考えた。
そんな事を考えながら歩いていると、先の方に踏み切りが見えた。踏み切りがあるという事は電車が走っている。線路伝いにあるけば駅があるだろうと思った。
私は踏み切りに向かって歩いていると、私が踏み切りに到達する寸前で遮断機が降りて足止めされてしまった。
踏み切りを電車が通過して行く、しかし遮断機は上がらない、反対側から電車が来るようだ。
この遮断機が上がれば私は福山に向けて一歩を踏み出さなければならない。そう考えると、帰りたくないという気持ちが広がって行った。
電車の音が近付いて来る。
私は無意識のうちに遮断機の下をくぐっていた。そして、間近に迫った電車の前に立ちはだかった。これが私の一度目の人生である。
普通なら、それでおしまいとなるのだが、私はそうならなかった。知らない場所で目を覚ました私の前に、見た事のない人物が現れた。
その人物は私達の言うところの神様というらしい。しかし、その神様が言うには、もう一度人生をやり直してみないかと言うのである。
私がなぜそんなチャンスを貰えたのかわからないが、もう一度人生をやり直すというのはどういう事か神様に尋ねた。
神様が言うには、死ぬ一年前に戻り、一年間暮らして前回の人生と変わらない状況で一年間過ごせば、死なずに続きの人生を送れるという。
冗談ではない、何であの人生の続きを生きて行かなければならないのか……
私は神様にそれは嫌だと言ってやった。すると神様は、それなら未来を変えればいい、たとえ未来が変わったとしても、続きの人生を送れるというのである。
それなら、まだ話しはわかる。何にせよ、人生を作り変える事が出来るわけである。
ちなみに、田村君は一度目の人生の続きを生きて行く事を希望しているようである。
私の二度目の人生はどこから始まるか、行ってみなければわからないと神様は言っていたのだが、行った先は1984年10月11日だった。
まだ、あのロリコンバツイチさんは私達の前に現れていない、私は小学四年生として平穏に暮らしていたのだが、翌1985年になると例のバツイチさんが現れた。
やはり、二度目の人生でもバツイチさんは私に手を出して来た。前回の人生では私は我慢するだけだったが今回の私は違っていた。
私はテープレコーダーを使い、バツイチさんが私にいたずらをする様子を録音した。本当は映像を録画したかったが、当時はビデオカメラは非常に高価で、庶民が簡単に手に入れる事が出来る物ではなかった。
いたずらをする様子を録音しそれを母に聞かせた。母は大きなショックを受けたようだが、バツイチさんを追い出してくれた。こんな事になったのは自分が風俗店などを経営しているからだと、母は一時期結婚していて、私の良き父になっていた男性の思い出が詰まった風俗店を売却した。
それからは二種免許を取得し、タクシー運転手の仕事に就いた。タクシーも夜勤があるものの、母と二人で団欒の時を過ごせる機会も増えて、私の人生は確実に変わって行った。
そして、二度目の人生が始まり一年が過ぎた1985年10月11日、眠っている私の夢の中にあの神様が現れた。
なお、田村君が会った神様はおばさんだったらしいが、私の前に現れたのはおじいさんの神様である。
神様は一年間過ごした結果、前回とは大幅に状況が変わったので、一度目の人生の続きに戻る事は出来ないと言った。私は戻るつもりはなかったので、それは全然問題なかった。
続いて神様は二度目の人生の続きを生きたいか、死後の世界の住人として生活したいか選べと言ってきた。
私は当然だが、二度目の人生の続きを生きたいと言った。
こうして、正式に二度目の人生がスタートしたのである。
二度目の人生とはいえ、一度目の人生と重複する期間は、1984年10月11日から1986年8月15日までの二年弱である。これくらいの重複なら大して影響もなく、家庭環境も良くなり私の二度目の人生は順風満帆であった。
充実した生活を送れていたため、以前にも増して勉強に身が入り、友達とも積極的に話すようになった。友達からは以前より親しみやすくなったと言われるようになり、一度目の人生ではあまり遊ばなかった子とも仲良くなれた。
小学六年生の1986年8月15日を過ぎてようやく未知の領域に入った。秋には修学旅行に行き、翌年春には小学校を卒業した。
私は中学校に入学すると勉強だけでなく、スポーツにも興味を持つようになり、バスケ部に入部した。
私の通っていた中学の女子バスケ部はあまり強くなく、福山市の大会に出場しても予選リーグで敗退していた。私は一年の時は補欠だったが、二年になると一般に3番と呼ばれるスモールフォワードというポジションでレギュラーとなった。
もちろん、勉強もしっかりと両立させ、文武両道の充実した中学生生活を送っていた。
私は中学校で勉強に部活に充実した毎日を送っていたが、程なくして同級生や上級生から告白されるようになっていた。友達からは羨ましがられたが、私の心境は複雑だった。私は一度目の人生で性的虐待を受けていたため、言い寄って来る男性がどうしても受け入れられなかったのである。
私は当然ながら、告白して来る男子が私に性的虐待をしようと考えているはずがないのはわかっていたのだが、それでも受け入れる事が出来なかったのである。
それでいて、私はいっちょ前に男子の体に興味があり、女子の友達とは別に、そばに居てくれる男子が欲しいと思うようになっていた。後から考えれば、何とも身勝手な話なのだが、彼氏は私自身が指名するという信念があった。
実は私は小学生当時から田村君に興味があった。田村君はルックスは普通だが、勉強もスポーツもまずまず出来る。何より真面目なところがいい。
とはいえ、小学生時代に二年間に渡り席が隣同士だったにもかかわらず、田村君は私に話しかけたりして来る事はほとんどなかった。したがって、田村君が私に興味がない可能性もある事が不安だった。
中学一年生の一学期だったと思うが、私は下校中たまたま田村君を見かけた。バスケ部の練習後なので、わりと遅い時間なのだが、田村君は中学時代はテニス部に所属しており、やはり彼も練習後であり下校時間が重なってもおかしくない。帰る方向が同じなので、むしろ、今まで見かけなかったのがおかしいと言えるかもしれない。
私はたまたま見かけた田村君に声をかけ、一緒に帰りながら次の日曜日は部活の練習がないと聞き出した。
そこで、私はその日曜日に田村君とどこかに遊びに行ければと考え彼を誘ってみた。田村君は、なぜ俺となんだという顔をしたが、最後は承諾してくれた。
その日曜日は、田村君と市内のショッピングモールで食事と買い物を楽しんだ。帰り道、自転車で並んで帰っていたのだが、田村君の家と私の家への道が別れる交差点。信号待ちをしながら私は田村君に告白した。
「俺と? わざわざ俺じゃなくても、他にいくらでもいると思うがな」
田村君の反応は想定内だった。私は田村君にイエスかノーかで答えるよう強く迫った。
「そっちがいいなら、俺はいいけど」
こうして、私は田村君と付き合うようになった。
それから、中学を卒業するまでは、同じクラスにならなかった事もあるが、私も田村君も部活に熱中していた事もあり、部活がない日に一緒に出掛ける程度の付き合いが続いただけだったが、私はそれでも楽しかった。
中学三年ともなると、女子の会話は男関連の話題が増えてくる。
早い子はもう初体験を済ませていて、それを自慢気に話していて、周りの女子はそれを羨ましがっていた。
他にも、年上の高校生と付き合うのを自慢する子もいたし、中には下級生にカワイイ男子がいて誘惑して虜にしてやったと誇らしげに話す子もいた。
私はよくなぜ田村君と付き合ってるのか聞かれた。田村君は他の女子から見れば、悪くはないが地味なタイプで、わざわざ女子の方から告白してまで付き合うほどではないと評価されていた。
他の女子にとって、田村君は面白味に欠けるのだろうが、私にとってはそこが田村君の長所だと思う。ワクワクする交際よりも、一緒に居て落ち着ける事が私の望みだった。だから、私にとっては、普通の男子で、真面目な田村君はうってつけの交際相手だった。
高校は互いに意識して選んだわけではないが、同じ高校に進学した。中学一年の頃の田村君の学力だと、ちょっと難しいと思われた高校だが、田村君は中学時代に部活だけでなく勉強もかなり頑張ったみたいで、卒業する頃には定期テストでクラスで五番目以内の成績を残せるくらいになっていた。
高校生になると、私と田村君との付き合い方に変化が現れてきた。
私は高校では部活はやらなかった。一応はバスケ部を見学したのだが、部員はみんな背も高く体格がよくて、私はとてもかなわないと思い諦めていた。
田村君も高校では部活はやっていなかった。毎日練習するのがめんどくさいからというのが理由だった。
放課後の時間が空いたので、私は田村君と放課後デートを楽しむようになった。もっとも、デートといっても、帰りにマックに寄り道したりする程度だったが、一緒に居る時間は中学時代より確実に増えた。
休日には一緒に遊びに行ったりする回数も増え、互いにお小遣いが足りなくなってきたので、私も田村君も放課後にバイトを始めた。バイトといっても、私は牛丼屋で、田村君はコンビニでバイトをして、バイト代を得て少し豪華なデートを楽しむようになった。
田村君は異性関係には極めて奥手なタイプで、彼の方から積極的に何かしてくるような事はなかった。デートの設定するのも私だったし、並んで歩く時も私から腕を絡めるし、初キッスも私から強引にくちびるを合わせなければならなかった。
何から何まで私がリードしなければならないのだが、田村君との交際を私の都合よくプロデュース出来るので、私にとっては好都合だった。
初のお泊まりデートは高二の夏休み、母が親戚の法事で鹿児島に行っている時を狙って田村君をうちのアパートに招待した。
こちらの世界の田村君が先程まで座っていた私のベッドに一緒に入り、イチャついただけでそれ以上の事はしなかった。
高二も秋になると、将来について真剣に考えなければならなくなってきた。私はOLになるより、何か専門的な知識を身に付けたかった。いろいろ考えた末に、管理栄養士を目指す事にした。栄養学を身に付けておけば、仕事だけでなく家庭でも役に立つからだ。
一方、田村君はというと、マーケティングに興味があるようで、商学部への進学を希望していた。
田村君は大学は東京にある大学へ進学した。彼は高校生になって、かなり勉強を頑張ったようで、三年にもなると、模試の成績は校内でも一桁の順位に入る事もあり、私の成績を越えていた。
私は大阪の大学に進学する事になった。田村君の近くにいたいので、本当は東京に出たかったのだが、母が東京での独り暮らしを心配して許可が下りず、大阪に行く事になった。
東京と大阪という、遠距離恋愛の典型例となった私と田村君だが、大学生になっても関係は続き、月に一度だが週末を一緒に過ごした。田村君が大阪に来る事もあれば、私が東京に行く事もあり、学業、バイト、サークル活動と忙しい時間の合間に時間を作り会うようにしていた。
大学生になり、私と田村君は月に一度しか会えなくなったが、逆に会える時間を大切にしたので私達の絆は深まったような気がする。
高校生の時は、田村君が恥ずかしがって越えられなかった一線をあっさり越えてしまったのは必然といえるだろう。
大学も三回生となると、就活に忙しくなってくる。当時は就職氷河期真っ只中であり、大学を卒業しても就職出来ない者が多数いた時代である。私は田村君のいる東京での就職を希望していたが、栄養士はわりと就職先があるようで、都内の老人介護施設に栄養士として内定を早々に貰っていたが、田村君はかなり苦労したようで、大企業は軒並みアウトとなり、新宿に本社のある中堅企業にようやく内定を貰っていた。
三回生から四回生になる前の春休み、1996年3月25日、この日は夕方からファミレスでのバイトがあり、帰宅したのは午後10時すぎ、シャワーを浴びてから晩ごはんを食べ、0時過ぎにベッドに入って眠りについた。そして、私は目覚める事はなかったのである。
翌3月26日の明け方、住んでいたアパートの別の部屋で火災が発生し、流れ込んで来た煙りに巻かれ、私は眠ったまま死亡したのである。
気が付いたら、はるか以前に記憶のある場所だった。そして、あの時と同じ神様がいて、本当は過去に戻れるのは一度だけなのだが、私はあまりにも気の毒なので、もう一度過去に戻してやろうと言われ、三度目の1986年にやって来ている。この三度目の世界は、どうやら、例のロリコンバツイチさんを追い出した後の世界であるが、母は風俗店の経営は辞めておらず、私にとっては未知の世界だったが、あのバツイチさんがいないなら何の問題はなかった。
そして、私の恋人となる田村君の様子をうかがってみると、どうも様子がおかしいので探りを入れてみると、彼もまた未来から来ていたのであった。
私はベッドで我に帰った。これまでの人生を振り返っていたが、様々な事が思い出された。
始まったばかりの、三度目の人生がどうなるかわからない。田村君の動向もはっきりしない。
(でも、絶対に田村君は離すものか)
私は田村君が考えているようないい子ではない。田村君がどういう人生を考えているかわからないが、私は私のやり方を貫く決意を新たにしていた。
次回は小学校での日常の話です。
お楽しみに




